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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

ドレス姿もいろいろ…皇族13人ご結婚の本誌秘蔵写真集

2022-06-04
森英恵デザインのローブ・デコルテ、26年前のご成婚の「祝賀パレード」
女性自身 - 3 時間前
6月9日は雅子さまご成婚記念日。’58年の創刊以降、『女性自身』が見届けた皇族のご結婚は13回。プリンセスの美しいドレス姿やはにかむ笑顔、描く家族像は国民の関心の的であり、日本社会の結婚観をも左右した。ドラマチックなご結婚の数々を振り返りますーー。
© 女性自身 59年、上皇后 美智子さま(写真提供:宮内庁)

【’59年】上皇后 美智子さま

上皇陛下との“テニスコートの恋”から、初めて民間から皇室へお輿入れされ「世紀のご成婚」と言われた。美智子さまは当時「ミッチー」と呼ばれ、多くの国民が魅了された。リボンが印象的なローブ・デコルテは、クリスチャン・ディオールがデザインしたものだった。

【’60年】昭和天皇の五女 島津貴子さん

称号の「清宮(すがのみや)」と名前の頭文字から「おスタちゃん」と親しまれた貴子さん。21歳で薩摩藩主の末裔で旧伯爵家の島津久永さんと結婚。当時、会社員の花嫁となったことも話題に。

【’64年】常陸宮妃 華子さま

旧伯爵家の津軽家から上皇陛下の弟宮、常陸宮さまと結婚された華子さま。一度のお見合いで決めた旧伯爵家からのお輿入れは、皇族や旧華族などの要望が強かったと言われた。

【’66年】三笠宮家の長女 近衞甯子さん

三笠宮崇仁さま(故人)の長女。熊本・細川家から母の実家の近衞家に養子に入った忠煇さんと結婚。学習院女子中・高等科の同窓会「常磐会」の会長を務めたことも。

【’80年】寛仁親王妃 信子さま

「ヒゲの殿下」と親しまれた寬仁さま(故人)からは、高校生のときにプロポーズを受けられ、8年後にご結婚。「トモさん」「ノンチ」と呼び合う仲だった。寬仁さまと兄の麻生太郎自民党副総裁は若いころからの友人。

【’83年】三笠宮家の次女 千容子さん

スイスの学校やパリのソルボンヌ大学で学び、奔放な宮様と言われた容子さん。帰国後、年下の茶道裏千家宗家16世、千宗室さんと結婚。現在、2男1女の母である。

【’84年】高円宮妃 久子さま

高円宮さま(故人)から「Will you marry me?」とプロポーズされ、「Yes.」とお受けしたことで有名。高円宮さまは夜中に久子さまのお父さまに会い、結婚の了承を得たという。

【’90年】皇嗣妃 紀子さま

秋篠宮さまとは学習院大学で出会い、“キャンパスの恋”として話題に。プロポーズは、大学近くでの信号待ちのときだった。昭和天皇の崩御から1年たたずのご婚約に批判する声も出たが、紀子さまの笑顔が人気となり、ご結婚は平成最初の皇室の明るいニュースとなった。

記念写真の撮影合間に、秋篠宮さまの御髪を整えられる紀子さま。有名な一枚だが、撮影が許された時間外での写真だったため当初は宮内庁が公開を拒否していた。

【’93年】皇后 雅子さま

’86年に東宮御所で催されたスペイン・エレナ王女の歓迎レセプションで出会われたお二人。天皇陛下はそのときの会話で心をつかまれ、雅子さまを一途に思い続け7年越しでプロポーズされた。ご結婚当日のドレスは美智子さまから贈られた絹地「明暉瑞鳥錦(めいきずいちょうにしき)」から作られ、森英恵がデザインした。

芦田淳デザインのドレス姿の雅子さま。ご結婚後、6回催された宮中饗宴の儀では、優美なドレス姿で世界中からの賓客を魅了された。

【’05年】上皇陛下の長女 黒田清子さん

秋篠宮さまの学習院時代からの友人で、都庁職員の黒田慶樹さんと結婚。帝国ホテルでの披露宴の装いは、清子さんが好きだった映画『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロイン、クラリスのドレスを模しているといわれる。

【’14年】高円宮家の次女 千家典子さん

お母さまの久子さまと親交のある出雲大社の宮司を務める千家家の長男、国麿さんと結婚。出雲大社での結婚式でお召しの大正天皇の后・貞明皇后ゆかりの袿袴(道中着)の装いが注目された。

【’18年】高円宮家の三女 守谷絢子さん

日本郵船勤務の守谷慧さんとの結婚は、ハンサムなエリートとの理想的な結婚と言われ、国民から支持された。明治神宮で挙式の後、ホテルニューオータニで披露宴が催された。

【’21年】秋篠宮家の長女 小室眞子さん

小室圭さんと国際基督教大学で出会い’17年に婚約が内定したが、小室家の金銭問題が発覚し結婚が延期に。この間、多くの国民に心配されたが、’21年、皇室の一連の儀式を執り行わずに結婚。当日、記者会見を開いた。

 英王室のキャサリン妃が、エリザベス女王の即位70年を祝うイベントで、ダイアナ妃が愛用したサファイアとダイヤモンドのイヤリングをお披露目した。
© (C)Zeta Image 英キャサリン妃、ダイアナ妃愛用のイヤリングで祝賀イベントに
英キャサリン妃、ダイアナ妃愛用のイヤリングで祝賀イベントに クランクイン! - 3 時間前

記念すべきビッグイベントに、キャサリン妃は、アレキサンダー・マックイーンによる白のブレザースタイルのワンピースと、フィリップ・トレイシーのソーサーハット、そしてサファイアとダイヤモンドのドロップピアスを付けて参列した。

