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家族のページ

思い出のページ【当代と家族が歩んだ時代】

1977年、当代在籍の頃

2021-10-17

大谷大学120周年の学長焼香の図です。

因みに、管理人在籍(真宗学研究科)の頃の教授陣は次の通りでした。

【真宗学】
稲葉(秀賢)、松原学長、藤原(幸章)、細川(行信)、廣瀬(たかし)、寺川、幡谷、安富、小野、本多、江上

【哲学】
西谷、木場、坂本

【仏教学】
山田(亮賢)横超、佐々木(現順・令信)、三桐、(院生)一色

【史学他】
野上俊静、藤島達朗、五来、(仏教音楽)岩田'

・太字が、当代が受講させていただいたヨキヒト

当代学生の頃は、まだ健在でした。

2021-10-13
Facebook 寺島善幸さん曰く、携帯電話もない時代は伝言板でした。

国産旅客機YS-11です。 当代は、広島→福岡で搭乗いたしました。

2021-10-13
Facebook 黒澤 正敏 さん曰く、昭和43年に初めて飛行機に乗りました。

京都時代の下宿は、このお寺のすぐ傍でした。

2021-10-12
Facebook 佐藤信雄さん曰く
京都・文学散策【10.水上勉「雁の寺」 雁の寺/等持院/紫野】
京都・文学散策【10.水上勉「雁の寺」 雁の寺/等持院/紫野】
 岸本南獄が死んだ日の前日、…… 衣笠山麓にある孤峯庵(こほうあん)の住職、北見慈海が訪ねてきた。…… 
「どうや、どんなあんばいや」
 慈海和尚は、玄関に出た顔見知りの女中に そんな言葉をあびせながら、つかつかと入って来た。と、その時、うしろに、まだ十二、三歳としか思えない背のひくい小坊主(慈念)が立っていた。
 ・・・
 南獄はひと夏じゅう仕事もしないで孤峯庵の書院で暮したことがある。そのとき、つれていたのが里子であった。
「これはな、わしの描いた雁や」
 里子をつれて、孤峯庵の庫裏の杉戸から本堂に至る廊下、…… 四枚襖のどれにも描かれてある雁の絵をみせて歩いた。
 ・・・
 慈念の日課は、朝五時起床。洗顔。勤行。飯炊き。それがすむと、庫裏の台所に茣蓙(ござ)を敷いて朝食。八時半に家を出て、山道から鞍馬口に出る。千本通りを通り、北大路の大徳寺の西隣にある紫野中学に通う。
 この中学はもと禅林各派が徒弟養成のために経営した「般若林(はんにゃりん)」が学令によって中学(旧制)になったもので、学校教練もあった。制服にゲートルを巻いて登校しなければならなかった。(等持院から通うと紫の線になる。水上はこちらのコースを通ったものと思われる)
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 作家水上勉は、福井県の寒村に生まれ、貧困から9歳で京都の臨済宗寺院相国寺塔頭「瑞春院」に小僧として修行に出される。その後、小僧生活の厳しさに耐えかね脱走、連れ戻されて衣笠山の麓にある臨済宗天龍寺派「等持院」に移った。17歳のとき再度脱走し還俗、そのあと遍歴を重ねながら小説を書くが、生活は苦難を極め家庭的にも不遇だった。40歳を過ぎてから『雁の寺』で直木賞を受賞、やっと文筆中心の生活に落ち着いた。
 小説の舞台「雁の寺」は、水上勉が小僧に出された相国寺「瑞春院」での経験が基になっており、日本画家上田万秋描く「雁のふすま絵」が現存し、水上の小説にちなんで「雁の寺」と呼ばれている。ただし、水上自身、この絵は事後に知ったと言ってるようで、別室のクジャクの絵を雁だと思い込んでいたとか。
  しかも小説では「衣笠山麓にある孤峯庵」と記されており、京都御所や同志社大学の北にある相国寺瑞春院は、位置的には衣笠山麓ではない。おそらく、その後在籍した「等持院」の位置を代用したかと思われる。さらには、小僧時代の水上は、「大徳寺の西隣にある(旧制)紫野中学」に通わされていた。そのすぐ西には、小堀遠州ゆかりの「孤篷庵」があり、その存在は水上も知っていたはずで、一字違えた上で「孤峯庵」と名前を借りた可能性が強い。
 瑞春院から紫野中学(現紫野高校)までの経路を、地図上でトレース(赤線)してみたが、「千本通り」を通るとすると、かなりの回り道となる。おそらく大宮通りなどを上がったと思われるが、水上の思い違いなどもあるのだろう。ちなみに、私は新制の京都市立紫野高校卒であり、「禅門立旧制紫野中学」とは系列関係は皆無だが、同じ場所で学んだかと思うと、なにかの縁を感じる。大徳寺「孤篷庵」の娘さんも、たぶん高校の同級であったと記憶している。
(注)「衣笠山麓にある孤峯庵」から紫野中学までの経路を書いているのだから、小説中の説明で間違いなかった。上記記述(赤線)は当方が、烏丸今出川近くの実在する相国寺瑞春院からの経路と勘違いしていたのであった。従って地図上で紫線でトレースした経路が、小説中の「孤峯庵」(等持院)から通ったと考えられるものになる。
 小説『雁の寺』は、直木賞を受賞して刊行されたときの、ハードカバーの単行本で読んだ。なにげに実家の二階に転がっていて、ペラペラめくってみると、これは高校生が大っぴらに読む本じゃないと直感した。で、自部屋に持込み密かに一気読みする。本堂で展開される、慈海と妾となった里子の愛欲の様子を、上目遣いに尖った目つきで覗き見する慈念の暗い視線、それが隠れ読みしている自身と重なり、たくらまざるサスペンスとなったものであった(笑)
 水上はその後、『五番町夕霧楼』を書く。金閣寺の放火炎上事件を題材とし、放火犯の修行僧を主人公に、彼が唯一、心を許す同郷の幼なじみ夕子がヒロインとされる。夕子が売られて来た「五番町」は、西陣の一角を占めた遊郭であり、西陣の織元旦那衆が通いつける歓楽の地であった。等持院から金閣寺はすぐ近くであり、同系寺院として師に従って小僧の水上は何度も訪れただろう。そして、堕落した高僧たちが、姿を隠して五番町へかよう様子も熟知していたはずである。
 このような内側から見た仏教界の堕落を描いたため、『雁の寺』の出版や映画化には仏教界からの抵抗が、かなりあったと言われる。

学生時代の鎌倉への仏美旅行の帰路では、お世話になりました。

2021-10-09

Facebook 山梨賀之さん曰く


300系が主流だった時代の湘南モノレール。
勾配標記等がレールを支える支柱に書かれているのは懸垂式モノレールならでは。
最近訪れていないが沿線の光景も変わってしまったと思われる。
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