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226事件

2020-08-10
日本の陸軍皇道派の青年将校らは天皇親政を求めて、1400名にわたる下士官兵を率いて決起する。

『Get Back! 30's / 1936年(s11)』-1

(2・26事件) 
○2.26 [東京] 陸軍皇道派青年将校が約1400名の兵を率い、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、東京朝日新聞などを襲撃する。(2・26事件)
 

 1936年(昭和11年)2月26日未明、日本の陸軍皇道派の青年将校らは天皇親政を求めて、1400名にわたる下士官兵を率いて決起する。彼らが指揮する部隊は各方面を分担し、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞社を占拠した。
 

 決起青年将校らは陸軍首脳に「昭和維新」の断行を迫り、天皇の承認を信じて陛下の御聖断を要請したが、側近らを襲撃され統帥権を犯された昭和天皇は激怒し武力鎮圧を命じた。政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、蜂起部隊を反乱軍と規定し降伏を迫り、29日からは「兵に告ぐ」のラジオ放送を始め、アドバルーンや宣伝ビラを繰り出して帰順勧告が開始された。やがて投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉の自決未遂を最後に全員投降、4日間に及んだ反乱クーデターは鎮圧された。
 

 事件の背景には、統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚たち(統制派)と、政財界の堕落した特権階級を排除し天皇親政の実現を図る革新派の青年将校ら(皇道派)の対立があったと言われる。これには、陸大卒の軍幕僚キャリア組と、士官学校から下士官というノンキャリア組の対立構造を見ることもできる。
 

 陸軍中枢は、皇軍派青年将校の動きを危険思想として監視させており、1934年11月、クーデタ-を企図したとして皇道派の村中孝次大尉や磯部浅一主計を逮捕した(陸軍士官学校事件)。さらに翌年7月、皇道派がリーダーとする真崎甚三郎教育総監が罷免され、皇道派と統制派との反目は度を深めた。これらの遺恨から、統制派の中心人物とされた永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こる(相沢事件)。
 

 これらの事件を受け、皇道派排除の流れに危機を感じる青年将校らは、「蹶起趣意書」をしたためクーデターを実行しようとするが、そのリーダーとなると特定しがたい。士官学校事件で軍現役から排除された村中や磯部は、真崎甚三郎大将や川島陸軍大臣を訪れ担ぎ出すことを意図したが、ともに言を左右して曖昧な態度を示した。
 

 青年将校らが属する東京の師団歩兵部隊第1師団の満州への派遣が決まると、青年将校らは決起すべきタイミングが来たと考えた。彼らの思想的指導者とされる北一輝や西田税も、時期尚早と考えていたようであり、実際に決起した将校の中には、彼らの思想的影響を受けたものは意外に少なかったとされる。結局、村中や磯部が、現役である野中四郎大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉などと申し合わせて決行したことになる。
 

 思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2か月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。
 

 その後、粛軍の名のもとに皇道派を蹴落とし主導権を握った統制派は、永田鉄山亡き後の統制派を牛耳った東条英機に率いられ、日中戦争を開始し、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになった。
 

*この年
人絹生産高が世界第1位/アルマイト製弁当箱が普及/女性にマフラー、男児にセーラー服が流行
【事物】白バイ/色刷図案の入った慶弔電報/レントゲン関節撮影
【流行語】今からでも遅くない/準戦時体制/庶政一新
【歌】忘れちゃいやよ(渡辺はま子)/あゝそれなのに(美ち奴)/東京ラプソディー(藤山一郎)/
【映画】人生劇場(内田吐夢)/祇園の姉妹(溝口健二)/赤西蠐太(伊丹万作)/ミモザ館(仏)/白き処女地(仏)
【本】江戸川乱歩「怪人二十面相」(少年倶楽部)/山本有三「真実一路」/講談社が絵本を発売(「乃木大将」「四十七士」など)

 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20161006

軍務局長斬殺

2020-08-10
皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した。
佐々木 信雄
 

『Get Back! 30's / 1935年(s10)』

(永田斬殺事件)
○8.12 [東京] 陸軍軍務局長の永田鉄山少将が、相沢三郎中佐に刺殺される。(相沢事件/永田斬殺事件)
 

