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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

これでお終いですよね!

2021-08-29
1945年夏、東京湾の米国戦艦ミズーリー艦上の調印式です。

断末魔の死に体へのダメ押し!

2021-08-29
日本本土に、艦砲射撃完工!

ミズーリは第3艦隊を率いて日本本土に対する攻撃の準備を行った。
艦隊は7月8日に日本本土に接近し、10日に東京を攻撃した。
その後7月13日から15日にかけて北海道室蘭市の製鉄所を砲撃した。
(室蘭艦砲射撃)
これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃であった。
7月15日午前9時35分ごろ砲撃は始まり、およそ800発の砲弾が撃ち込まれた。
この砲撃で日本製鋼所室蘭製鋼所、日本製鐵輪西製鉄所が破壊され、多数の死傷者(民間人:439人)が出た。室蘭八幡宮にはこの艦砲射撃による犠牲者の慰霊碑が建立されている。

7月17日、18日には茨城県日立市の工業地帯を砲撃した。
その後7月25日まで艦載機による空襲が継続され、ミズーリは空母護衛任務についた。
7月末には、もはや燃料が底をついた日本軍に制海権は殆ど無く、アメリカ艦隊を中心とした連合国軍の艦艇は日本近海で自由な活動を行った。

北海道および本州北部への攻撃は長崎原爆投下日である8月9日に再開された。
翌日の20:54、ミズーリの乗組員は非公式ニュースとして「天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができていた」という知らせを聞き、衝撃を覚えていた。
8月15日の07:45、トルーマン大統領は日本のポツダム宣言受諾を発表した。

ケネディ暗殺犯の釈放勧告 米加州当局、知事が最終判断へ

2021-08-28
共同通信社 2021/08/28 11:52
© KYODONEWS 弁護士に付き添われるサーハン・サーハン受刑者=米カリフォルニア州、1968年6月(AP=共同)

【ロサンゼルス共同】1968年に米ロサンゼルスでロバート・ケネディ元司法長官が暗殺された事件で、カリフォルニア州当局は27日、終身刑で服役しているサーハン・サーハン受刑者(77)の仮釈放を勧告した。再審査を経て数カ月をめどに州知事が最終判断を示す。勧告を支持すれば同受刑者は53年ぶりに自由の身となる。米メディアが伝えた。

 サーハン受刑者は仮釈放を巡る16度目の審理で、銃撃に関する記憶がほとんどないと従来の主張を繰り返す一方、現場のホテルに銃を持ち込み発砲したことの「責任を取る」と語った。

R・ケネディ氏暗殺犯の仮釈放勧告

2021-08-28
共同通信社 2021/08/28 08:49
ロバート・F・ケネディ氏(Photo by Harry Benson/Express/Getty Images)
【ロサンゼルス共同】
米メディアによると、カリフォルニア州当局は27日、1968年にロバート・ケネディ元司法長官を暗殺したとして終身刑で服役しているサーハン・サーハン受刑者(77)の仮釈放を勧告した。
州知事が認めれば53年ぶりの出所が認められる。

予備選勝利直後撃たれる

 ロバート・ケネディ氏はどんな人物で、その暗殺の状況はどうだったのか。

 大統領の8歳下の当時42歳。1963年11月に大統領が暗殺された後に司法長官を辞し、1965年からニューヨーク州選出の民主党上院議員として活躍していた。1968年春、ジョンソン大統領(ケネディ政権の副大統領、暗殺を受けて昇格)が、同年11月の大統領選への不出馬を表明したため、急遽、自らが出馬することを決断した。6月4日夜、カリフォルニア州の予備選で勝利をおさめ、ロサンゼルス市内のホテルで大勢の支持者らを前に勝利演説を行った直後、拳銃で頭部、背中を撃たれて6日に死亡した。

 パレスチナ系移民で当時24歳の青年、サーハン・サーハンが現場で取り押さえられ、起訴された。動機はケネディ議員が親イスラエルであったことに反発したためといわれる。翌年、終身刑の判決を受け、70歳を超えたいまも服役中だ。

 兄の大統領暗殺事件をめぐっては、さまざまな憶測が飛び交い、あまたの著作や映画を通じて真相に迫る試みがなされてきたのはよく知られるところだ。ロバート氏の暗殺についても1970年代に再捜査が行われたこともあるが、サーハン受刑者の単独犯行を覆すあらたな証拠は見つからなかった。
 
