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G馬場のプロレス

【 プロレス編】

WWWF世界ヘビー級王座

2021-05-15
ホームリングは、NYのMSGでした。
初代王者は、ネイチャーボーイです。
WWWFの顔といえば、人間発電所と呼ばれたサン・マルチノです。

日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」

2021-05-15
日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」①~1960-1963 初の米国遠征と凱旋!~馬場の全盛期と名勝負とは
1963(昭和38)年 2月、馬場はロサンゼルスでWWA世界ヘビー級王者ザ デストロイヤーに挑戦。


https://youtu.be/IVIcWCHTgYU

馬場名勝負①】
 1963年3月24日 蔵前国技館 45分3本勝負 
ジャイアント馬場(0-0)キラー コワルスキー

45分ノンストップの激闘はめったに弟子を褒めない力道山に「おう、お前ようやったな。疲れたろう。動きっぱなしだもんな。うん、ようやった」と言われ、馬場はその時のセリフを丸暗記するほど嬉しかったそうです。

25歳の馬場は全身の筋肉もひと回り以上大きくなり、鋼のような肉体で動き回ります。



アントニオ猪木とジャイアント馬場。

2021-05-15
待遇の差と不信感が「闘魂」を育てた
1963年3月、凱旋帰国した馬場正平は「ジャイアント馬場」となり、力道山と並んで記者会見で迎えられます。力道山にこのとき「馬場ちゃん」と呼ばれ、本人は驚いたそうです。
力道山の肩を揉んでいる猪木さんが若い。
 数々の名勝負を残した伝説のプロレスラー・アントニオ猪木は、17歳の時に移住先のブラジルで力道山にスカウトされ、1960年4月に日本プロレスに入門した。東京・浜町の力道山道場での入門会見は、ケガで引退を余儀なくされ、読売ジャイアンツの投手からプロレスに転向した馬場正平、のちのジャイアント馬場と同時に行なわれた。

日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」

2021-05-15
日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」②~1963-1968
ブルーザーとの決定戦で勝利した馬場はルー テーズ、力道山に続く第3代王者。これは「日本プロレスのエースであり、力道山の正当な王位継承者」という証なのです。

●馬場が憧れたバディ ロジャースとは?

2021-05-15
馬場が「アメリカ修行時代に見た中で、人気と実力を兼ね備えた最高のレスラー」と憧れたロジャースは、ついぞ来日しなかったため日本での知名度はイマイチですが、あのWWEのボス、ビンス マクマホン(Jr.)も子供時代に「最も憧れた選手」と語っています。

ロジャースは当時、全米一の観客動員力を誇るスーパースター。
安いギャランティでこき使われるのを嫌い敬遠していましたが、1961(昭和36)年6月、パット オコーナーを破り第43代NWA世界ヘビー級王者に。
これはルー テーズ以降、客を呼べるチャンピオンがロジャースしかいなかったからです。

ニックネームは「ネイチャー ボーイ」。「ダーティー チャンプ」の元祖となったヒールで、決め技は足4の字固め。
クジャクのようなロングガウン、ブロンドヘアー、ロジャース ストラートと呼ばれる気取った歩き方、レフェリーの陰で反則を繰り返し、ピンチに陥ると「オー ノー」と許しを乞うアクション、わざと反則負けして王座防衛などなど、リック フレアーはまんまロジャースのパクリなのです。
後期のタオルを持って入場するスタイルはニック ボックウィンクルが継承しました。
80年代を代表する世界チャンプの2人が揃ってそのスタイルを模倣することからも、ロジャースの影響力がわかります。

https://youtu.be/n5ZZfWDUdyE
馬場は日本人レスラーで唯一、
全盛期のロジャースのNWA世界タイトルに挑戦したレスラー。

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