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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

ラバウルの思い出

2021-01-23
昭和17年1月23日の本日、 ニューブリテン島ラバウを占領し航空基地に致しました。
Facebook英霊の本日の出来事より




ラバウル航空隊は南太平洋諸島の確保、機動部隊の支援を目的に昭和17年1月から基地航空隊としてポートモレスビー方面に進出して聯合軍航空隊に對して優位に戰斗を進めていた。
ニューブリテン島ラバウルは聯合國軍からはラバウルの要塞と呼ばれ、米海軍・米海兵隊・英領ニュージーランド空軍のソロモン方面と米陸軍・英領豪州軍の東ニューギニア方面の2方面に對する攻撃・防御および補給の起点の役割を果たしていました。
大東亞戰爭開戰後の昭和17年1月20-22日第一航空艦隊がラバウルを空襲し制圧。
昭和17年 1月25日 水上機部隊がラバウル地區に進出。
昭和17年1月31日96戰装備の千歳空分遣隊が空母瑞鶴、翔鶴で輸送されラバウルに到着した。
千歳空分遣隊飛行隊長兼司令岡本晴年大尉とともに搭乗員のみが先着。
昭和17年2月10日千歳空分遣隊と高雄空陸攻隊で4空(森玉司令)を編成。
昭和17年2月20日4空中攻隊、ラバウル攻撃米機動部隊の接近を察知し雷撃攻撃。
自爆・未歸還9機。 
昭和17年 2月23日1空中攻隊がラバウルに着任。
昭和17年2月24日からニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃を開始。1942年3月7日南海支隊の一部のサラモア上陸、海軍陸戰隊のラエ上陸で終戰まで続くニューギニアの戰いが始まる。
3月31日原田機96陸攻乗組員一同、モレスビー基地陣地へ自爆命令で特攻。
昭和17年4月臺南空がラバウルに着任(斉藤司令)。
4空の戰斗機隊は臺南空に編入される。
昭和17年4月10日1空は後退し本土木更津で再建に入る。
昭和17年5月3日浜空飛行艇隊、ガダルカナル島ルンガ泊地北東對岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出する。
画像は、ラバウル航空隊ブイン基地(1943年4月い號作戰時撮影)
(ウィキペディア参照。)

無理を重ねた挙句の結果は、不戦沈没でした。

2021-01-21
信濃もえっちらと作成 未だ軍艦旗掲揚前の艤装中の在りし日の信濃イメージ
Facebook森 一理さんより
基準排水量62,000英トン
公試排水量68,059トン
または68,060トン、69,100トン
満載排水量71,890トン
全長266.0m(艦首より後部機銃フラット後端まで
水線長256.0m
垂線間長244m
最大幅38.90m(水線下)または38.0m
水線幅36.30mまたは36.9m
深さ18.915m
24.81m(飛行甲板側線まで)
飛行甲板256.00 x 40.00m、または256.000x39.400m
エレベーター2基
吃水10.312m
10.3m(T.W.L)、10.4m(1.W.L.)
ボイラーロ号艦本式缶(空気余熱器付)12基
主機艦本式タービン(高低圧2組)4基
推進4軸x 225rpm、直径5.100m
出力150,000hp
または160,000shp
速力27.0ノット(予定) または 27.3ノット
燃料8,900トン(満載) または 9,000トン または7,350トン
航続距離10,000カイリ / 18ノット
乗員2,400名
1944年10月1日付定員 2,515人
兵装12.7cm連装高角砲8基16門
25mm3連装機銃 37基または35基
同単装機銃40基
12cm28連装噴進砲12基(後日装備)
装甲飛行甲板 20mmDS+75mmCNC鋼
舷側 160-270mmNVNC鋼(傾斜20度)
甲板 190mmNVNC鋼
軽質油タンク舷側25mmDS鋼2枚、