 6月5日付けのポスト紙は、シュレード氏の証言などをもとに、暗殺についての疑問をあらためて投げかけている


【徳川慶喜という不可解な将軍】

2021-08-27
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【徳川慶喜という不可解な将軍】
 「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城から不可解な退却をしてしまい、続く戊辰戦争の帰趨を方向付けてしまった総指揮官として、徳川慶喜という人物に興味を感じた。将軍職にあったのはたった一年余りであり、その間、「大政奉還」を奏上し、徳川幕府の消滅に立ち会った「最後の将軍」としてのみ、記憶に残されている。
 徳川慶喜は、天保8年(1837年)9月水戸藩第9代藩主「徳川斉昭」の七男として生まれ、幼名は松平七郎麻呂(以後も改名があるが「慶喜」で統一する)とされた。慶喜の聡明さは幼時から注目され、斉昭は、継嗣慶篤の控えとして、慶喜を他家の養子に出さず手許に置く考えもあったという。
 弘化4年(1847年)8月、十歳のとき、御三卿(御三家に次ぐ家格の徳川家)の一つ、一橋家の養子となり相続、「一橋慶喜」となる。嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に12代将軍家慶が病死、跡を継いだ第13代将軍徳川家定も病弱で、将軍継嗣問題が浮上する。
 「一橋慶喜」を推す実父で水戸藩主の斉昭や阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬らの「一橋派」と、紀州藩主「徳川慶福」を推す彦根藩主「井伊直弼」や大奥で家定の生母本寿院などの「南紀派」が対立した。まもなく阿部正弘・島津斉彬の死で一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老となると、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。井伊直弼がすすめた「安政の大獄」では、慶喜も隠居謹慎処分とされた。
 安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、謹慎を解除され、島津久光らの後押しを受け、慶喜が将軍後見職に、松平春嶽は政事総裁職に任命され、両者は手を組んで幕府中枢に関与し、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などの幕政改革を行う。
 慶喜本人は、将軍継嗣に乗り気ではないというような主旨の手紙を、実父斉昭に送ったりしているが、どこまでが本音でどこまでが建前なのか、いずれとも取れる行動を取っている。将軍後見職についたあたりから、否応なく慶喜の意向が表面に出て来ることになるが、同時に、時代の流れに沿って、その方向が微妙に揺らぎをみせる。
 文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、将軍徳川家茂が上洛することとなったが、慶喜は将軍の名代として先行して上洛、朝廷との交渉にあたった。朝廷側の国政に対する態度は曖昧なまま、一方で幕府に攘夷の実行を命じるなど、交渉は不成功に終わった。
 そんな中、強力な攘夷主義者であった孝明天皇が、石清水八幡宮へ攘夷祈願に行幸することになった。随行した将軍が天皇から節刀拝受すれば、攘夷決行が必須となるので、急遽、風邪発熱との仮病で、家茂の拝謁を取りやめさるといった策略も用いている。
 江戸に戻った慶喜は、横浜港鎖港による攘夷実行という方針を策定し、公武合体派諸候幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛する。ここで横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立すると、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席の伊達宗城、春嶽、久光や中川宮に対し暴言を吐くなどして、参預会議を解体させ、手段を選ばぬ交渉を行なった。
 参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。同年7月に起こった「禁門の変」においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、歴代の徳川将軍の中で唯一、長州兵と切り結ぶなど、武勇をも示した。
 禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄、会津藩・桑名藩らとの提携を強化していった。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐で、慶喜が長州征伐の勅命を得て出陣する。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫する中、7月20日、将軍家茂が大坂城で薨去する。慶喜は急遽、休戦の協定の締結する。
 家茂の後継として、慶喜が次期将軍に推されたが、慶喜はこれを固辞し続け、12月5日にようやく第15代将軍に就任した。この就任固辞も、恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていくという「政略」だったという説もある。この時期の慶喜は、明確に開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。
 慶喜は、将軍在職中一度も畿内を離れず、会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携をとり、実質的に政権の畿内への移転が推進された。さらに慶喜は、幕府を支持するフランスからの援助を受け、近代的な製鉄所や造船所を設立し、フランス軍事顧問団を招いて軍制改革を行うなど、幕府軍の近代化を推進した。
 しかし、先に近代化を進め力をつけた薩長が連合し、武力での倒幕路線に突き進むことを必至と見た将軍慶喜は、慶応3年(1867年)10月14日、薩長の機先を制して政権返上を明治天皇に奏上した(大政奉還)。慶喜は、当時の朝廷には行政能力が無いと判断し、合議制の「列侯会議」を主導する形で、徳川政権存続を模索していたとされる。外憂に加えて内乱の危機が逼迫する状況下で、慶喜は窮余の一策を講じたのであった。
 大政奉還後、慶喜主導での諸侯会議で雄藩連合政府を目指したが、12月、薩摩藩ら討幕派は朝廷クーデターを起こし、制圧した朝廷からは、慶喜ら幕府方勢力を排除した新政府樹立宣言(王政復古の大号令)が発せられた。辞官納地を求められた慶喜は、衝突を避けるべく、恭順の意を示して一旦大坂城へ退去する。
 しかし、翌慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、京都に向け進軍の命令を出し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る(鳥羽・伏見の戦)。勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、少数の近辺者とともに「謎の退却」を為し、幕府軍艦開陽丸で江戸に帰ってしまう。
 以降、戊辰戦争が進展し、「江戸城開場」とともに、慶喜はすべての官職を解かれ、水戸に蟄居、さらに駿府に移封され謹慎する。戊辰戦争の終結とともに謹慎を解除され、引き続き静岡(駿府)で余生を送った。隠居後は、政治的野心は全く持たず、潤沢な手当をもとに写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送った。維新後の旧家臣達の困窮にも無関心で、大正2年(1913年)11月急性肺炎で死去するまで悠々自適であったという。享年77。
 このような生涯を送った徳川慶喜を、どのような人物として見るか。将軍としては、英明ではあるが自ら行動の人ではなかった。祖先徳川家康のような策略家では毛頭なく、その場をしのぐ策を弄したという程度であり、ある意味、冷静沈着ではあるが、節目では大政奉還のような、周辺を驚かすような奇策を発することもある。
 周囲に人望があったのかなかったのか、それを窺わせるようエピソードも見当たらない。むしろ冷淡な人物で、周囲も遠巻きで接していたのではないかと思われる。晩年の徹底した趣味人としての生き方こそ、徳川慶喜の生来の姿を示しているのではないか。いずれにせよ、徳川将軍には、全く不向きな人物だったのではないだろうか。
$『徳川慶喜 最後の将軍』(司馬遼太郎/1997年/文春文庫)
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