 1935年(昭和10年)8月12日、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した。前年の陸軍士官学校事件で磯部浅一と村中孝次が停職となったことなど、永田鉄山ら統制派による皇道派追放への反発が動機であり、その後の二・二六事件に繋がった出来事の一つである。
 

 1931年に満州事変が起こりると、来る国家総力戦を戦い抜くためにとして、日本陸軍内部において、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派と、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指す急進的な皇道派との対立が激化していた。1934年に皇道派青年将校らによる「士官学校事件」が発覚し、翌年には皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起ることで、統制派が皇道派を一掃する動きが強まってきた。
 

 このような統制派による皇道派追放への動きを、統制派の永田鉄山軍務局長が取り仕切っていると考えた相沢三郎陸軍中佐は、1935年8月12日永田鉄山少将の在室を確認したうえ軍務局長室に闖入、軍刀を抜いて永田に切りかかり殺害した。
 

 翌年初めに軍法会議は始められ、軍幹部らの証人喚問をめぐって錯綜している間に、2月26日に二・二六事件が勃発した。皇道派の青年将校らが引き起こしたクーデター事件は、相沢の裁判をめぐる環境を一変させ、非公開のままで一挙に公判が進められ、死刑の判決が確定すると7月3日に銃殺刑が執行された。
 

 永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深めやがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至る。「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」という戦後の証言なども残されているが、歴史にイフはない。
 

*この年喫茶店流行/月賦販売盛ん/貿易収支が17年ぶりに黒字/綿布輸出量、史上最高の27平方ヤード/嗜眠性脳炎(ネムリ病)流行
【事物】初の公設保健所、東京京橋と埼玉所沢に/年賀郵便切手(1銭5厘)
【流行語】人民戦線/国体明徴/新官僚/ハイキング/ソシアル・ダンピング
【歌】旅笠道中(東海林太郎)/大江戸出世小唄(高田浩吉)
【映画】忠次売出す(伊丹万作)/お琴と佐助(島津保次郎)/雪之丞変化(衣笠貞之助)/外人部隊(仏)
【本】高垣眸「怪傑黒頭巾」(少年倶楽部)/川端康成「夕景色の鏡(雪国の初編)」(文藝春秋)/吉川英治「宮本武蔵」(朝日新聞)/新潮社「日本少国民文庫」全16冊
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20161002

75年目の原爆の日、改めて読むB29エノラ・ゲイ搭乗員の証言

2020-08-10
原爆を投下したB29搭乗員たちの記録 「『みな殺しだナ』と思った」

1945年8月6日8時15分、広島市上空から投下された小さなパラシュート。そこに取り付けられた原子爆弾により14万人の市民の命が奪われた。コラムニストの石原壮一郎氏がレポートする。

 広島と長崎に原子爆弾が投下されてから、75年の歳月が経ちました。原爆も第二次世界大戦も、直接の経験者は少なくなってしまいました。戦争が終わって生まれて戦争を知らずに育った私たちとしては、当事者の声に耳を傾けて、「戦争とは何か」を考え続けることが大切です。

 先日、部屋の大掃除をしていたら、押し入れの奥で一冊の古い『アサヒグラフ』を発掘しました。1954(昭和29)年8月11日号。たぶん10年ぐらい前にネットオークションで入手したものですが、なぜ買ったのか記憶にないし、包んでいるビニールを開封した気配はありません。

 取り出して開いてみると、巻頭は「我々は広島に原爆を投下した」という5ページの記事。原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」号の12人の乗員全員に、当時の気持ちや今の想いをインタビューしています。そっか、これを読もうとしたのか。

「広島の原爆は、日本人もアメリカ人もひっくるめて結局多数の人命を救ったと信じている。なぜなら、原爆は、日本人が稲むらのかげや寺院の塔から我々に挑んだに違いない戦闘をしないで済んだと思えるからだ」

「私は、いまでも後悔の気持ちは全く持っていない。多くの非戦闘員を殺したが、私はこれからでも同じことをやってのけられる。敵だって先に原爆を持ったら、恐らくロサンゼルスやニューヨークに投下していたはずだ」

