動画等(アーカイブ)
仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】
V・E・フランクルのことば
2020-07-20
あなたが
どれほど人生に絶望しても、
どれほど人生に絶望しても、
人生のほうが
あなたに絶望することはない
あなたに絶望することはない
V・E・フランクル
『興真宗 観経玄義分試解』
2021-05-16
1995年安居本講 興真宗-観経玄義分試解
【試聴】「「顕浄土」の教学」廣瀬杲/法話CD「本願に生きた念仏者シリーズ」⑮|東本願寺出版
Facebook菊池進さん曰く
2021-03-21
昨日、宇佐市の如自當知の会へ。
急遽、当番として調声と感話を担当。
下手な調声にごめんなさいと想いつつ、感話も「僕にとっての感話といえば」ということで、僕の師から言われた「(聞く者からすれば)感話も法話も同じ」という思い出話をする。
下手な調声にごめんなさいと想いつつ、感話も「僕にとっての感話といえば」ということで、僕の師から言われた「(聞く者からすれば)感話も法話も同じ」という思い出話をする。
親鸞師のお手紙を読むと、かなり厳しいことが書かれてある。往生が定まるということに厳しい態度で相手に臨まれる。「毛穴からはいってくるんや」や「寝ててもいい」などとテキトーな感じではなく、相手と真向かいになる。真剣なんです。
大学時代、恩師・草野顕之師がゼミにて、学生の知識の量に関わらず、学生と真向かいになって臨まれるのを思い出す。
お手紙を読んだあとに、児玉暁洋師の『香草』巻頭言を読む。
「人間のもつ一番深い感情は尊敬の感情である」
(『児玉暁洋選集①』253頁)
と、児玉師も同様に真向かいになっておられる。
竹中智秀師の「初めに尊敬あり」というのも思い出していた。
特に特別な事、大きな事でなくとも、日常レベルにて、相手との会話などにおいて、「時」の開きの重要性。その「時」の開きの為に、相手と真向かいになる。巻頭言に「柔軟」ともあり、私が頭を下げざるおえない。
「時」の開きが教学ではないか。
草野先生にしても、児玉先生にしても、竹中先生にしても、相手の如何に関わらず、真向かいになる。ただそれだけのことが実は難しい。難しくしとるのは「私」なんや。
頭下げざるおえんようになる、ただそれだけの為に。
高光大船先生のことばより
2021-01-02
HP九州教務所 「今月の言葉」より
人は法を求むるに止まって、 法に生きることを忘れている高光大船
ある日、東本願寺の渡り廊下を歩いていると、掲示されているこの言葉に足が止まった。
「私は学習会に行ったりしているが、その場に行ったことに満足してそこから何か変わっただろうか。ただの知識になっているのではないか」
前々から思ってはいたけれど、なるべく考えないようにしていた自分の心を言い当てられたような気がして、ぎくっとしたからである。
今まで何度も「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活がいとなまれる」と和田稠先生の言葉を講義などで、うんうんと頷きつつ聞いてきた。しかし、できていない自分に気づきはしても「あ~できないなぁ」で終わらせている私がいた。
見ないふりをしていたのである。
法を求めるふりをして、そういう場に行って学ぶ自分という自己満足を満たすためにいっていたのではないかと、この言葉を見た時に感じた。
同時に「はたして私は法を求めているのだろうか、法を求めるとはどういうことなのか。
法に生きるとはどういうことなのか、お念仏の生活が頂けているだろうか」という問題から目をそらすな、如来の、私の声を聞きなさいと言われている言葉のように感じた。
(文/林田 真貴子)