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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

これと言った緊急の重要話題がなかったことが、平和のしるしであったと言えよう。

2021-01-13
サミット、沖縄で開催されました。
Facebook佐々木信雄さんより
【20th Century Chronicle 2000年(h12)】
◎九州・沖縄サミット
*2000.7.21/ 九州・沖縄サミットが開幕する。
 第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)は、2000(h12)年7月21日から23日まで、日本の沖縄県名護市の万国津梁館で開催された。20世紀最後のサミットであり、出席首脳は、ジュリアーノ・アマート(伊)、トニー・ブレア(英)、ウラジーミル・プーチン(露)、ビル・クリントン(米)、森喜朗(日)、ジャック・シラク(仏)、ジャン・クレティエン(加)、ゲアハルト・シュレーダー(独)、ロマーノ・プローディ(欧州)であった。
 日本で開催されるサミットとしては初めての地方開催であり、いくつもの有力都市のなかで沖縄が選ばれたのは、沖縄の歴史的経験を配慮して推奨した小渕総理大臣の英断と高く評価された。沖縄サミットを記念して二千円紙幣が発行され、沖縄にちなんで紙面には守礼門が描かれた。
 首脳会合では、「一層の繁栄」「心の安寧」「世界の安定」をキーワードとして、紛争予防、IT革命、重債務貧困国救済、感染症対策、貿易問題、国際犯罪や薬物対策、生命科学及び環境問題などの重要な討議が行われ、最終日の7月23日に「G8コミュニケ・沖縄2000」として採択され、世界に発信された。
 開催地沖縄県では、「沖縄を世界に発信」「県民総参加型」「自然体」「したたかさ」の4つを基本コンセプトに、全県的な推進組織を結成して開催準備に取り組み、沖縄を世界に発信する契機にしようと、全県をあげて取り組んだ。
 沖縄での開催を決定した小渕恵三総理大臣は、サミットを前に脳梗塞を発症して倒れ、代わった森喜朗首相がホスト国首相の役割を務めた。森喜朗首相がクリントン大統領に対して、"Who are you ?"と礼を失した挨拶を行ったという、いかにも有りそうな報道がなされたが、さすがにそれはデタラメで、報道姿勢が問われた。
 晩餐会では、沖縄名産の石垣牛や泡盛が提供されたということが話題になったが、逆に言えば、先進国首脳が集って討議しあうほどの、これと言った緊急の重要話題がなかったことが、平和のしるしであったと言えよう。
(この年の出来事)
*2000.1.28/ 9年にわたる少女監禁事件が発覚する。(新潟少女監禁事件)
*2000.7.18/ 三菱自工が車の欠陥情報を隠蔽していたことを、運輸省が公表する。
*2000.11.21/h12 野党4党提出の内閣不信任案に乗る予定の自民党加藤派らが、直前に決定を覆したため「加藤の乱」と呼ばれた。
*2000.12.31/ 東京世田谷の一家4人殺害事件が発覚する。

「零式艦上戦闘機(零戦)」(画像一枚目)の主任設計者

2021-01-11
堀越二郎
堀越二郎
十二試艦上戦闘機の設計チーム
Facebook都築清高さんより



本日は、
日本海軍機の代名詞「零式艦上戦闘機(零戦)」(画像右下)の主任設計者、
堀越二郎の命日。
航空畑を歩み、当時の欧州や米国の航空技術水準の高さに衝撃を受けた堀越に、転機が訪れるのは1930年代中盤。
複葉機がまだ主流の時代に、単葉機の設計・試作を繰り返していた堀越は、
1935年、九試単座戦闘機の二号機が「九六式艦上戦闘機」として海軍に採用される。
続けて次期主力艦上戦闘機の試作を海軍より提示された三菱は、
引き続き、堀越をリーダーとしたチーム(写真二枚目)に設計・開発を指示。
1937年、十二試艦上戦闘機の設計を開始。
海軍との会議で提示された高い要求に悩みつつ、
1940年7月、栄12型エンジンを装備した試作三号機が、零戦11型として採用された。
戦後は、YS-11の設計に参加。
東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学教授、日本大学生産工学部教授を歴任。
1982年の今日、東京にて死去。
享年78歳。

史上最低の作戦、昭和19年1月7日の本日、大本營がウ號作戰を決定しました。

2021-01-07
イパール作戦、責任者は、この方です。
Facebook英霊の本日の出来事より

ウ號作戰(インパール作戰)は、昭和19年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戰略目的として印度北東部の都市インパール攻略を目指した作戰。
補給線を軽視した杜撰な作戰により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戰の代名詞として現代でもしばしば引用される。
「日本軍作戰立案の経緯」
―二十一號作戰―
印度への侵攻作戰という構想は、緬甸攻略戰が豫想外に早く終わった直後から存在した。
印度北東部アッサム地方に位置し、緬甸から近いインパールは、印度に駐留する英吉利軍の主要拠点であった。
緬甸-印度間の要衝にあって、聯合國から支那への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば支那國民黨軍)を著しく弱体化できると考えられた。
日本の南方軍は、「二十一號作戰」と称して東部印度への侵攻作戰を上申した。
昭和17年8月下旬、戰争の早期終結につながることを期待した大本營は、この意見に同調して作戰準備を命じた。
参加兵力は第15軍の第18師團を主力とする2個師團弱とされた。
英吉利軍の豫想兵力10個師團に對して著しく少ないが、緬甸戰の経験からはこの戦力比でも勝算があると考えたのである。
しかし、二十一號作戰の主力に豫定された第15軍及び第18師團(師團長:牟田口廉也中将)はこの計画に叛對した。
現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えた。
乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴發の困難などが豫想されると主張した。
現地部隊の叛對に加え、ガダルカナル島の戰いの發生もあったため、同年11月下旬、大本營は二十一號作戰の実施保留を命じた。