「(投下直後に)“気の毒な奴さん達!みな殺しだナ”こんなふうに思ったことを記憶している」

 彼らは、たとえばこう語っています。最初のページには、任務を果たして基地に戻った直後に全員で撮った記念写真。みんな笑顔を浮かべています。ページをめくると、乗員が家族と自宅でくつろいでいる写真や職場で働いている写真。広島に原爆を投下してから9年後、それぞれ幸せな日々を送っている様子が伝わってきます。

 すごい記事に出合ってしまいました。語っている内容も衝撃的でしたが、日常的な写真と組み合わせることで、さらに複雑で重いメッセージを伝えてくれようとしているのが、この記事の見どころであり、グラフ誌の真骨頂です。

 どうすごくてどんな意味を持つ記事なのか、専門家の意見を伺うとしましょう。1980年代前半に『アサヒグラフ』編集部に在籍し、その後『アサヒカメラ』編集長などを経て、現在は全日本写真連盟総本部事務局長を務める勝又ひろしさんに、記事を読み解いてもらいました。

「クレジットを見ると、アメリカのAP通信が作った記事ですね。売り込みがあったのか、アメリカで先に公開されてそれを編集部が見つけたのか、そこはわかりません。ただ、この1954年は春にアメリカがビキニ環礁で水爆実験を繰り返し、3月には第五福竜丸が被爆してしまいます。日本でも世界でも核兵器への関心がひじょうに高まっていました」

 原爆と『アサヒグラフ』といえば、その2年前の1952(昭和27)年8月6日号で、ふたりの新聞記者が撮影した被爆直後の広島と長崎の写真を大量に掲載し、原爆被害の実態を初めて広く伝えたことが知られています。連合国軍(GHQ)の占領が終わったのは、同年4月。ふたりはGHQにフイルムの焼却を命じられますが、ひそかに隠し持ったまま発表できる機会を待っていました。掲載号は大反響を呼び、70万部が発行されたとか。

「投下した側の声が日本のメディアに掲載されたのは、おそらくこの記事が初めてでしょう。記事のトーンは糾弾でも賛美でもなく、生の声にあえて日常の写真を加えることで、彼らが『普通の一市民』であることを強調しています。仮に契約の問題で勝手に写真を差し替えることはできなくても、この記事の後ろに原爆の被害を伝える特集を持ってくるなどすれば、雑誌全体として彼らを『悪者』にするニュアンスにはできたでしょう。しかし、編集部はそうはせず、どう受け止めるかを読者にゆだねました」

 12人の乗員は、自分の考えや気持ちを率直に答えています。機長であるティベッツ大佐の「もし爆発が成功すれば、戦争が終わるのだということも知っていた。それが事実だったのは嬉しい限りだ」「こんどまた、原爆を何処かへ運べという命令を受けたら、私は運んで行く」という言葉は、日本人としては穏やかな気持ちでは読めません。そのコメントのすぐ上には、自宅で息子とスクーターの手入れに興じる写真が掲載されています。

 ティベッツ大佐は戦後、自宅にサインを求める人が押し掛ける“国民的ヒーロー”でしたが、質問には遠慮がありません。ちょっと意地悪に「日本人の誰かから原爆の感想を聞いたか」と尋ねています。それに対して〈彼は驚いたといった風で、「いいや何にも──、日本人から何の意見も聞いたことはない」と語った。〉とか。

「当時のアメリカのジャーナリストたちは、原爆がどれだけ悲惨な結果を招いたかを知っていたはずです。旬の話題だった水爆も含めて、批判的に見ていた部分もあるでしょう。記事には、まるで日本人が聞いているんじゃないかと錯覚するような、原爆投下への後悔や贖罪の気持ちを言わせようとしている質問もある。聞かれた側も、つまりは『命令されたから行きました』という話で、丁寧に自分の想いを答える必要はないんです。聞くほうも答えるほうも、そのへんがアメリカっぽいですよね」

 引き起こした結果の受け止め方は微妙に違いますが、自分の行為を悔いている乗員はひとりもいないし、犠牲者への謝罪の言葉はありません。そもそも謝ってどうなる問題でもないし、当時のアメリカ社会の雰囲気の影響もあるでしょう。もし自分が彼らと同じ立場なら、「原爆が多くの人を救った」と“本気”で考える可能性は大いにあります。

