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G馬場のプロレス

【 プロレス編】

ジャイアント馬場、遂にサンマルチノに勝つ!

2021-05-16
ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノ、日本においてそれまで決着がつかなかった。それが、リングアウトではあるが、初めて国内の試合で結着が付いたのだ。




ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノといえば、友人でありライバルとも言われたが、日本においてそれまで決着がつかなかった。それが、リングアウトではあるが、初めて国内の試合で結着が付いたのだ。

前年のインターナショナル選手権では引き分け。今シリーズもノンタイトルでドローと決着が付ず、さらに前日は雨天順延と、延ばしに延ばしたサンマルチノの戦いでやっとジャイアント馬場が白星を挙げた。

 

3本目、リング外の攻防で馬場がサンマルチノの脳天にイス攻撃。カウント20ギリギリに滑り込んだのだ。

 

6年間ニューヨークで不敗のサンマルチノに勝つにはこれしかなかった。

 

この試合、モノクロのフィルムでは見たことがあるが、当時の中継では見ていないのが残念。大阪球場に詰めかけた14000人の記憶だけが、そのリアルな迫力を覚えていることになる。

★日本プロレス サンマルチノ血戦シリーズ 8月7日 大阪市 大阪球場 ・インターナショナル選手権(60分3本勝負) ジャイアント馬場(2-1)ブルーノ・サンマルチノ
馬場(エビ固め 4分28秒)
馬場(リングアウト 7分34秒)
サンマルチノ(背骨折り 12分58秒)

ジャイアント馬場vs.ブルーノ・サンマルチノ(JWA・1967年3月7日)

2021-05-16

WWWF世界ヘビー級王座

2021-05-15
ホームリングは、NYのMSGでした。
初代王者は、ネイチャーボーイです。
WWWFの顔といえば、人間発電所と呼ばれたサン・マルチノです。

日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」

2021-05-15
日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」①~1960-1963 初の米国遠征と凱旋!~馬場の全盛期と名勝負とは
1963(昭和38)年 2月、馬場はロサンゼルスでWWA世界ヘビー級王者ザ デストロイヤーに挑戦。


https://youtu.be/IVIcWCHTgYU

馬場名勝負①】
 1963年3月24日 蔵前国技館 45分3本勝負 
ジャイアント馬場(0-0)キラー コワルスキー

45分ノンストップの激闘はめったに弟子を褒めない力道山に「おう、お前ようやったな。疲れたろう。動きっぱなしだもんな。うん、ようやった」と言われ、馬場はその時のセリフを丸暗記するほど嬉しかったそうです。

25歳の馬場は全身の筋肉もひと回り以上大きくなり、鋼のような肉体で動き回ります。



アントニオ猪木とジャイアント馬場。

2021-05-15
待遇の差と不信感が「闘魂」を育てた
1963年3月、凱旋帰国した馬場正平は「ジャイアント馬場」となり、力道山と並んで記者会見で迎えられます。力道山にこのとき「馬場ちゃん」と呼ばれ、本人は驚いたそうです。
力道山の肩を揉んでいる猪木さんが若い。
 数々の名勝負を残した伝説のプロレスラー・アントニオ猪木は、17歳の時に移住先のブラジルで力道山にスカウトされ、1960年4月に日本プロレスに入門した。東京・浜町の力道山道場での入門会見は、ケガで引退を余儀なくされ、読売ジャイアンツの投手からプロレスに転向した馬場正平、のちのジャイアント馬場と同時に行なわれた。
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