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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

生体解剖

2020-09-29
Facebook佐々木信雄さんの投稿

 

『Get Back! 40's / 1948年(s23)』
(米軍捕虜生体解剖事件)
○3.11 [神奈川] 横浜軍事裁判所で、九州大学生体解剖事件の軍事裁判が始まる。(1945.5 米軍捕虜8人に対して行われた生体実験殺人)
 戦争末期の1945年5月、撃墜された米軍のB-29爆撃機が九州阿蘇山中に墜落し、生存搭乗員9名が捕虜となった。指令部からは、尋問のため機長だけ東京に送り、後は各軍司令部で処理すべしという指令が出され、西部軍司令部は裁判をせずに、残された8名を死刑と決定した。これを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医と石山福二郎主任外科部長(教授)は、生体解剖に供することを軍に提案し認められた。
 生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われ、軍から監視要員が派遣され、指揮および執刀は石山教授が行った。終戦後GHQが事件について詳しく調査し、九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。首謀者の一人とされた石山教授は、生体解剖については否認したうえ、調査中に独房で遺書を書き記し自殺し、小森卓軍医は空襲のため死亡している。
 1948年8月に横浜軍事法廷で、西部軍責任者2名、九大医師3名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。これらの手術が銃殺刑の代わりの、生存を考慮しない生体実験手術であることは、立ち会った関係者の目には明らかであった。後に作家遠藤周作は小説『海と毒薬』を著し、不可避的に立ち会わされた医学生や看護婦の目を通して、危機的状況の下では、惰性に流されて倫理感を喪失してしまう日本人の性質を描き出している。
*この年
郵便料金・鉄道・新聞など倍々値上げ/女性のロングスカート、男性のアロハシャツやリーゼントヘアが流行/日本脳炎で死者2620人
【事物】国民の祝日/新制大学/ナイター/110番/プロ競輪
【流行語】老いらくの恋/鉄のカーテン/〜個人として(西尾末広の答弁)
【歌】異国の丘(竹山逸郎・中井耕造)
【映画】酔いどれ天使(黒沢明)/夜の女たち(溝口健二)/美女と野獣(仏)
【本】自由国民社「現代用語の基礎知識」/「美しい暮らしの手帖」創刊/竹山道雄「ビルマの竪琴」

A級戦犯の遺骨「太平洋に散布」

2021-06-09
A級戦犯 遺骨の行方に遺族は|TBS NEWS
米公文書を発見 時事通信社 2021/06/09 17:56

極東軍事裁判でA級戦犯とされ死刑が執行された東条英機元首相ら7人について、遺骨を太平洋に散布したと記した米軍の公文書が発見されていたことが、9日までに分かった。A級戦犯の遺骨が散布された可能性を示す記録はこれまでにも見つかっていたが、公文書で詳細が明らかになったのは初めて。 発見されたのは米軍の報告書2通で、秘密指定の解除後、米公文書館で保管されていた。日本大の高沢弘明専任講師が2018年3月、日本の戦犯に関する調査の過程で入手した。 死刑が執行された1948年12月23日付の報告書には、7人の氏名と共に、散骨を行ったことが短く記載されていた。49年1月4日付のもう1通では、執行から散骨までの経緯が時系列で説明されている。いずれも、現場の責任者だったとみられる米第8軍のルーサー・フライアーソン少佐が執筆した。 報告書によると、死刑執行の当日、少佐らは7人の遺体を巣鴨拘置所から横浜の火葬場に護送。遺骨は骨つぼに入れて第8軍の飛行場に搬送し、「連絡機」と呼ばれる航空機に積んだ。 連絡機には少佐と操縦士が乗り、「横浜の東の太平洋上空約30マイルの地点に進み、GHQ(連合国軍総司令部)の書簡に従って遺骨を広範囲に散布した」という。 高沢氏によると、GHQは死刑執行前に遺骨の散布を求める文書を出していた。報告書には、遺骨を遺族らに返還せず散布した理由は記されていなかった。 高沢氏は「これまで伝聞でしか情報がなかったことが公文書で判明した。執筆者本人のサインもあり、信ぴょう性は高い」と話している。