同甲板25mmDS+70mm鋼
レーダー21号電探2基
13号電探2基

:元帥ということ

2021-01-21
画像は、元帥徽章。
Facebook英霊の本日の出来事より

明治31年1月19日の本日、元帥府が設置されました。
明治31年1月19日元帥府設置ノ詔
朕中興ノ盛運ニ膺リ開國ノ規模ヲ定メ祖宗ノ偉業ヲ紹述シ臣民ノ幸福ヲ増進シ以テ國家ノ隆昌ヲ圖ラントス茲ニ朕カ軍務ヲ輔翼セシムル爲メ特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大將ノ中ニ於テ老功卓拔ナル者ヲ簡選シ朕カ軍務ノ顧問タラシメントス其所掌ノ事項ハ朕カ別ニ定ムル所ニ依ラシム
御名御璽
明治三十一年一月十九日
内閣總理大臣侯爵伊藤博文
條例全文
第一條 元帥府ニ列セラルル陸海軍大将ニハ特ニ元帥ノ称號ヲ賜フ
第二條 元帥府ハ軍事上ニ於テ最高顧問トス
第三條 元帥ハ勅ヲ奉シ陸海軍ノ検閲ヲ行フコトアルヘシ
第四條 元帥ニハ別ニ定ムル所ニ依リ元帥佩刀及元帥徽章ヲ賜フ
第五條 元帥ニハ副官トシテ佐尉官各一人ヲ附属セシム
(明治31年勅令第5號制定・大正7年勅令第330號改正)
(ウィキペディア参照。)