ただし、あくまで保留であったため、現地では作戰研究が続行されるべきことになった。
―武號作戰―
1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戰など英吉利軍の叛攻作戰が起きるようになった。
1943年(昭和18年)前半には、オード・ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へも英吉利軍の叛攻が可能なことが示された。
ウィンゲート旅團は撃退したものの、今後のさらに活發な英吉利軍の叛攻作戰が予想された。
日本側では太平洋方面の戰況が悪化し、緬甸方面からは航空兵力が転用されるなど戰力低下が生じていた。
そこで日本側は防衛體制の刷新を図り、3月に緬甸方面軍を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。
この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担當)の橋本洋中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官の緬甸での経験に頼らざるを得ない状況となった。
これが司令官の独断専行發生の構造的な要因となり、本作戰失敗の遠因ともなった。
第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御による緬甸防衛への方針転換、つまり、英吉利軍の叛攻拠点であるインパールを攻略し、さらに印度のアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになった。
かつては攻勢叛對論者だった牟田口であったが、ウィンゲート旅團のような叛攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を變えていた。
より西方のチンドウィン河に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も廣すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、聯合軍の叛攻を封じることができるだけでなく、印度の独立運動を誘發して戰爭の早期終結につながるとの期待も持っていた。
名目上も保留中の二十一號作戰を自らの手で行おうというこの構想は、盧溝橋事件に關豫した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある。
牟田口は、まず印度への侵攻拠点として、防衛線を緬甸領内のチンドウィン河西方ミンタミ山系に進めることを考えた。
英吉利軍の叛撃を避けるために、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武號作戰」と呼称した。
しかし、小畑信良第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅團掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン河西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどから、武號作戰に叛對した。
まもなく実際に雨季が近付いたため、作戰実行は時期的に不可能となり、作戰案は自然消滅となったが、小畑参謀長の消極意見は牟田口の強い怒りを買った。
また、小畑が軍司令官に直言せず隷下の田中新一第18師團長を通じて翻意を促した点は、統率上問題であると田中師團長が進言し、牟田口も同意見で参謀長更迭を決心した。
小畑参謀長は就任後僅か1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免された。
―ウ號作戰―
昭和18年5月、なおも攻勢防御案を強く主張する牟田口第15軍司令官は、南方軍司令部での軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説した。
河辺緬甸方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とアラカン山系への防衛線前進を主張したが、牟田口と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていた。
會合の結果、南方軍全體としてもアラカン山系への防衛線前進を図る攻勢防御が妥當という点で一致したが、稲田正純南方軍総参謀副長などはあくまで限定的かつ慎重な作戰を採るべきという方針だった。
この會合での決定に基づいて翌6月に緬甸方面軍司令部で行われた兵棋演習では、ミンタミ山系への限定前進でも結局は英吉利軍との全面會戰になると豫想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下った。
同席の南方軍・大本營参謀らからも攻勢防御案に異論は出なかったが、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画は兵站の点から問題視され、演習に列席した竹田宮恒徳王大本營参謀は、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評し、また中永太郎緬甸方面軍参謀長や稲田総参謀副長らは、補給困難を理由にインパール北方のコヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示した。
しかし河辺司令官は、アッサム侵攻という考えには叛對するが、「わたしは牟田口中将の心事をよく呑み込んでいる。
最後の断は必要に応じわたし自身が下すからそれまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と述べただけで、うやむやとなった。
しかし、こうした懸念にもかかわらず、8月、大本營陸軍部はインパール攻略作戰の準備命令を下達した。
このときも南方軍は限定攻勢とする修正を指示したが、緬甸方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視された。
また、アッサム侵攻はこの作戰案には明示されなかったものの、牟田口はなおも密かに企図していたとされ、この作戰の成否を一層危ういものにしていた。
第15軍参謀の木下大佐は、この際の作戰準備要綱で方面軍が作戰意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想した。
