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動画等(アーカイブ)

仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】

信國淳先生の話

2020-10-19
Facebook田畑正久さんの投稿より
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第384回
(令和2年7月27日掲載)医療文化と仏教文化(210)
宇佐市出身の信国淳(あつし)(1904- 1980年)先生は、真宗大谷派の僧侶を養成する大谷専修学院院長を長年務めました。学院の基礎をつくり、多くの人材を育てられました。先生の法話の中に次のような話があります。
ある日、少年だったお釈迦様が従弟の提婆(だいば)と一緒に森に遊びに行った。提婆は森の上を飛んでいる白鳥を見つけ、弓で射落とした。2人は獲物を手に入れようと駆け出した。そしてお釈迦様の方が早く見つけ、傷つきあえいでいる白鳥を抱き上げた。そこへ提婆が来て、射落とした自分のものだから返せと迫る。お釈迦様は、先に見つけたのだから自分のものだと譲らない。事の決着は、国中の賢者に委ねられたがまとまりません。
その時、一人の年老いた賢者が「全ての命は、それを愛そうとしている者のものであって、それを傷つけようとしている者のものではないのだ」と言われた。それを聞いた多くの人は深くうなずき、従わずにはおれない厳粛な気持ちになった、という内容です。
命は、それを愛するものにおいてのみ、命自身をのびのびと自由に生かすことができるから、生きる喜びに出合うことになると思われます。仏教は自由自在に生きる道を教えるのです。
自我意識が出てくる頃になると、「身」を自分のものだと思う様になります。小学校高学年、中学生ぐらいになると、自分の境遇を他と比べるようになります。自分の体力、運動能力、知力、親や家の職業、経済状態、住んでいる地域、さらには国や時代状況を分別して善悪、好き嫌い、格好の良い悪い、世間の評判などで自分の「身」を判断します。
どれも自分の理想の状況と比べると足りない。嫌だ、格好悪い、何でこういう境遇で…と、私は不足不満でいっぱいでした。その心境を生きていくのは、前出の老いた賢者の言葉を借りると、自分を愛そうということではなく、傷つけようとしていたのではないか。自分の思いが仏智に照らされて、がくぜんとしたのを覚えています。

一人ということ

2020-09-23

【試聴】「海の如し」仲野良俊/法話CD「本願に生きた念仏者シリーズ」⑥|東本願寺出版

2020-09-01
1970年高倉会館「日曜講演」における音声を収録。お聖教の言葉を一つひとつ丹念に読み解きながら本願のはたらきを語る。

【鈴木大拙】禅の教え〜A ZEN LIFE〜

2020-06-14
京都大学 西田幾多郎 無の哲人:禅の思想から日本哲学へ 

「本当の生命(いのち)は形があっても形がないのである」  曽我量深 

2020-05-12
形のない本当の生命(いのち)が見えないから、私たちは亡くなった大切な人の行方をさがし続ける。
  • 「本当の生命(いのち)は形があっても形がないのである」  曽我量深 

例えば、冬になると木の葉が落ちるが、それは木が枯れたからではなく一時的に樹の生命が地に埋もれているので、春になればまた芽をふくのである。形のない生命が形をとっていく。象徴である。生命あるものは全く象徴である。生命は作られるのではなく、生まれてくるのである。

(中略) 

作るというのは無から有を作るのであり、生むというのは生まれるべきものがあって生まれてくるのである。生むのは自然法爾に生まれる。それが象徴の世界である。この象徴の世界は誠に広い世界である。この世界を一如平等の世界、理屈のない世界という。

曽我量深『真実の救済』(文明堂発行)

 

 


 

形のない本当の生命(いのち)が見えないから、私たちは亡くなった大切な人の行方をさがし続ける。亡くなった大切な人の本当の生命(いのち)は間違いなく今も生き生きと生きていていて下さるのに、形しか見えない私たちには本当のいのちが見えない。

その本当のいのちばかりの世界が「浄土」と呼ばれる一如平等の世界であって、亡くなった大切な人も、この私も、この浄土に生かされて生きている。

どこまでも理屈の欲しいわたしだが、浄土が見えないわたしの暗さこそがそのままわたしを照らし出してくれている浄土の光を教え続けてくれる。

 


 

  

ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。 かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬ やうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

 弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。

つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

 正嘉二年十二月十四日

 愚禿親鸞八十六歳

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