これまで謎とされてきたA級戦犯7人の遺骨の行方。アメリカで新たに見つかった公文書に「太平洋にまいた」と記されていたことがわかりました。73年目の新事実に遺族が語ったこととは・・・。
 「SECRET」と大きく書かれた公文書。その下には7人の日本人の名前が書かれています。タイトルは「日本の戦争犯罪者7人の死刑執行に関する事実」。これは、アメリカの国立公文書館で見つかった、A級戦犯の遺骨を巡る公文書です。
 第2次世界大戦後の極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」。平和に対する罪などで死刑判決となったのは東條英機元総理や廣田弘毅元総理ら7人のA級戦犯です。これまで、遺骨は遺族に返還されず、どのように処理されたのか、詳細は分かっていませんでした。
 今回見つかった文書には、このような記述があります。
 「遺骨は横浜の東、約30マイル(約50キロ)の太平洋上から広範囲にまいた」
 今回、この文書を発見した日本大学の高澤氏は。
 「(これまで)証言レベルで東京湾とか太平洋と理解されていたんじゃないか。文書として出てきたのは今回が初めてではないか。遺骨が後々、神聖視されないように扱われたのではないかと」(日本大学生産工学部 高澤弘明専任講師)
 「けさ、見ました。うれしいとか悲しいとか悔しいという感情は特にありません」(廣田元首相の孫 廣田弘太郎さん)
 廣田弘太郎さん(82)。死刑となった一人、廣田元総理の孫です。
 「お墓があるんですが、そこには遺髪や何かが入れてあります。実際にはもう滅失してしまって、でもそれが遺灰だと思っています」(廣田元首相の孫 廣田弘太郎さん)
 祖父の遺骨の扱いを記した文書が今回見つかったことについては・・・。
 「記録は廃棄したりしないでとってあったことはいいことだと思います。東京裁判というものについて、ああいう裁判が正しかったのかということについては、まだまだ議論すべきところが残っていると思っています」(廣田元首相の孫 廣田弘太郎さん)

極東国際軍事裁判

2020-09-22
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1946年(s21)』
(極東国際軍事裁判)
○5.3 [東京] 極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷される。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)は、日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた。裁判の被告は、「平和に対する罪」(A級犯罪)、「人道に対する罪」(C級犯罪)および「通常の戦争犯罪」(B級犯罪)という3つの容疑に分類され裁かれた。B級・C級の被告などは、多くは戦争現地で開廷された不備な軍事裁判で裁かれたが、東京裁判ではもっとも重要とされたA級戦犯28名が起訴された。逮捕出頭前に自殺したものが5名おり、起訴された者のうち、大川周明は精神障害で訴追免除、永野修身と松岡洋右は判決前に病死したため、25名が被告として判決を受けた。
・東条英機の頭をはたく大川周明
 1948年11月に下された判決は、死刑7名(東條英機/板垣征四郎/松井石根/土肥原賢二/木村兵太郎/廣田弘穀/武藤章)、終身刑16名、有期禁固刑2名であり、同12月23日、7名の絞首刑は執行された。なお収監されていた受刑者は、獄中死亡者をのぞいて、1956年3月末時点ですべて仮釈放されている。
 石原莞爾のように戦犯指名を免れた者や、岸信介のように戦犯指名されながら不起訴となったもの、また本来は軍国主義者でなかった文民の広田弘毅のように、首相として軍国主義者に流されたとして死刑に処された者もいる。東京裁判を、戦勝国による戦敗国を裁いたものだとか、「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するとか、裁判としての不備を指摘されるのはもっともである。しかし、あくまで「軍事裁判」であり、あまりにも不当な戦争の事後処理として、裁判の不当性は、戦争自体のはらむ不当性に起因するものとしての必要悪だとも考えられる。正当な戦後処理裁判など、かつて一度もなかったし、当然と言えば当然でもある。
 私事だが子供の頃の実家には、何か漢語が書かれた額が掲げてあった。本文は読めなかったが、「畑俊六」という署名落款があったのだけは鮮明に憶えている。家族の誰もがその謂れも人物も知らず、奥の間の飾りとして掲げてあった。父親が、友人の古道具屋の片隅に無造作に転がしてあったものを、ただでもらってきて掲げただけだという。のちになってから、畑俊六がA級戦犯として、東京裁判で無期懲役刑の判決を受けた人物だと知った。戦前戦中ならばそれなりの価値のある揮毫であっただろうと思うと、なぜかその額をいとおしく思ったものである。
*この年
主食の遅配が続く/宝くじなどの売上げ10億円/伝染病が流行/出版社の創業あいつぐ
【事物】接吻映画/婦人議員/婦人警察官
【流行語】あっ、そう/愛される共産党/カストリ
【歌】リンゴの歌(霧島昇・並木路子)/東京の花売り娘(岡晴夫)
【映画】はたちの青春(佐々木康)/わが青春に悔なし(黒沢明)/カサブランカ(米)
【本】創刊雑誌(「世界」「展望」「リーダーズダイジェスト」など)/ヴァン・デ・ヴェルデ「完全なる結婚」/尾崎秀美「愛情はふる星のごとく」

祝賀フライト、東京湾上空です。

2021-08-29
戦争勝った!

1945年9月2日 マッカーサー元帥、東京湾上での演説

2021-09-09
1945年9月2日 マッカーサー元帥のラジオでの演説
平和に向けて
“この厳粛な式を転機として流血と虐殺の過去からよりよい世界、信頼と理解の上に立つ世界、人間の尊厳と、人間の最も渇望している自由、寛容、正義の完成をめざす世界が生まれてくることを私は心から希望している”
1945年9月2日東京湾
連合軍最高司令官のダグラスマッカーサー元帥のスピーチ抜粋


昭和20年9月2日 戦艦ミズーリ降伏文書調印式
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