「記事に彼らの幸せそうな写真が並んでいるのを見て、日本人の中には『たくさんの人を殺しておいて、自分だけのうのうと暮らしやがって』と感じる人もいたかもしれない。ただ、この記事が訴えようとしているのは、普通の人が命令ひとつで大量殺戮に関与してしまう『戦争の怖さ』や、戦争をしてしまう『人間の愚かさ』ではないでしょうか」

 広島では「エノラ・ゲイ」号が投下した原爆によって、推計14万人が犠牲になりました。「エノラ・ゲイ」号の乗員たちは、命令に従っただけとはいえ、間違いなく加害者です。しかし、戦争における加害者は彼らだけではないし、どちらかの国の軍人だけでもありません。彼らは、なぜ原爆を投下させられる羽目になったのか。そして、原爆が投下されてから9年目の夏、日本人はこの記事をどう受け止めたのか。

暗殺

2020-08-09
「紀尾井坂の変(紀尾井坂事件)」
佐々木 信雄

【19th Century Chronicle 1878年(M11)】
 

◎紀尾井坂の変 大久保利通暗殺
*5.14/東京 参議兼内務卿「大久保利通」が、紀尾井町で、石川県士族島田一郎ら6人に暗殺される。「紀尾井坂の変(紀尾井坂事件)」(7.27 6人に斬罪宣告)
 

 1878年(明治11年)5月14日、内務卿大久保利通が東京府の紀尾井町で、石川県士族島田一郎など不平士族6名によって暗殺され、この事件は「紀尾井坂の変(紀尾井坂事件)」と呼ばれる。島田らは征韓論に共鳴しており、引き続いて起こされた下野した士族らの反乱をみて、自らも挙兵を企んだ。いよいよ西郷が立ち上がると、連動して挙兵しようと奔走するも、その間に西南戦争が終焉に向かい、果たせなかった。
 

 西郷の敗死により、もはや反乱は無理とみなした島田らは、方針を高官暗殺に切換えた。つまり、安直なテロリズムであり、前後の見境いもなく直情的に行動するテロリストでしかなかった。彼らは斬奸状を懐にして、西郷を殺した元凶とみなした大久保利通を付け狙った。
 

 5月14日朝、大久保利通は、明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう途上、馬車が紀尾井坂に差し掛かったところを、暗殺犯6名に襲撃された。大久保は暗殺者らに「無礼者」と一喝するが、馬車から引きずり出され、御者とともに斬殺された。享年49〈数え年〉。
 

 島田ら暗殺犯は、同日、大久保の罪五事を挙げた斬奸状を手に自首した。それらは、明治新政府が直面する困難を、抽象的に羅列しただけのもので、それを専制的に進める大久保の罪としたものでしかなかった。島田を始めとする暗殺犯6名は、大審院の臨時裁判所によって裁かれ、7月27日に判決を言い渡されると、即日、斬罪となった。
 

 前年の西南戦争の最中に、その対応に京都滞在中の木戸孝允が病没、戦役の終結とともに西郷も敗死し、そしてこの年、大久保利通も暗殺され、「維新の三傑」と呼ばれた重鎮が相次いで亡くなってしまった。明治維新以来10年余、大枠の政治組織と重要改革策が遂行されており、何とか無事に次世代の伊藤博文や山縣有朋らが、以後の政府を引き継いでいくことになる。
 

 とはいえ、この10年は新政府にとって苦難の連続であった。西郷隆盛は、幕末の変動期には要所で大役をこなしたが、明治になってからは政府の要職から離れることが多く、中心となって新政府を仕切ったのは、岩倉使節団が欧米歴訪中の「留守政府」の2年弱の間であった。また木戸孝允は、開明派として政府の中枢を占めたものの、現実的な政策に異論をとなえる立場が多かった。
 

 その中で大久保利通は、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行うなど、終始、中心的役割を果たした。明治六年政変で西郷が下野すると、内務省を設置、自ら初代内務卿として実権を掌握、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、「富国強兵」のスローガンのもと、殖産興業政策を推進した。明治前半の重要政策は、ほとんどを大久保利通が推進したと言ってよい。
 

