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駅の物語

駅の物語

1903年に開業した池袋駅 開業は遅かったものの 以後は大発展を見せます

2021-10-25
Facebook 鉄道博物館さん曰く、
池袋駅平面図  1915年
開業から12年後の同駅の構内配線図。駅本屋(A)と2本のホームの位置は開業時と変わらないが、その上下(東西)に多数の貨物用の側線が設けられており、開業からわずか10年余りで駅の規模が大きく拡張されていることが分かる
池袋になれたかもしれない!?目白、板橋~山手線トリビア4
1903年に開業した池袋駅、開業は遅かったものの以後は大発展を見せます
 現在JR東日本の駅の中でも乗車人員トップを争う新宿、渋谷、池袋のうち、新宿、渋谷は日本鉄道品川線が開業した1885(明治18)年に開業しましたが、池袋はそれより20年近く遅い1903(同36)年の開業です。池袋の近隣では目白、板橋が品川線開業と同年に開業しており、目白は清戸道、板橋は中山道と江戸時代以来の街道との交差部付近に設けられていました。こうしたいきさつから、駅としての出発は目白、板橋の方が先行しており、池袋は後発だったことになります。
 しかし今では、乗車人員からみると池袋が両駅を大きく引き離しており、この違いはどうして発生したのでしょうか。豊島線の建設に当たっては目白分岐が有力でしたが、計画を進めるうちに広大な用地を確保できる池袋が選ばれました。また、この段階では分岐点に板橋が選ばれる可能性もあったはずですが、さすがに田端に向かうには遠回りとなるためか、退けられたようです。
 こうして品川線と豊島線の分岐点に池袋が選ばれ、それに合わせて駅が設けられました。その後1914(大正3)年に東上鉄道(現・東武東上線)が、翌年には武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が池袋を起点として開業し、これによって池袋のターミナル化が始まり、乗降客が増加していくことになりました。これに対して目白は今にいたるまで他線の接続はなく、板橋も戦前に東京市電が通り、戦後ようやく都営地下鉄6号線(現・三田線)が接続するようになったのみで、池袋のような多数の路線が乗り入れるターミナルとはなりませんでした。
 池袋は山手線の駅としては後発で、開業時は目白、板橋と規模的には大きな差のない駅でしたが、当初より品川線・豊島線の分岐点となり、その後、広大な用地を活用して私鉄路線が乗り入れてターミナル化したことで目白、板橋を追い抜き、山手線西側の大ターミナルへと成長していきました。いわば、こうした立地の差が明暗を分けたとも言えるでしょう。


池袋駅構内より赤羽方面をのぞむ 1903年頃

構内の信号扱い所から見た赤羽方。
左手にまっすぐ伸びるのが赤羽方面への品川線。
右手にカーブするのが豊島線の線路。
すでに複線分の用地が確保されている。
駅周辺には平坦な農地が広がっていた
池袋駅構内 1903年頃

開業間もない時期の北側から見た駅構内の様子。
左手(東側)に駅舎、跨線橋と2面のホーム、右手前に信号扱い所が見える。
平坦で広大な敷地が確保できる地に池袋駅は置かれた

山手線は山岳路線

2021-10-25
Facebook 鉄道博物館さん曰く、
1885年に開業した品川線 今の山手線の西側区間は アップダウンが激しい区間です
山手線は山岳路線~山手線トリビア3
1885年に開業した品川線
今の山手線の西側区間は
アップダウンが激しい区間です
 東京の中心部を走る山手線は一見平坦な路線に見え、電車に乗っていても平坦な区間を走っているように感じます。しかし実際にはアップダウンの激しい路線で、人によっては六つの峠越えを繰り返す、との説を唱えるほどです。
 東京の自然地形は西側の山の手と、東側の下町とに大きく分けられますが、はるか太古の昔は西から張り出した武蔵野台地が赤羽―王子―田端―上野―新橋―大森を結ぶ線で海に落ち、急傾斜の海食崖が入り江と交錯しながら南北に連なっていました。このため品川―新宿-池袋―田端は台地上の山の手の区間にあり、残りの田端-東京-品川は崖下の海の跡ということになります。さらに台地上でも石神井川、神田川、目黒川、渋谷川などの河川が谷を刻んでいるため地形の起伏が多く、山手線はこれらの川を横切っているため、盛り土や切通し(切り取り)などが各所に見られます。
 各駅の標高も、もっとも低いのは品川の2.9mで、浜松町は4m、田端は5.9mと、東側区間の標高はいずれも低く線路も平坦ですが、これに対して西側区間は五反田から一気に上りにかかり、代々木が38.7mと駅としてはもっとも高く、品川との高低差は35.8mに達しています。品川~代々木間の距離9.9㎞の間にこれだけ上ったことになり、これはオフィルビルの高さでは9階建てに相当します。さらに新宿は37.1m、池袋で32.6mと20~30m以上の標高で推移しています。そして山手線の最高地点は新宿の北、中央快速線の上下線・中央総武緩行線の上り線を乗り越す地点で、41.1mに達しています。
 このように、山手線は1周する間にかなりのアップダウンを繰り返しています。20‰(1,000m進む間に20m上下する勾配)を越える勾配区間も各所にあり、最急勾配は西日暮里~田端間にあって34‰にも達しており、山岳路線といっても差し支えないほどの勾配区間が各所に存在しているのです。
「山手線展」は2022年1月31日(月)まで開催中!

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特急列伝

2021-07-30

展望車特集ーマイテ39

2021-10-02
昭和33年7月東京駅。
マイテ39は2形式の流れを受けている。
昭和5年3月、初の鋼製1等展望車として大井工場で製造されたスイテ38(スイテ37000)が3両登場。この車両の展望室は白木屋式と呼ばれた洋風デザインで特急「富士」用とされた。
スイテ38に次いで昭和5年12月に、マイテ39(マイテ37010)としてやはり特急「富士」用1等展望車として大井工場で製造された。こちらの展望室のデザインは純和風の桃山式とし2両が誕生した。その豪華な室内はぼんぼりの様な天井灯、天井や壁に金色に散りばめた装飾金具等、工芸品としても一級品である。
室内配置はどちらも前位から展望デッキ・展望室・談話室・区分室・給仕室・洗面所・便所・車掌室・出入台とし、車体はダブルルーフでTR73を履いている。
戦時中はスハ38に改造予定であったが、そのまま使用停止となり、戦後も占領軍に接収されなかったスイテ38 2・マイテ39 1・2を昭和24年に復活した特急「平和」に使用される事となったが、マイテ39 1の車内破損が著しい為桃山式展望車をマイテ39 2にまとめることとし、残ったマイテ39 1は新しく簡素な洋式デザインとした。よって洋風2両、和風1両となった訳である。この際1等室は3両共1+2の座席配列とし、初のリクライニングシートを設計し最前位だけは向かい合わせの固定腰掛として定員14人とした。また前方に飲物等のサービスコーナーも置かれたので中央部の窓割が変更されている。
川崎重工業のKM式空気調和装置も取り付けられた。
その為記号が全て「マ」級となり、マイテ39 1はそのまま、桃山式マイテ39 2は11に、洋式スイテ38 2はマイテ39 21と改番された。
その後「つばめ」「はと」に使用されると共に青大将塗装となったが、予備車になっていたマイテ39 11は塗装変更されていない。昭和35年1等車廃止と共にマロテ39 1・11・21になっている。

冨田勲 新日本紀行

2021-07-14
名曲探訪 ・「新日本紀行」 富田勲 / Isao Tomita
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