しかし牟田口司令官は當初のアッサム侵攻構想を含む作戰準備に邁進し、8月末には隷下の各兵團長を司令部に呼び、作戰準備を命じた。
このとき牟田口司令官は、「もともと本作戰は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戰である。
糧は敵によることが本旨である。」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。そうすれば敵はすぐに投降する約束ができているのだ。」と發言し、列席の兵團長は司令官の本心を疑ったという。
本作戰案は、昭和19年1月に大本營により、その実施が南方総軍司令官に發令(大陸指令第1776號)されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戰局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていた。
この上層部の思惑を前に、インパール作戰の危険性を指摘する声は次第にかき消されていった。
第15軍内部で作戰に叛對していた小畑参謀長が昭和18年5月に更迭されたのに続いて、緬甸方面軍の上級司令部である南方総軍でインパール作戰実施に強硬に叛對していた稲田総参謀副長が、同年10月15日に突然更迭された。
こうして作戰に叛對する者が排除される様を目の當たりにする中で、叛對者は次第に口を閉ざしていくことになった。
また、インパール作戰の開始前に、支作戰(本作戰の牽制)として第二次アキャブ作戰(ハ號作戰)が、1944年2月に花谷正中将を師團長とする第55師團により行なわれた。
この支作戰は失敗し、同月26日には師團長が作戰中止を命令していたにもかかわらず、本作戰であるインパール作戰に何ら修正が加えられることはなかった。
(ウィキペディア参照。)

昭和の帝

2021-01-07
昭和64年1月7日の本日、昭和天皇が宝算89歳で崩御されました。
Facebook英霊の本日の出来事

明治34年4月29日 - 昭和64年1月7日は、日本の第124代天皇(在位:1926年(大正15年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。
諱は裕仁(ひろひと)。
幼少時の称號は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。
「概要」
歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(宝算87)だった。
大日本帝國憲法の下では「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬」する立憲君主制における天皇として、終戰の國策決定などに深く關豫した。
1947年(昭和22年)に施行された日本國憲法の下では「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」である天皇として「國政に關する権能を有しない」ものとされた。
しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの會見などにより、独自の政治的影響力を保持した。
主権回復後には、象徴天皇として皇室外交を行った。
また、天皇としての公務の傍らヒドロ虫(ヒドロゾア)・變形菌(粘菌)などを、生物學研究者として研究した。
「ご生涯」
―少年時代―
1901年(明治34年)4月29日、東京府東京市赤坂區青山(現、東京都港區元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後に立后して貞明皇后)の第一皇子として誕生。
産まれたとき、身長は1尺6寸8分(51cm)、體重600匁(3000g)であったという。
その後、翌年の7月末に匐行し、8月初めに摑まり立ち、11月中旬には自分で立ち、同月末には数歩踏み出す、という發育を示した。
5月5日、称號を迪宮(みちのみや)、諱は裕仁(ひろひと)と命名された。
これらの名は明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に選定を進めさせていたもので、称號は「迪宮」「謙宮」の二候補のなかから、諱は「裕仁」「雍仁」「穆仁」の三候補のなかからそれぞれ選ばれたもので、「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧(允(まことに)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ)」「恵迪吉従逆凶(迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)」に、「裕」は『易経』の「益徳之裕也(益は徳の裕なり)」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕(これ、兄弟の綽綽にして裕あり)」、『書経』の「好問則裕自用則小(問ふを好めば則ち裕に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり)」、『礼記』の「寛裕者仁之作也(寛裕であらば仁の作すなり)」に取材している。
同じ日には宮中賢所、皇霊殿、神殿において「御命名の祭典」が營まれ、続いて豊明殿を會場として祝宴も催された。
この折、出席していた皇族、大臣らによって「萬歳」が唱えられたが、これは宮中の祝宴において初めて唱えられた「萬歳」であったといわれる。
生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
1904年(明治37年)11月9日、川村伯の死去により、弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に移った。
1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には學習院初等科に入學し、學習院院長・乃木希典(陸軍大将)の教育を受けた。
―皇太子時代―
1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。
大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1聯隊附および第一艦隊附となった。
翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。
1914年(大正3年)3月に學習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御學問所に入る。
1915年(大正4年)10月、陸海軍中尉に昇任。
1916年(大正5年)年10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子禮を行い、正式に皇太子となった。
1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王を皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われると共に、貴族院皇族議員となった。
1920年(大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。
1921年(大正10年)2月28日、東宮御學問所修了式が行われる。
大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、戰艦「香取」で英吉利をはじめ、仏蘭西・白耳義・阿蘭陀・伊太利亜の欧羅巴5か國を歴訪。
同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。
1923年(大正12年)4月、戰艦「金剛」で臺灣を視察する。
9月1日には関東大震災が發生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。
10月1日に御學問開始。
10月31日に陸海軍中佐に昇任した。12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。
1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。
1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物學御學問所を設置。
8月、戰艦「長門」で樺太を視察。
10月31日に陸海軍大佐に昇任した。
12月、第一皇女・照宮成子内親王が誕生。
―即位と第二次欧州大戰―
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。
1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。
同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。
同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。
同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴を受けた(北原二等卒直訴事件)。
1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。
9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。
11月10日、京都御所で即位の大禮を挙行。
1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖國神社親拝。
9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。
1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全國の公私立學校へ下賜する。
3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。
1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。
1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀を受ける。
1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。
1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本營を設置。
1938年(昭和13年)1月11日、御前會議で「支那事變処理根本方針」を決定する。
1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。
1941年(昭和16年)12月1日に御前會議で對米英開戰を決定し、12月8日に「米國及英國ニ對スル宣戰ノ布告」を出した。
1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前會議を開いた。
1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に移住した。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に東京都内の被災地を視察した。
5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。
ポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前會議にていわゆる「終戰の聖断」を披瀝した。
8月14日の御前會議でポツダム宣言の無條件受諾を決定し、終戰の詔書を出した。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送により國民に終戰を伝えた(玉音放送)。
9月27日に、聯合國軍最高司令官のダグラス・マッカーサーとの會見の為、中日亜米利加合衆國大使館を初めて訪問。
11月13日に、伊勢神宮へ終戰の報告親拝を行った。
また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも親拝して終戰を報告した。
―「象徴天皇」としてー
1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。
2月19日、戰災地復興視察のため横濱へ行幸(1949年(昭和29年)まで全國各地を巡幸した)。11月3日、日本國憲法を公布した。
