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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

①田中角栄総理(昭和49年 朝霞市) ❷三木武夫総理(昭和50年 朝霞市) 陸自駐屯地を訪れた2人の総理。

2021-07-09
Facebook Chikafumi Etouさん曰く、①田中角栄総理(昭和49年 朝霞市) ❷三木武夫総理(昭和50年 朝霞市)
◾️クジラクラウンと総理大臣 乗っているのは4代目クラウン。 歴代クラウンの中でも超個性的なデザインでした。

第3代将軍徳川家光

2021-08-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【17th Century Chronicle 1621-1625年】
◎第3代将軍徳川家光
*1623.7.27/ 徳川家光が京都で、朝廷より征夷大将軍を宣下される。
 徳川家光は、2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で正室のお江(江与)で、長男は夭折しており、祖父家康と同じ竹千代の幼名を与えられ、早くから世子として育てられた。しかし、父 秀忠やお江が弟の国松(徳川忠長)を溺愛したため、家光廃嫡を危惧した乳母のお福(春日局)が家康に懇願し、隠居の家康が長子相続の裁定をして家光が世継ぎと定められた。
 元和9(1623)年7月27日、秀忠とともに上洛した家光は、参内して将軍宣下を受け、第3代征夷大将軍となる。秀忠は隠居して江戸城西の丸に移るが、家康にならって、大御所として引き続き実権を握った。寛永9(1632)年1月に秀忠が死去すると、二元政治は解消され、将軍から「公方」として親政を始める。
 まずは、徳川直臣である旗本を中心に直轄軍を再編し、幕府中枢には大老・老中・若年寄・奉行・大目付と言う役職を定め、将軍をその最高権力者「公方」と位置づけたヒエラルヒーを確立した。そしてそれらの役職には親近な重臣を起用して、大老の井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝、老中としては松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛、大目付として中根正盛などを配置した。
 また、熊本藩主加藤忠広を改易するなど、譜代や外様を問わず、有力大名の「改易と転封」を行い、重要な拠点には親藩・譜代大名を配置し、徳川家の支配を強化した幕藩体制を整えた。寛永12(1635)年の武家諸法度の改訂で、大名に「参勤交代」を義務づけ、さらには大名の妻子の江戸住みを定めるなど、大名統制を徹底した。
 海外相手には、幕府による利益独占とキリシタン排除の目的で、長崎での貿易に限定して、取引相手もオランダ人と中国人に限定していく。寛永10(1633)年から寛永18(1641)年にかけて、順次統制を強めてゆき、日本人の東南アジア方面への往来を禁止し、朱印船貿易を終焉させると、寛永14(1637)年の島原の乱の後にはポルトガルとも断交、寛永18(1641)年にオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた。
 これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。家光の代で、徳川政権の基本体制がほぼ出来上がると、つづく家綱・綱吉の治世以降、徐々に文治政治への道が開けた。
 家光は1623年から1651年にかけて30年近く将軍職に在任したが、その間には様々な問題も起こった。なかでも最も大きな事件は、寛永14(1637)年10月に勃発した「島原の乱」であった。これは苛酷な年貢による農民一揆と、厳しいキリシタン弾圧に対する宗教戦争と、二つが重なり合った大乱であり、幕府はその鎮圧に半年近くかかった。これに懲りた幕府は、鎖国を徹底することになる。
 さらに、寛永19(1642)年からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。農民統制の必要を迫られた家光は、「田畑永代売買禁止令」を発布して農民の浮浪民化を防止するとともに、「慶安の御触書」と後年俗称される農民統制のための諸令を発して、農村の安定を図った。
 家光には、正室鷹司孝子との間に子がいなかった。若いころの家光は男色を好み、女性に興を示さなかったので、乳母のお福(春日局)は世継ぎを心配し、家光の側室探しに尽力した。やがて、お福は「将軍様御局」として大奥の公務を取り仕切るようになり、老中をも上回る実質的な権力を握るようになった。
 大奥は春日局によって組織的な整備がなされるとともに、春日局が奥入りさせた側室、お万・お楽・お夏・お玉などを家光が寵愛するようになり、のちの4代将軍家綱、5代将軍綱吉が生まれた。以後、大奥は将軍の世継ぎをもうけるための重要な機能を果すようになる。ちなみに、将軍の正妻の子として生まれて、そのまま将軍に就任したのは、徳川15代の中で家光だけであった。
 第3代将軍徳川家光は、祖父家康を深く敬い、日光東照宮を大規模改修させるなどした。優れた政治手腕を発揮し、幕府権力を基礎固めした上に、諸大名に対する幕府の統制を確立させた家光は、慶安4(1651)年4月、江戸城内で死去する。享年48。
(この時期の出来事)
*1621.9.1/ シャム(タイ)国使が将軍秀忠に謁見、通商を許可される。
*1621.-.-/ 関東郡代伊奈忠治が、利根川の流路を渡良瀬川と結ぶ大改修工事を始め、利根川を東流させる。
*1621.-.-/ マニラ郊外ディラオに、3000人の日本人町が復興される。
*1622.8.5/ 幕府は長崎で、キリシタンを大量に虐殺処刑する。(元和大殉教)
*1622.10.1/ 幕府は、父正信以来の重臣で宇都宮藩主の本多正純が、突然改易される。将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられたためという。
*1623.11.13/ イギリスが平戸の商館を閉鎖し、対日貿易から撤退する。
*1624.3.24/ 幕府がスペインの貿易要請を拒否、以後日本・スペイン領ルソン間の国交が断絶する。
*1624.11.13/ 薩摩藩主島津家久が率先し、諸大名の妻子を江戸住いにすることが始まる。
*1625.11.-/ 幕府の政務に携わる天台宗の僧南光坊天海が、忍ケ丘に東叡山寛永寺を建立し、徳川家の廟所とする。