 大久保は、当時ビスマルクが仕切るプロイセン(ドイツ)を、手本とすべき国家と考えていたといわれる。しかし、内務卿就任以後の大久保への権力の集中は、「有司専制」として批判され、暗殺へと繋がってしまった。今風に言えば「開発独裁」に擬せられることもあるが、「官僚的権威主義」というのに近いか。
 

 暗殺当日の早朝、大久保は訪問客と歓談し、自身の考える三十年計画について述べている。明治の30年を3期に分け、最初の10年を創業の時期としており、納得できる国の体制確立には30年は必要と考えていた。その第1期を終えたところで殺されるのは、いかにも残念であったであろう。
 

 俗に、情の西郷に理の大久保と言われるように、大久保利通は怜悧に政策を進め、冷徹な性格と見なされることも多い。しかし、金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、むしろ予算のつけられなかった公共事業には、私財を投じてまで行い、死後にも財産は残らず、むしろ借金が残された。一方で、家庭的には子煩悩で、毎朝出仕前には子供を抱き上げ、忙しい公務にもかかわらず土曜日には必ず、家族全員で夕食をとることにしていたという。
 

 公務を冷徹にこなし、公費には潔癖、家庭では子煩悩な家族思い。文句のつけどころのない人物ではあるが、物語りにするには面白みがない。つまり、一般大衆に人気がなく、小説などでも、必ず西郷との対比で扱われることが多いようだ。しかし、日本を近代国家として成立させた、唯一無二の功労者は、やはり大久保利通ではないだろうか。

『翔ぶが如く』(司馬遼太郎/1975) https://ja.wikipedia.org/…/%E7%BF%94%E3%81%B6%E3%81%8C%E5%A…
 

(この年の出来事)
*1.31/ 閣議で、西南戦争の戦後処理に関し、各省経費の一律5分(5%)削減案と、陸海軍省の軍備拡張案との妥協が成立する。
*5.27/ 貿易銀の一般通用が許可される。これにより、事実上、金本位制から金銀複本位制に移行する。
*7.22/ 群区町村編成法・府県会規則・地方税規則の3新法が制定される。これらの法は、農民騒擾事件や地方民権の要求に沿って、地方政治の自治的側面を許容するものであった。
*7.25/ワシントン 日米条約・協定を修正し、日本に関税自主権を認める約書が調印されるも、英独仏の反対で発効せず。
*7.27/長崎 高島炭鉱鉱夫2000余人が、賃上げを要求し暴動を起こすも、100余人が逮捕される。
*8.23/東京 近衛砲兵隊が、減給などに反発し反乱を起こす。(竹橋騒動)
*9.12/大阪 民権運動家の大会が11日より開催され、この日、「愛国社」再興を決議する。
*12.5/ 参謀本部条例を制定し、陸軍省参謀局を廃止する。これにより参謀本部が独立し、政府の手から切り離された統帥権が、のちの軍部独走の遠因となる。

 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/08/19cm11878m11.html

国家による宗教弾圧

2020-08-09
第二次大本教事件
 

『Get Back! 30's / 1935年(s10)』
 

(第二次大本教事件)
○12.8 [京都・島根] 警察隊が大本教本部や別院を急襲。不敬罪・治安維持法違反容疑で幹部ら65人をいっせいに検挙する。(第二次大本教事件)
 

 大本事件は、新宗教「大本(おおもと)」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った宗教弾圧である。1921年(大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年(昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本を徹底的に壊滅させる目的での弾圧であった。
 

 「大本」(俗にいう「大本教」)は、京都府綾部の地に住む一介の老女「出口なお」が、「艮(うしとら)の金神」が神懸かりしたとして始めた土着的な新宗教であった。一方で、同じく京都府丹波地域の亀岡の農家に生まれた上田喜三郎は、さまざまな新宗教を遍歴したのち、出口なおに関心を抱くと数回に及び綾部を訪問、やがて"なお"の信任を得ると、その五女で後継となる「出口すみ」と結婚し、入り婿となり「出口王仁三郎」と改名した。
 