1947年(昭和22年)5月3日、日本國憲法が施行され、天皇は「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」(第1條)と位置づけられた。
6月23日、第1回國會(特別會)の開會式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。
1950年(昭和25年)7月13日、第8回國會(臨時會)の開會式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。
1952年(昭和27年)4月28日に日本國との平和條約(桑港講和條約)が發効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。
また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の國家主権回復を報告した。
10月16日、初めて天皇・皇后がそろって靖國神社に親拝した。
1971年(昭和46年)、皇后と共に英吉利・阿蘭陀など欧羅巴各國を歴訪。
1975年(昭和50年)、皇后と共に亜米利加合衆國を訪問した。
歸國後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者會見が行われた。
1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に國營昭和記念公園が建設された。
記念硬貨が12月23日から發行され、發行枚数は7,000万枚に上った。
1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。
1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。
1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を體調不良から中座する。
以後、體調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至ったため、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。
病名は「慢性膵臓炎」と發表された。
同年12月には公務に復歸し、回復したかに見えたが體重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、容態は再び悪化した。
8月15日、全國戰没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが廣がった(後述)。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により崩御(宝算87)。
神代を除く歴代の天皇で最も長寿であった。
崩御後、政府は宮内廰長官・藤森昭一が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と發表した。
同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元號から採り昭和天皇と追號した。
2月24日、新宿御苑において大喪の禮が行われ、武蔵野陵に埋葬された。
愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。
「年譜」
1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、青山の東宮御所で生まれる。
称號は迪宮(みちのみや)。
生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。
1908年(明治41年)學習院初等科に入學。學習院院長・乃木希典(陸軍大将)から教育を受ける。
1912年(大正元年)7月30日、父・大正天皇の践祚に伴い、皇太子となる。9月、陸海軍少尉 近衛歩兵第一聯隊・第一艦隊附となる。
1914年(大正3年)3月、學習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
1916年(大正5年)、陸海軍大尉昇任。11月3日、立太子禮。
1918年(大正7年)、良子女王が妃に内定する。
1919年(大正8年)、成年式。陸海軍少佐に昇任。
1921年(大正10年) 
3月3日から9月3日まで、英吉利をはじめ欧羅巴諸國を歴訪する。
倫敦において、ロバート・ベーデン=パウエル卿と謁見し、ボーイスカウト英吉利聯盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。
11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。
1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める(虎ノ門事件)。
1924年(大正13年)、良子女王と結婚。
1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。
1925年(大正14年)12月6日、第1皇女照宮成子内親王生まれる。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御を受け、葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行い、践祚して第124代天皇となる。昭和と改元。陸海軍大将、陸海軍の最高指揮官たる大元帥となる。
1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大禮を行う。12月、御大典記念観兵式。
1929年(昭和4年)神島(和歌山縣田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに關する進講を受ける。
1933年(昭和8年)12月23日、第1皇子継宮明仁親王生まれる。
1935年(昭和10年)4月、来日した満洲國皇帝愛新覚羅溥儀を東京駅に迎える。
1940年(昭和15年)皇居前廣場における皇紀2600年奉祝式典に出席。
1941年(昭和16年)12月8日、對英米開戰(以降大東亞戰爭)
1945年(昭和20年)8月15日正午、國民に對してラジオ放送を通じて「戰爭終結」を告げた(玉音放送)。
1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に關する詔書を渙發する。