◎キリスト教と鎖国政策

2021-08-19
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【17th Century Chronicle 1631-1635年】
◎キリスト教と鎖国政策
*1631.6.20/ 幕府は海外渡航の貿易船に朱印状のほか、老中による奉書の公布が必要であると定める。(奉書船貿易)
*1631.閏10.20/ 京都所司代板倉重宗が、キリシタン・浪人の隠匿、新寺建立を禁止する。
*1633.2.28/ 奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止。(第1次鎖国令)
*1634.5.11/ 幕府はイエズス会宣教師セバスチャン・ビエラらを処刑する。
*1634.5.28/ 幕府は長崎に、外国船の来航・奉書船以外の渡航を禁止する高札を立てる。(第2次鎖国令)
*1634.-.-/ 各地で踏絵がさかんに行われる。
*1635.5.20/ 外国船の入港・貿易を長崎一港に限定し、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止する。(第3次鎖国令)
*1635.-.-/ 全国で、キリシタンでないことを証明する「寺請制度」が広がる。
 キリスト教禁教と鎖国政策は、切り離しては語れない。織田信長は京都などの仏教勢力に対抗するため、積極的にキリスト教を取り込んだ。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、当初は信長同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、長崎がキリシタン大名大村純忠からイエズス会に寄進され、長崎がキリスト教布教の拠点となるなどして、西国のキリシタン大名が貿易の利益を独占するのを危惧した秀吉は、天正15(1587)年、長崎を直轄領にするとともに「バテレン追放令」を出して宣教師を国外追放とした。
 秀吉は貿易を独占するため朱印船貿易を始めたが、宗教統制と経済とを分離する政策を採ったため、キリシタン取り締まりは、それほど厳しくなかった。ところが慶長元(1596)年、京都のフランシスコ会の教徒たちを捕らえて長崎で処刑するという「二十六聖人殉教事件」が起こる(1596年の禁教令)。これは、同年にスペイン船が土佐に漂着し、その乗組員がスペイン王国の征服意図を誇大に吹聴した「サン・フェリペ号事件」が原因といわれるが、ポルトガルのイエズス会と、後発のスペインのフランシスコ会の布教競争も背景にあったとされる。
 関ヶ原で勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朱印船貿易を活発に行い、貿易の利益を得ようとした。旧教国ポルトガル・スペインとの南蛮貿易を盛んに行い、カトリック宣教師によるキリスト教布教についても黙認した。しかし後発の新教国であったオランダやイギリスが平戸に商館を開くと、先行したポルトガル・スペインと抗争し、これらカトリック国が布教を通じて日本征服を企んでいると、幕府に吹き込んだ。
 大坂の陣を控えていた家康は、キリスト教勢力が豊臣方に付くことを恐れたこともあって、キリスト教禁教に傾いた。やがて肥前のキリシタン大名有馬晴信とポルトガル・スペイン船の抗争で、マードレ・デ・デウス号爆沈事件が起こされ、その事後処理で仲介役のキリシタン岡本大八の収賄事件が発覚した。
 キリスト教布教とは直接関係ない事件だったが、これをきっかけに慶長17(1612)年、家康は「慶長の禁教令」を発布する。この禁教令では、京都や長崎など全国の教会を破壊するとともに、高山右近や内藤如安など有力なキリシタン武将をマニラなど国外に追放した。その背景には、中国産の上質生糸(白糸)を輸入する際に、それに関わるポルトガル・スペイン船やキリシタン大名有馬晴信らの勢力を排除し、幕府が直接に貿易を統制するという狙いがあった。
 当時の重要な輸入品である白糸(中国産の生糸)は、ポルトガル商人により独占的価格で持ち込まれており、幕府は、京都・堺・長崎の有力商人に糸割符仲間を作らせて価格統制をする「糸割符制度」を導入して対抗していた。このような幕府の貿易統制策は禁教と結びついて進められ、宣教師を先兵に進出する旧教国ポルトガル・スペインの「南蛮人」に対して、キリスト教布教にこだわらない新教国オランダ・イギリスの「紅毛人」にシフトしていく流れができてきたのである。
