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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

首相暗殺 2題

2021-01-18
Facebook亀山 紘さんより
東京駅には総理大臣の暗殺現場が2つある。
かつて日本では総理大臣が一般市民の前で暗殺・襲撃された事がある。
その舞台となったのが東京駅で、今でも暗殺の現場と分かる場所が2ヵ所ある。
通勤や観光など東京駅を利用する時、誰でも見られる場所にその痕跡が残されている。
1つ目は現在の東京駅の丸の内南口で、
1921年(大正10年)11月4日に当時の首相だった原敬(はら たかし、1856~1921年)が
当時の山手線大塚駅の駅員であった中岡良一により刺殺された。
原首相は短刀で右胸を刺され、その傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態だったという。
現在、東京駅のその場所には原首相遭難現場のプレートと床面には円の内部に六角形という形をした印が埋め込まれている。
もう1つの場所は、東京駅丸の内中央口から入った所にある中央通路の階段手前であり、こちらも床面に印が埋め込まれている。1930年(昭和5年)11月14日、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸(はまぐち おさち、1870~1931年)が銃撃された。
床面に埋め込まれた印の真上が現在の10番線乗り場・東海道本線のホームで、当時は特急つばめで濱口首相は神戸に行く予定だったが、そこをホームで愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から撃たれた。
銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。その後、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。しかし、その翌年にこの怪我がもとで死去した。このように東京駅には戦前の激動の中で起きた2つの暗殺現場が残されている。

首相暗殺

2021-01-18
台湾の統治について
Facebook畠山 紘さんより



100年前・・・東京駅で原敬は暗殺されました。
台湾統治初期の政策・…後藤新平と原敬
1898年(明治31年)、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。
また、1902年(明治35年)末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義を採用することとなった。
日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。
第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。これは英国政府の植民地政策(=イギリス帝国)を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。
当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から、文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。
後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採った。
これに対し原敬などは、台湾を内地の一部とし、内地法を適用する『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であると主張した。

極真会の創設者  Facebook津島 謙一さんより

2021-01-16
昭和の武道家と言えばやはりこの人 大山倍達
"正拳突き百目蝋燭消し"


宮さん 参謀長有栖川宮熾仁親王

2021-01-16
有栖川宮薨去
Facebook英霊の本日の出来事

 
明治28年1月15日の本日、参謀長有栖川宮熾仁親王が薨去なさいました。
有栖川宮 熾仁親王は、天保6年2月19日に生まれました。
江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。
號は初め「泰山」、後に「霞堂」。
階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。
有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮。
生母は家女房の佐伯祐子。
官職は任命順に、大宰帥、國事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに縣知事、縣令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島縣逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。
和宮親子内親王と婚約していたことで知られます。
和宮との婚約は時の政治情勢により叛故となり、舊水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。
貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年7月に舊越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚しました。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年に61歳で薨去。
有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶。
明治27年に勃發した日清戰爭において、熾仁親王は参謀総長として廣島大本營に下るが、この地で腸チフス(當初はマラリアと診断された)を發症し、兵庫縣明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸にて静養に入る。
症状は一旦軽快したものの翌明治28年に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく1月14日にはついに危篤に陥る。
その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授豫を決定した。
翌1月15日、熾仁親王は終戰を待たずして舞子別邸にて61歳で薨去。
さらに翌16日には功二級金鵄勲章が授豫されたが、公式發表における薨去の日付は、実際には遺體が東京に歸着した日である24日と發表されました。
熾仁親王の葬儀は國葬となり、豊島岡墓地に埋葬されました。
因みに、トコトンヤレ節は品川弥二郎が作詩しました。
師である吉田松陰を罪人として処刑した徳川幕府を恨み、倒幕を「トコトンヤレ」と囃はやしたてた歌とされてます。
現在伝えられている歌詞には何種類かあるようですが、そのうちの一つをご紹介します。
作曲は大村益次郎であるといわれています。
宮さん宮さん 御馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか
トコトントンヤレ トンヤレナ
一天萬乗の 一天萬乗の 帝王に手向かいする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレ トンヤレナ
音に聞し 關東武士 どっちに逃げたと問うたれば
トコトンヤレ トンヤレナ
城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ トンヤレナ
この曲は日本で最初の軍歌と言われています。
”宮さん”は東征大総督の有栖川宮熾仁親王の事です。
(ウィキペディア参照。)

黄海海戦 - 日露戦争 (明治37年8月10日) ----

2021-01-16
Facebook中村マコさんより
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