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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

明治宮殿は和風木造(御所造り)で、広さ5800坪。屋根には銅瓦がふいてありました。

2021-01-27
「奥宮殿」はプライベートな生活の場、「中段」は天皇が政務を行う御学問所、内謁見所、侍従たちの詰所があり、「表宮殿」が宮中儀礼のための場所でした。
明治宮殿の憲法発布式
枢密院憲法会議
建物は「奥宮殿」「中段」「表宮殿」の3エリアに分かれていました。
奥宮殿
豊明殿
豊明殿内部
正殿
正殿内部
車寄せ

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。

2021-01-26
Facebook英霊の本日の出来事

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。
日本において當時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。
空襲により火災が發生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。
跡地は、人々の避難先や復舊時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。
一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去する事も行われた。
都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり發火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。
建物疎開にあたっては、行政機關がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去されたため、當時は「強制疎開」とよばれた。
建物疎開は終戰直前まで行われており、本土決戰に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全國で約61万戸の建物が除却された。
また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に關しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。
建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。
瓦礫の撤去に携わったのは主に國民學校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵對象から除外されていた男性などであった。
廣島へ原爆が投下された當時も廣島市内では既に数千人の學童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。
當日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。
建物疎開の後は戰後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では横浜市の根岸疎開道路(馬場町~原町間)など数か所、廣島市の平和大通り、京都市の御池通の左京區川端御池から中京区堀川御池間、大阪市道の上新庄生野線の東成區玉津3丁目から生野區林寺2丁目間、都市計画道路難波片江線の生野區鶴橋2丁目付近などがある。
特に横濱のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。
(ウィキペディア参照。)

自殺的戦死 山本五十六海軍元帥(1884年4月4日~1943年4月18日ブーゲンビル島上空で戦死)

2021-01-25
Facebook橋本 新さんより ラバウル基地での最後の写真。この後「海軍甲事件」アメリカ軍作戦名ヴェンジェンス作戦がおきる

俘虜記

2021-01-23
Facebook湯浅 宗浩  真珠湾攻撃で初めての日本軍人捕虜となった酒巻和夫氏のトヨタ自動車勤務時代。 昭和31年

学徒散華の記録

2021-01-23
富安俊助中尉(早稲田大・飛行予備学生13期、22歳)とエンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)
Facebook橋本 新一


1945年5月14日緩降下後背面宙返りで垂直逆落としに体当りエンタープライズの前部エレベータの後部に激突炎上しエレベーターは吹き飛び船体に穴が開き2.2メーター浸水、ダメコン班が30分で火災を鎮火、エレベーターホールで富安中尉の遺体を発見。
遺体は米兵並みに丁重に水葬され、2020年に富安中尉の機体の一部と遺体にあった50銭札も家族に返還。
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