 元和2(1616)年に家康が死去すると、徳川秀忠は、キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策を急速に進めてゆく。同年に貿易港を平戸と長崎に限定し(二港制限令)、元和6(1620)年には「平山常陳事件」が起こり、英蘭がポルトガルの交易を妨害し「元和の大殉教」に繋がる。
 元和6(1620)年、平山常陳が船長をつとめる朱印船が、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された。この朱印船には、スペイン人宣教師2名が商人として乗船していたことが発覚し、この年7月、長崎で平山常陳および2名の宣教師が火あぶり、船員12名が斬首とされた。
 これが江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、翌月には長崎で、それまでに逮捕されていた宣教師や信徒など教会関係者55名が一斉に処刑された。これが「元和の大殉教」と呼ばれ、以後、諸大名もこれにならって、各地でキリシタンに対する迫害を強化徹底した。
 翌 元和9(1623)年、幕府はポルトガル人の日本在住禁止、朱印船のマニラ渡航の禁止などを次々に公布し、江戸幕府の対外政策の方向性を決定付けていくことになる。同年、イギリスがオランダとの競争に敗れて平戸商館を閉鎖、さらに1624(元和10)年にはスペイン船の来航を禁止、寛永8(1631)年には、朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要とする「奉書船制度」を開始した。
 寛永9(1632)年、大御所徳川秀忠の没後も、引き継いだ3代将軍家光は、さらに鎖国政策を徹底していく。寛永10(1633)年、奉書船以外の渡航を禁じ、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた(第1次鎖国令)。寛永11(1634)年、第1次鎖国令の再通達と長崎に出島の建設を開始(第2次鎖国令)。寛永12(1635)年、中国・オランダなど外国船の入港を長崎一港に限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた(第3次鎖国令)。寛永13(1636)年、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す(第4次鎖国令)。
 そして寛永14(1637)年から寛永15(1638)年にかけて、「島原の乱」が勃発する。この乱の鎮圧に幕府は半年を費やし、オランダから武器弾薬の援助を受けるなどして、やっと幕府開闢以来の叛乱を収めた。キリシタンにすっかり懲りた幕府は、寛永16(1639)年、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、新教国オランダのみが西洋の交易国となる。これをもって「鎖国の完成」とされるが、さらに2年後の1641(寛永18)年、平戸からオランダ商館が移設され、オランダ人も出島に隔離された。
(この時期の出来事)
*1631.5.-/ 将軍家光の弟徳川忠長(国松)が甲斐に幽閉される。
*1631.9.21/ 関所の通過規制を強化し、通行手形のない不審者・女性は厳重に差し止められた。
*1632.1.24/ 大御所徳川秀忠(54)没。
*1632.12.17/ 水野守信・柳生宗矩ら4名が「総目付」に任命され、幕政に関わる大名や諸役人の不正を監視する。(「大目付」の初め)
*1633.3.15/ 幕府が筑前黒田藩の騒動を裁断し、家老栗山大膳を南部藩預けとする。
*1633.3.23/ 将軍家光が松平信綱など「六人衆」を起用し、幕政の刷新・若返りを断行する。(「若年寄」の初め)
*1633.12.6/ 乱行により、高崎に幽閉されていた徳川忠長(28)が自刃する。
*1634.7.1/ 将軍家光が上洛し、朝廷との関係修復をはかる。
*1634.8.4/ 譜代大名妻子の江戸居住を命じる。
*1634.11.7/ 荒木又右衛門の助太刀で、伊賀越えの仇討が成就される。
*1635.3.11/ 係争中の対馬藩国書偽造事件(柳川一件)に、将軍家光が処断を下す。
*1635.6.21/ 武家諸法度の改正により、諸大名に「参勤交代」が義務付けられる。
*1635.11.9/ 寺社と遠国の訴訟を管轄する「寺社奉行」が設置される。
*1635.11.10/ 幕府は、老中・若年寄・寺社奉行・町奉行・勘定頭などの職務権限を定める。