 出口なおは、国常立尊のものとされる神示が「お筆先」として伝えられるとして、元来の文盲にもかかわらず、ひらがなばかりであるが自動速記のようにして書き続けた。このような開祖としての「なお」のシャーマン的な霊性と、希代の天才的オルガナイザーであった出口王仁三郎の俗世能力とが合体して、「大本」は拡大の道を歩むことになる。
 

 "なお"が亡くなると、娘の出口すみが二代「教主」となり、すでに霊性を認められた夫の王仁三郎が「教主輔」となる。王仁三郎の出生の地亀岡に、もと明智光秀の居城であった亀山城の址地を買収して、綾部と並ぶ教団の本拠地に改修した。さらには、大正日日新聞を買収してマスメディアを通じての言論活動をするなど、活発な布教活動により教勢を伸ばした。
 

 "なお"がひらがなで記した「お筆先」を、漢字に書き直し加筆編集して『大本神諭』として発表することで、宗派としての教義を確立し、"なお"の土着性に王仁三郎が普遍性を付加して、世界宗教としての萌芽さえ見せるようになった。「おおもと」はすべて一つの神であるという一神教性と、その教義の根幹にあった黙示録的な終末論とその「立替え説」は、第一次世界大戦や米騒動、ロシア革命などで揺れる世情不安の動揺をとらえ、信者数を拡大して陸海軍や上流階級にまで影響力を持つようになった。
 

 1921年の第一次弾圧は、不敬罪・新聞紙法違反として80名が検挙され、王仁三郎には懲役5年という判決が下ったが、控訴審・再審と続くうちに、大正天皇の崩御があって免訴となる。不敬を理由に教団の施設破壊も行われたが、決定的な打撃とはならなかった。公判中にもかかわらず、保釈中であった出口王仁三郎は、われ関せずとモンゴルへ出向き、当地の馬賊の頭領とともに活動するありさまであった。
 

 1935年12月8日に始まる第二次大本事件での大弾圧は、まさに徹底したものであった。満州事変勃発後、国内ではクーデター未遂やテロルが横行して、不安定な状況下にあった。ますます勢力を拡大し、政治的な動きを増しつつある大本は、軍部皇道派や右翼団体と連動して反政府民衆運動を惹起する懸念を当局に抱かせていた。
 

 1935年(昭和10年)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側の武装を当然とし決死の覚悟で踏み込んだが、大本の施設からは竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、信者987人が検挙され、特高警察の拷問で起訴61人中16人が死亡したという。
 

 邪教撲滅のために全国の教団施設の撤去が決定すると、当局は綾部・亀岡の教団施設をダイナマイトで跡形も無く破壊し、それらの破壊費用を大本側に請求した。また王仁三郎一家の個人資産、教団の資産もすべて処分、出口なおをはじめ信者の墓あばくなど、西欧中世カトリック教会の「異端」迫害を思わせるような弾圧をおこなった。
 

 大本教団はほぼ壊滅させられ、王仁三郎は保釈されるも故郷亀岡で隠遁生活を送り、戦後の恩赦で解放されると教団活動を復活させたが、まもなく死去する。たとえ大本教団が狂気の集団であったとしても、それに輪を掛けた国家権力側の狂気は、まさに戦争に向う狂気の抗いがたい「空気」のもとで進められたのであった。
 

*この年
喫茶店流行/月賦販売盛ん/貿易収支が17年ぶりに黒字/綿布輸出量、史上最高の27平方ヤード/嗜眠性脳炎(ネムリ病)流行
【事物】初の公設保健所、東京京橋と埼玉所沢に/年賀郵便切手(1銭5厘)
【流行語】人民戦線/国体明徴/新官僚/ハイキング/ソシアル・ダンピング
【歌】旅笠道中(東海林太郎)/大江戸出世小唄(高田浩吉)
【映画】忠次売出す(伊丹万作)/お琴と佐助(島津保次郎)/雪之丞変化(衣笠貞之助)/外人部隊(仏)
【本】高垣眸「怪傑黒頭巾」(少年倶楽部)/川端康成「夕景色の鏡(雪国の初編)」(文藝春秋)/吉川英治「宮本武蔵」(朝日新聞)/新潮社「日本少国民文庫」全16冊

 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20161002

 
 
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