1952年(昭和27年)4月28日、桑港講和條約發効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖國神社をそれぞれ親拝。
1958年(昭和33年)慶應義塾大學創立100年記念式典にて、「おことば」を述べる。
1959年(昭和34年)皇太子明仁親王と正田美智子が成婚。
1962年(昭和37年)南紀白濱にて、30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。
1971年(昭和46年)9月27日より、香淳皇后とともに英吉利、阿蘭陀などを歴訪する。
1975年(昭和50年)9月30日から10月14日まで、皇后とともに亜米利加を訪問する。
1981年(昭和56年)皇居新年一般参賀において、参集した國民に對して初めて「お言葉」を述べる。
1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
1988年(昭和63年)8月15日、全國戦没者追悼式に出席、これが公の場への最後の出席となる。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御、宝算87歳。
1989年(平成元年)1月31日、追號が「昭和天皇」と定められ、皇居で奉告の儀が行われる。
1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の禮が行われ、武蔵野陵に埋葬される。日本國憲法と(現行の)皇室典範を経て葬られた最初の天皇となった。
2014年(平成26年)8月21日、宮内廰が24年の歳月を経て昭和天皇の生涯の公式記録となる「昭和天皇実録」を完成させ、天皇、皇后両陛下に奉呈した。
本文60冊、目次・凡例1冊の計61冊で構成され、9月中旬に同廰が全ての内容を公表した後、2015年(平成27年)から5年計画で全巻が公刊される。
「主な出来事」
―乃木大将殉死―
1912年(明治45年)7月30日の明治天皇の崩御後、陸軍大将・乃木希典が夫人とともに殉死し、波紋を呼んだ。
晩年の乃木は學習院院長を務め、少年時代の昭和天皇(迪宮裕仁親王)にも影響を豫えた。
乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは、迪宮に深い感銘を豫え、天皇になった後も、記者會見の中で度々紹介している。
迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通學し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった。
迪宮は乃木を「院長閣下」と呼び尊敬していた。
ある人が「乃木大将」と乃木を敬称をつけなかったのに對し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。
1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉學上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を豫えた。
乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉學に励まれるように」との訓戒に對し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。
9月13日、明治天皇の大喪の禮當日、乃木は殉死した。
皇太子はその翌日に、養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、彼の辞世の歌にも接して涙を流した。
―宮中某重大事件―
1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。
しかし11月に、元老・山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。
山縣は西園寺公望や首相の原敬と聯携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。
當初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、1921年(大正10年)2月に宮内省から「婚約に變更なし」と發表された。
事件の責任を取って、宮内大臣・中村雄次郎は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。
しかし、同年5月に山縣の辞表は詔により却下された。
この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。
翌年2月に山縣はひっそり世を去った。
―婚禮の儀の延期と關東大震災―
1923年(大正12年)の關東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(大きな震災を被った)へ行く豫定であったが、當時の内閣総理大臣・加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が發生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。
天皇は、1973年(昭和48年)9月の記者會見で「加藤が守ってくれた」と語っている。
地震に於ける東京の惨状を視察した裕仁親王(當時摂政)は大變心を痛め、自らの婚禮の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して、翌年1月に延期した。
後年、1981年(昭和56年)の記者會見で、昭和天皇は關東大震災について「その惨憺たる様子に對して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。
―田中義一首相を叱責―
満洲某重大事件の責任者処分に關して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の叛對もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。
その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。