徳川家康三方ヶ原戦役画像

2021-08-08
Facebook 徳川美術館さん曰く
◆◆夏季特別展「家康から義直へ」◆◆
徳川家康三方ヶ原戦役画像
聖聡院従姫(9代宗睦嫡子治行正室)所用  2021年8月15日まで展示
-半跏思惟の家康-
 三方ヶ原合戦での敗戦直後の姿を描いたとされてきた家康の画像です。近年では、目を見開いて歯を見せる忿怒(ふんぬ)の表情、片足を上げて顔を頬にあてる半跏思惟(はんかしゆい)の姿から、家康を武神として祀る礼拝像であったと指摘されています。
 2021年8月17日からは桜井清香(きよか)による模本を展示します。

◎鎌倉幕府の滅亡

2021-07-21
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【14th Century Chronicle 1321-1340年】
【14th Century Chronicle 1321-1340年】
◎鎌倉幕府の滅亡
*1324.9.19/ 後醍醐天皇の討幕計画が発覚、六波羅探題の軍勢により鎮圧される。(正中の変)
 *1326.3.13/ 北条高時(24)が病を理由に出家する。後継を巡り内紛が起こり混乱する(嘉暦の騒動)も、高時は遊行にふけり政務をおろそかにするようになる。
*1331.8.24/ 後醍醐天皇の討幕計画が、側近の密告により露顕、後醍醐は神器を奉じて御所を脱出、山城国笠置山において挙兵する。(元弘の乱)
*1331.9.11/ 楠木正成が河内赤坂城で挙兵する。
*1331.9.29/ 幕府軍が山城笠置を攻略、後醍醐天皇を捕らえる。天皇は翌年、隠岐へ配流される。
*1331.10.21/ 河内赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。
*1332.11.-/ 後醍醐の子 護良親王が吉野で兵を挙げ、呼応して楠木正成が千早城で挙兵する。
*1333.4.29/ 山陰道を西に向かっていた足利高(尊)氏が、丹波篠村(亀岡)で天皇方に転じ、一期に状況が一変する。
*1333.5.7/ 足利高氏・赤松則村らが京都六波羅を攻略する。
*1333.5.21/ 新田義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉に突入、北条高時(31)ら一族は東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅びる。
 幕府が朝廷へ介入したことによって、持明院統・大覚寺統の両統迭立となった皇統は、さらに大覚寺統内では、嫡流の後二条天皇派と本来中継ぎであった後醍醐天皇派に分かれて対立していた。そして、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。
 文保2(1318)年、後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐天皇の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなった。正中1(1324)年、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈すると、天皇派の土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、日野資朝・日野俊基など側近公家が処罰された(正中の変)。
 元弘1(1331)年、再び後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、六波羅探題が軍勢を御所に送り込むと、後醍醐は御所を脱出し、山城国笠置山にこもり挙兵する。さらに後醍醐の皇子 護良親王が吉野で、河内国の悪党 楠木正成が下赤坂城で挙兵した(元弘の変)。
 幕府は足利高氏(尊氏)・新田義貞らの討伐軍を差し向け、9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍の下赤坂城のみが残った。劣勢の楠木正成軍は、奇策を駆使して対抗するが、10月、自ら下赤坂城に火をかけて姿をくらませる(赤坂城の戦い)。
 後醍醐は幕府に捕らえられ、翌年、隠岐島に配流され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせる。しかし潜伏して機をうかがっていた楠木正成は、正慶1(1332)年、河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。
 幕府は大軍を差し向け、まず正成の悪党仲間の平野将監入道らが守る上赤坂城を攻め落とす。さらに、吉野でも護良親王が敗れる。しかし、楠木正成はわずかな軍勢で千早城に篭城し、奇策奇襲を用いて90日間にわたって大軍を相手に戦い抜いた(千早城の戦い)。
 播磨国で挙兵した赤松則村は、周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。この状況を見て、元弘3(1333)年閏2月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。
 幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだが、名越高家が赤松円心に討たれると、足利高氏は所領のある丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。そして5月7日、足利高氏は赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。
 六波羅陥落の翌日、新田義貞が上野国で挙兵し、関東御家人を糾合しながら鎌倉を目指し、小手指原の戦い(埼玉県所沢市)を端緒に、何度もの合戦で危機に会いながら鎌倉に迫る。5月21日、新田義貞の軍勢は、海岸線の隘路稲村ヶ崎を干潮を利用して突破、鎌倉市内になだれ込んだ。
 両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、北条高時はじめ北条氏一族は菩提寺東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てる(東勝寺合戦)。さらに3日後、九州の鎮西探題も陥落し、鎌倉幕府は完全に消滅した。
(この時期の出来事)
*1322.-.-/ 津軽の安東季長と宗季が家督をめぐって争い、双方に蝦夷勢力が加担し「蝦夷の反乱」の様相を呈する。
*1325.7.18/ 幕府は元に建長寺船を派遣、元との交易が復活する。
*1331.-.-/ 吉田兼好「徒然草」が完成する。
*1339.-.-/ 北畠親房(顕家の父親)が「神皇正統記」を著す。
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