兵戈無用(ひょがむよう)
「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)
断末魔の死に体へのダメ押し!
艦隊は7月8日に日本本土に接近し、10日に東京を攻撃した。
その後7月13日から15日にかけて北海道室蘭市の製鉄所を砲撃した。
(室蘭艦砲射撃)
これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃であった。
7月15日午前9時35分ごろ砲撃は始まり、およそ800発の砲弾が撃ち込まれた。
この砲撃で日本製鋼所室蘭製鋼所、日本製鐵輪西製鉄所が破壊され、多数の死傷者(民間人:439人)が出た。室蘭八幡宮にはこの艦砲射撃による犠牲者の慰霊碑が建立されている。
その後7月25日まで艦載機による空襲が継続され、ミズーリは空母護衛任務についた。
7月末には、もはや燃料が底をついた日本軍に制海権は殆ど無く、アメリカ艦隊を中心とした連合国軍の艦艇は日本近海で自由な活動を行った。
北海道および本州北部への攻撃は長崎原爆投下日である8月9日に再開された。
翌日の20:54、ミズーリの乗組員は非公式ニュースとして「天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができていた」という知らせを聞き、衝撃を覚えていた。
8月15日の07:45、トルーマン大統領は日本のポツダム宣言受諾を発表した。
ケネディ暗殺犯の釈放勧告 米加州当局、知事が最終判断へ
【ロサンゼルス共同】1968年に米ロサンゼルスでロバート・ケネディ元司法長官が暗殺された事件で、カリフォルニア州当局は27日、終身刑で服役しているサーハン・サーハン受刑者(77)の仮釈放を勧告した。再審査を経て数カ月をめどに州知事が最終判断を示す。勧告を支持すれば同受刑者は53年ぶりに自由の身となる。米メディアが伝えた。
サーハン受刑者は仮釈放を巡る16度目の審理で、銃撃に関する記憶がほとんどないと従来の主張を繰り返す一方、現場のホテルに銃を持ち込み発砲したことの「責任を取る」と語った。
R・ケネディ氏暗殺犯の仮釈放勧告
米メディアによると、カリフォルニア州当局は27日、1968年にロバート・ケネディ元司法長官を暗殺したとして終身刑で服役しているサーハン・サーハン受刑者(77)の仮釈放を勧告した。
州知事が認めれば53年ぶりの出所が認められる。
予備選勝利直後撃たれる
ロバート・ケネディ氏はどんな人物で、その暗殺の状況はどうだったのか。
大統領の8歳下の当時42歳。1963年11月に大統領が暗殺された後に司法長官を辞し、1965年からニューヨーク州選出の民主党上院議員として活躍していた。1968年春、ジョンソン大統領(ケネディ政権の副大統領、暗殺を受けて昇格)が、同年11月の大統領選への不出馬を表明したため、急遽、自らが出馬することを決断した。6月4日夜、カリフォルニア州の予備選で勝利をおさめ、ロサンゼルス市内のホテルで大勢の支持者らを前に勝利演説を行った直後、拳銃で頭部、背中を撃たれて6日に死亡した。
パレスチナ系移民で当時24歳の青年、サーハン・サーハンが現場で取り押さえられ、起訴された。動機はケネディ議員が親イスラエルであったことに反発したためといわれる。翌年、終身刑の判決を受け、70歳を超えたいまも服役中だ。
兄の大統領暗殺事件をめぐっては、さまざまな憶測が飛び交い、あまたの著作や映画を通じて真相に迫る試みがなされてきたのはよく知られるところだ。ロバート氏の暗殺についても1970年代に再捜査が行われたこともあるが、サーハン受刑者の単独犯行を覆すあらたな証拠は見つからなかった。
6月5日付けのポスト紙は、シュレード氏の証言などをもとに、暗殺についての疑問をあらためて投げかけている。