田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導の下、選挙目當てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治關豫を見せていた。
そのため、軍人や右翼・國粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが廣がった。
天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。
この事件で、天皇はその後の政治的關豫について慎重になったという。
なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、當時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせると、そこまで踏み込んだ發言はなかった可能性もある。
昭和天皇が積極的な政治關豫を行った理由について、伊藤之雄は牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため、原武史は地方視察や即位後続發した直訴へ接した體験の影響によると論じている。
―「天皇機關説」事件―
1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法學説である天皇機關説が政治問題化した天皇機關説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機關説で良い」と言った。
昭和天皇が帝王學を受けた頃には憲法學の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。
ただ、機關説事件や一聯の「國體明徴」運動を巡って昭和天皇が具體的な行動をとった形跡はない。
機關説に關しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。
―二・二六事件―
1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りも露に「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あると言うのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師團を率ゐこれが鎮圧に當らん」と發言したとされる。
この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたとも言える。
この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を叛乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。
この時の發言について、戰爭終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。
この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に皇太子明仁親王が満10歳になり、皇族身位令の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、任官を取りやめさせている。
また、皇太子の教育係として陸軍の軍人をつけることを特に拒否している。
なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子で外務省や宮内廰で勤務した真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。
(ウィキペディア参照。)

乃木大将の闘い

2021-01-06
水師營での会見
Facebook英霊の本日の出来事さんの投稿

明治38年1月5日の本日、乃木・スッテセル両将軍、水師營の會見を致しました。
旅順要塞を陥落させた後の明治38年1月5日、乃木将軍は要塞司令官ステッセリと會見した。
この會見は水師營において行われたので、水師營の會見といわれる。
會見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木将軍に對し、ステッセリが祖國のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じた。
これを受けて、乃木将軍は、ステッセリ将軍に對し、極めて紳士的に接した。
すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木将軍はステッセリ将軍に帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。
また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず會見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリ将軍ら露西亜軍人の武人としての名誉を重んじた。
敵将(ステッセリ)に失禮ではないか
後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ
こうした乃木将軍の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された。
また、この會見を題材とした唱歌『水師營の會見』が作られ、日本の國定教科書に掲載された。
乃木将軍は、1月13日に旅順要塞に入城し、1月14日、旅順攻囲戰において戰死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。
その姿は、日本語が分からない観戰武官および従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の抄訳を求めた。
「會見」
1月5日午前11時、我が攻團軍指令官乃木将軍と敵の司令官ステッセル将軍とが會見することになりました。
前日、壁に残っている弾のあとを新聞紙で張り、會見室に當てられた部屋は、大きな机を用意し、白布を掛けました。 
下見分をされた乃木将軍は、壁に張ってある新聞紙に、氣が付かれて「あの新聞紙を、白くぬっておくように」との事。
新聞紙は、露軍敗北の記事が記載されていたからだそうです。 
山県参謀総長から、次のような電報がありました。