浅間丸事件

2021-01-21
Facebook英霊の本日の出来事より

昭和15年1月21日の本日、浅間丸事件が起きました。
昭和15年1月21日、房総半島野崎岬沖40キロの太平洋(公海)上で、英吉利海軍軍艦が日本郵船所属の客船「浅間丸」に對して、独逸人乗客中の戰時禁制人の發見のために行った臨検と、臨検により独逸人男性21人が戰時捕虜の名目で逮捕聯行されたこと。
及び、日英の外交交渉により独逸人船客9名が開放されるまでの一聯の國際的事件。
「背景」
昭和14年9月3日に英仏が第二次欧州大戰に於いて独逸に宣戰を布告し、9月4日には英吉利客船が独逸潜水艦に無警告で撃沈され多くの乗客が犠牲になるなど開戰當初より大西洋では熾烈な戰斗が繰り広げられました。
強力な海軍力を持つ英國は独逸商船隊を全世界の公海上で制圧して行動不能にし、自沈や中立國での係船を余儀なくするにいたらせた。 
併し、日本や亜米利加合衆國は昭和16年12月まで第二次欧州大戰には参加せず、また太平洋で独逸海軍による戰斗は發生しなかったことから、太平洋を挟んだ日米間では商船會社による定期運航が、戰爭當事國に関係する物資や人員の輸送に制約をもうけながらも平穏に行われていました。
「臨検と拉致」
英独開戰後、英國海軍省と日本各商船會社の間では戰時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定が結ばれていました。
併し、日本大使館の強い要請により日本郵船の「浅間丸」船長らは、ニュー・ジャージー州メイ岬沖で英國駆逐艦の追跡のため自沈した、独逸客船コロンブスの船員など51人を乗客に加え、昭和14年12月に桑港よりホノルルを経由して横浜港に向けて出航しました。
ところが、浅間丸は昭和15年1月21日に、千葉縣房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)で英吉利海軍の軽巡洋艦「リヴァプール」より空砲で停船を命じられ臨検を強制されました。 
臨検は士官3名と武装水兵9名により行われ、独逸人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、英軍が所持する名簿と照会の上「國際公法上の権利」として51名の聯行を通告した。
船長は當初拒絶したが、文字通り砲口を向ける英吉利軍艦の前で、ヘルマン・グロース船長など戰時禁制人と看做された21名の民間人男性乗客を「戰時捕虜」の名目で船内より逮捕聯行を認めた。
「事件後」
この事件で、1月16日に成立したばかりの米内光政(首相・予備役海軍大将)率いる米内内閣はいきなり難題を背負う事になった。
英吉利海軍側の「浅間丸」に対する公海上に於ける臨検と独逸人乗客に對する措置は、戰時國際法上適切なものであった。
これに對し、日本政府は明治42年の倫敦宣言47條「中立國船上から拉致できる者は既に軍籍にある交戰國人に限る」を原則としており、ロバート・クレーギー駐日英吉利特命全権大使を外務省に招致して正式に抗議した。
日本のマスコミ(各新聞)と國民も「帝國の面目に泥を塗った」などと一斉に英吉利海軍を非難したほか、友邦の独逸人を「無抵抗で引き渡した」船長・渡部喜貞に對しても激烈な批判を行った。
写真週報では「浅間丸独逸船客拉致事件」というタイトルをつけ、報知新聞は「國民の感情を無視するな」と訴えている。
だが21人の独逸人引渡しを拒んだ場合は、それが「浅間丸」の敵對行動とみなされた場合は、船體は拿捕の對象となり、乗客全員も一時的とはいえ抑留される危険をはらんでいた。
日本海軍首脳は、英吉利海軍の行動に関して自軍も同様の行動をとりうるとして特に問題とは考えず、船長の判断も妥當との認識であった(但し日本郵船は世論に考慮して1月24日には船長を交代させている)。
問題は戰時禁制人(軍属や徴兵可能な人間)をどこまで認めるかが焦点であった。
この点を米内光政内閣の有田八郎外務大臣はクレーギー大使を通じて英吉利政府に對して交渉を行い、英吉利政府もハリファックス外相を通じて行き過ぎがあったことを認める。
2月5日に以下の公式發表があった。
1.日本政府は、英艦の行為は遺憾とする英國政府の表明を了承する。
2.英國政府は、比較的に兵役勤務が難しい9名の解放に応じるが、12名の引渡し権利は放棄しない。
3.日英両政府は、この種の事件の再發防止に努める。
日本政府は、交戰國軍人(疑いある者含む)の乗船引受けを禁止する。
政治的解決を受けて、同年2月29日に9人が横浜の独逸領事館前で解放された。この事件は、當時関係が懸念された日本と英吉利の國際問題に發展したのみならず、國内では米内内閣を米英に對する「弱腰」とみなし日独伊三國同盟締結への材料の一つに使用された。
宇垣一成は1月26日の日記に、類似の事件を日本は沿岸封鎖中の香港やハイフォンの沖で起こしていることを指摘して、沸騰する日本の世論について恥の上塗りをしないような注意が必要だと書き残している。
(ウィキペディア参照。)

首相暗殺 2題

2021-01-18
Facebook亀山 紘さんより
東京駅には総理大臣の暗殺現場が2つある。
かつて日本では総理大臣が一般市民の前で暗殺・襲撃された事がある。
その舞台となったのが東京駅で、今でも暗殺の現場と分かる場所が2ヵ所ある。
通勤や観光など東京駅を利用する時、誰でも見られる場所にその痕跡が残されている。
1つ目は現在の東京駅の丸の内南口で、
1921年(大正10年)11月4日に当時の首相だった原敬(はら たかし、1856~1921年)が
当時の山手線大塚駅の駅員であった中岡良一により刺殺された。
原首相は短刀で右胸を刺され、その傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態だったという。
現在、東京駅のその場所には原首相遭難現場のプレートと床面には円の内部に六角形という形をした印が埋め込まれている。
もう1つの場所は、東京駅丸の内中央口から入った所にある中央通路の階段手前であり、こちらも床面に印が埋め込まれている。1930年(昭和5年)11月14日、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸(はまぐち おさち、1870~1931年)が銃撃された。
床面に埋め込まれた印の真上が現在の10番線乗り場・東海道本線のホームで、当時は特急つばめで濱口首相は神戸に行く予定だったが、そこをホームで愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から撃たれた。
銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。その後、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。しかし、その翌年にこの怪我がもとで死去した。このように東京駅には戦前の激動の中で起きた2つの暗殺現場が残されている。
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