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親鸞聖人の文及び典拠等

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の文及び典拠等

阿闍世王 提婆尊者  行雨大臣   守門者

2022-12-18
      阿闍世王
提婆尊者  行雨大臣
      守門者
浄土和讚
《浄土和讚》の中の
「讚阿弥陀仏偈和讚」と「大経意和讚」の間に、《観無量寿経》の登場人物が四組になって書き出されています
中でもこの組合わせでは、弑逆(しいぎゃく)の罪人提婆が、尊者とされて上段に位置しているのには目を見張ります。
聖人は提婆が阿闍世王をそそのかして、母后韋提希を苦しめたことが、母后が浄土を願う機縁となり、王の廻心をもうながす結果をもたらしたことに、深い意味をいただかれました。
浄土教の時機を熟させた尊者として、提婆を仰がれるのです。
       聞思抄より
 《参考》
浄土和讚
 浄土真宗聖典(西)565頁
 真宗聖典  (東)483頁
 高田聖典   529頁 613頁十二月十八日
      阿闍世王
提婆尊者  行雨大臣
      守門者
浄土和讚
《浄土和讚》の中の
「讚阿弥陀仏偈和讚」と「大経意和讚」の間に、《観無量寿経》の登場人物が四組になって書き出されています。
中でもこの組合わせでは、弑逆(しいぎゃく)の罪人提婆が、尊者とされて上段に位置しているのには目を見張ります。
聖人は提婆が阿闍世王をそそのかして、母后韋提希を苦しめたことが、母后が浄土を願う機縁となり、
王の廻心をもうながす結果をもたらしたことに、深い意味をいただかれました。
浄土教の時機を熟させた尊者として、提婆を仰がれるのです。
       聞思抄より
 《参考》
浄土和讚
 浄土真宗聖典(西)565頁
 真宗聖典  (東)483頁
 高田聖典   529頁 613頁

左訓

2022-12-17
浄土和讚  讚阿弥陀仏偈和讚 第八首
☆慈光はるかに かふらしめ
 (左訓)
  あわれむひかり
  慈というは父の慈悲にたとうるなり
☆ひかりのいたるところには
☆法喜をうとぞのべたもう
 (左訓)
  よろこび
  歓喜光仏を法喜という
  これは貪欲. 瞋恚. 愚痴の闇を
     消さん料なり
☆大安慰に帰命せよ
 (左訓)
  やすう やすからしむ
  大安慰は阿弥陀のみ名なり
  一切衆生のよろずのなげきうれえ
  わるきことを失いて
  やすく安からしむ
浄土和讚
 讚阿弥陀仏偈和讚 第八首
如来さまの大慈悲の光が、はるか彼方のお浄土から、悩み深い私のもとに到り届いています。
いま念仏するとき、その光の中に包まれているわが身を、しみじみと味あわせていただきます。
この遇法の喜びは大きく、生涯にわたって変わることなく、どんなにつらい時、悲しい時にも、心やすらかに明るく生きよとの、如来さまからの励ましの声といたたまいて、力強く歩ませていただきます。
      聞思抄より
《参考》
浄土和讚
   讚阿弥陀仏偈和讚 第八首
 浄土真宗聖典(西)558頁[一0]
 真宗聖典  (東)479頁下段
 高田聖典    517頁 600頁
讚阿弥陀仏偈和讚の五首から如来の光明、十二光を和讚されます。
第八首は歓喜光です。 
正信偈では第十三句
 《清浄歓喜智慧光》の箇所です。
歓喜光という光は、慈しみとしてはたらく阿弥陀さんの智慧(ちえ)の光は、私たちの心に生まれて止まない怒りや憎しみの心を和らげてくれます。

竊以(セツイ)

2022-12-15
教行証 化身土文類  後序
竊(ひそ)かにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、浄土の真宗は証道今盛んなり
教行証 化身土文類  後序
親鸞聖人が化身土巻の 末尾において、
《往生成仏の道は、聖道門自力で名ばかりて不可能になってきています。ただ浄土門他力念仏の見教えだけが、時機相応の法として今盛んになってきています》と、時機の盛衰を見極め宣言なさった御文です。
このあとに承元の法難に対する憤りをこめて、雑行を棄てて本願に帰入されたご自身の信心を披瀝(ひれき)され、
《悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す》
と結ばれたのでした。
          聞思抄より
《参考》
教行証  化身土文類 後序
浄土真宗聖典(西)471頁7行
真宗聖典  (東)398頁7行目
高田聖典     435頁9行目

自然といふは、

2022-12-13
高田御書 巻三 顕智上人聞書
自然といふは、
自はおのづからといふ。
行者のはからいにあらず
しからしむといふことばなり。
然といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず如来の誓ひにてあるがゆへに。
法爾といふはこの如来の御誓ひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふ
高田御書 巻三
顕智上人聞書
高田の第三世顕智上人が親鸞上人から受けた口述筆記です。
聖人八十六歳のときのことです。
これはその冒頭部分のおことばで、無為自然の道理である法は、他から何らの力を加えられることはなく、
おのずからしからしめられるものでそれが如来の願力、如来の、誓願なのです
だから行者のはからいは、少しもさしはさむ余地がないと仰せられます。
       聞思抄より

少欲知足

2022-12-11
仏説無量寿経 巻上
少欲知足(しょうよくちそく)
無染恚痴(むぜんにち)
三昧常寂(さんまいじょうじゃく)
智慧無碍(ちえむげ)
無有虚偽(むうこぎ)
諂曲之心(てんごくししん)
書き下し文
少欲知足にして染恚痴なし、
三昧常寂にして智慧無碍なり、
虚偽諂曲の心あることなし
仏説無量寿経 巻上
法蔵菩薩が本願成就ために、兆載永刧の修行をされた様子の中の一節です。
まず、欲が少なく足ることを知って、人間にそなわる貪・瞋・痴の煩悩に汚染されるということはまったくない。
その心は平静で明鏡止水のような悟りの境地で、うそいつわりやへつらいなどの曲った心は、微塵もなかったと説明されます。
私たち凡夫の心の底を見通して、発願し修行を成し遂げられた宝蔵菩薩のご苦労を肝に銘じたいものです。
      聞思抄より
《参考》
仏説無量寿経  巻上
 浄土真宗聖典(西)26頁12行目
 真宗聖典  (東)27頁5行目
 高田聖典     34頁10行目
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