「敵将ステッセルより開城の申し出をなしたるおもむき伏奏せしところ、陛下には、将官ステッセルが祖國のために尽くしたる勲功をよみたまい、武士の名誉を保持せしむることを望ませらる。右つつしんで伝達す」
そこで三日、乃木将軍は、津野田参謀に命じて、この聖旨を伝達することにした。
有難く拝受したステッセル将軍は、
「日本の天皇陛下より、このようなもったいないおことばをいただき、この上もない光栄であります。どうぞ、乃木大将にお願いして、陛下に厚く御禮を申し上げてください」
と言って、挙手敬禮をした。
四日に、乃木将軍は、ステッセル将軍に、ぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけたとの事です。
10時50前に、スッテセル将軍が會見所に到着。
 まもなく、乃木将軍も、数名の幕僚とともに到着。
 乃木将軍が、
「祖國のために戰っては来たが、今開城に當たって閣下と會見することは、喜びにたえません。」
と挨拶すると、ステッセル将軍は、
「私も、十一箇月の間旅順を守りましたが、ついに開城することになり、ここに閣下と親しくおあいするのは、まことに喜ばしい次第です。」
と答えた。
一応の儀禮がすむと、一同は机を取り囲んで着席した。
ステッセル将軍が、
「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が実に勇ましいことです。殊に工兵隊が、自分の任務を果たすまでは、決して持ち場を離れないえらさに、すっかり感心しました。」
というと、乃木将軍は、
「いや、ねばり強いのは、露西亜兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」と言う。 
「しかし、日本軍の二十八糎の砲弾には、弱りました。」
「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引っぱり出したのです。」
「さすがの要塞も、あの砲弾にはかないませんでした。コンドラテンコ少将も、あれで戰死したのです。」
「それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終わりとでは、ずいぶん變わって来ましたね。變わったというよりは、すばらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代わったのでしょう。」
「いいえ、代わってはいません。初めから終わりまで、同じ司令官でした。」
「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、実にえらい。さすが日本人です。」
「わが二十八糎にも驚かれたでしょうが、海の魚雷が、山上から泳いで来るのには、面くらいましたよ。」 
両将軍は、打ち解けて話が弾みます。
ステッセル将軍は、口調を改めて、
「承りますと、閣下のお子様が、二人とも戰死なさったそうですが、おきのどくでなりません。深くお察しいたします。」
悔やみを述べ。
「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戰死をしました。祖國のために働くことができて、私も満足ですが、あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう。」
と、乃木将軍は穏やかに語りました。 
「閣下は、最愛のお子さまを二人とも失われて、平気でいらっしゃる。それどころか、かえって満足していられる。閣下は実に立派な方です。私などの遠く及ぶところではありません。」
ステッセル将軍は、次の事を申し出た。
「私は、馬がすきで、旅順に四頭の馬を飼っています。今日乗ってまいりました馬も、その中の一頭で、すぐれたアラビヤ馬です。ついては、今日の記念に、閣下にさしあげたいと思います。お受けくだされば光榮に存じます。」
乃木将軍は答えた。 
「閣下の御好意を感謝いたします。ただ、軍馬も武器の一つですから、私がすぐいただくわけにはいきません。一応軍で受け取って、その上、正式の手続きをしてからいただきましょう。」
「閣下は、私から物をお受けになるのが、おいやなのでしょうか。それとも、馬がおきらいなのでしょうか。」
「いやいや、決してそんなことはありません。私も、馬は大すきです。さきに日清戰爭の時、乗っていた馬が弾でたおれ、大変かわいそうに思ったことがあります。今度も、やはり愛馬が弾で戰死しました。閣下から馬をいただけば、いつまでも愛養いたしたいと思います。」
「あ、そうですか。よくわかりました。」
「ときに、露西亜軍の戰死者の墓は、あちこちに散在しているようですが、あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立て、わかることなら、将士の氏名や、生まれた故郷も書いておきたいと思いますが、それについて何か御希望はありませんか。」
「戰死者まで、深いお情けをいただきまして、お禮のことばもありません。ただ、先ほども申しましたが、コンドラテンコ少将の墓は、どうか保存していただきたいと思います。」
「承知しました。」
 食後、會見室から中庭へ出て、記念写真を撮影。
この時に乃木将軍は、以下の歌を詠みました。
「たむかひしかたきも今日は大君の
      恵みの露にうるほいにけり 」
文部省唱歌「水師營の會見」
作詞 佐佐木信綱
作曲 岡野 貞一
旅順開城約成りて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と會見の
所はいづこ水師營
庭に一本なつめの木
弾丸あともいちじるく
くづれ残れる民屋に
今ぞ相見る二将軍
乃木大将はおごそかに
御恵深き大君の
大みことのり伝ふれば
彼かしこみて謝しまつる
昨日の敵は今日の友
語る言葉もうちとけて
我はたゝへつ,彼の防備
彼はたゝへつ,我が武勇
かたち正して言出でぬ
此の方面の戰斗に
二子をうしなひ給ひつる
閣下の心如何にぞと
二人の我が子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門の面目と
大将答力あり
両将昼食共にして
なほも尽きせぬ物語
我に愛する良馬あり
今日の記念に献ずべし
厚意謝するに余りあり
軍のおきてにしたがひて
他日我が手に受領せば
長くいたはり養はん
さらばと握手ねんごろに
別れて行くや右左
砲音絶えし砲臺に
ひらめき立てり日の御旗
(ウィキペディア参照。)
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