 Peopleによると、このイヤリングは、亡くなったダイアナ妃が愛用していたものだそう。ダイアナ妃はサファイアのジュエリーをいくつか所有しており、今回キャサリン妃が着用したのは、1996年のメットガラや、1991年のカナダ訪問時に、妃が巨大なサファイアとパールのチョーカーと共に身に付けていたものだ。

 実はこれまでも、キャサリン妃はこれに似たサファイアのイヤリングを身に付けていたが、ダイアナ妃のものよりも小ぶりなので、模して作られたのではないかと見られていたそう。

 ちなみに、チョーカーの巨大なサファイアはもともとブローチで、ウエディングギフトとして女王の母エリザベス王妃からダイアナ妃に贈られたもの。それが後に、ダイアナ妃が愛用した7連パールのネックレスのセントラルピースに使用され、こちらもキャサリン妃が受け継いだのではないかと見られているが、まだ公の場では登場していない。

 エリザベス女王の長期に渡る在位を祝う今回のセレモニーは、アイコニックなイヤリングを初めてお披露目する最高の機会だったのかもしれない。

日大新理事長に林真理子氏=芸術学部卒、来月就任へ―改革意思や実行力評価

2022-06-03
© 時事通信 提供 末松信介文科相(右)と面会する日本大学次期理事長の林真理子氏(右から2人目)=3日午後、東京都千代田区
2022/06/03 19:14

 日本大学は3日、次期理事長に日大の卒業生で作家の林真理子氏(68)を選出することが決まったと発表した。新学長には元総長の酒井健夫氏(78)を選出。7月1日から新体制が発足し、信頼回復に向けた取り組みを進める。

 理事長選考は、学外の有識者ら4人を含む計6人の委員が、書面や面談などを通じて行った。

 選考委は理由書を公表し、林氏が「日本文芸家協会」の初の女性理事長として、自らイベントを企画立案するなどの実績を挙げたほか、大学再生への固い決意や実行力を指摘。さらに「強い愛校心」にも触れ、「途中で投げ出すことのない胆力や誠実かつ真摯(しんし)に取り組む姿勢を持っている」とした。

© 時事通信 提供 末松信介文科相(右手前)と面会する日本大学次期理事長の林真理子氏(左から2人目)=3日午後、東京都千代田区
「素晴らしい人事だ」“日大のドン”が激白 林真理子氏“新理事長”に

新体制に注目が集まる日本大学です。新理事長に作家の林真理子さん(68)が就任することが決まりました。田中英寿前理事長が番組の取材に応じ、「素晴らしい人事だ」と話しました。

 3日昼すぎのことでした。都内の飲食店から出てきたのは田中前理事長です。

 午後に決まった新理事長。決まる直前です。

 日大元理事長・田中英寿氏:「(Q.林真理子さんが新しく…)いやいや素晴らしいよ」

 田中前理事長が新しい理事長人事について見解を述べました。

 林真理子さん本人は2日…。

 日本大学新理事長・林真理子氏:「本当に心をずっと痛めていたので、やるせない思いだった」

 そして、一夜明けた3日昼すぎのことです。もう一方の当事者といっていい人物が取材に応えました。

 日大前理事長・田中英寿氏:「(Q.林真理子さんが新しく…)いやいや素晴らしいよ。素晴らしい人事だと思いますよ」「(Q.どういうところが?)有名人だもん、著名人だしね、OBだし、言うことありませんよ」「(Q.ご自身はどのように過ごしている?)今、だから仕事ないから家にいる」「(Q.きょうは何しにお店に?)俺あそこに住んでんだよ、自宅だよあれ」「(Q.これからどちらに?)関係ないだろう」「(Q.ちなみに林真理子さんについては?)今、答えた通り。以上。言うことない」「(Q.林真理子さんがきょう承認されるが)知らないよ、そんなこと。全然、俺はタッチしてないもの」

 日大アメフト部の悪質タックル問題が浮上したのは2018年。

 日大アメフト部・内田正人監督(当時):「信じて頂けないと思うが、私からの指示ではございません」

 司会者:「もうやめて下さい、やめて下さい。同じ質問が繰り返されているので、これで会見の質問は終わりにします」

 この会見を見た林さんは当時「週刊文春」のコラムで、こう書いていました。

 林真理子氏:「しばらくぼうぜんとして次に猛烈な怒りがわいてきた。日大の記者会見を見たからである。まともなのは学生だけで、指導者もコーチもひどい、ひどすぎる。司会者もどうしてあんなアホなジイさんを連れてきたのだろうか」

 司会者:「これだけ聞けば十分です。いいです、しゃべらないで下さい」

 記者:「司会者のあなたの発言で日大のブランドが落ちてしまうのでは?」

 司会者:「落ちません」

 林真理子氏:「こうなったらイメージがとことん落ちた母校のためにひと肌もふた肌も脱ごうではないか。あのガバナンス全くなしオヤジばかりのオレ様主義の学校をオバさんの力で何とか変えてみたい」

 林さんは「ルンルンを買っておうちに帰ろう」でデビュー。1986年には直木賞を受賞しています。

 一方で、大学経営の手腕は未知数。おばさんの力で日大を変えることができるのか。

 新しい理事長人事。学生たちはどう受け止めているのか。

 日本大学の学生:「林さんでしたっけ(日大の)印象悪くなったのかな。そこは回復できたら」「(林氏を)知っています。日大の中が改善されるならいい」

 林真理子さんへの期待。田中前理事長にも聞いてみました。

 日大前理事長・田中英寿氏:「(Q.田中さんからお伝えしたいことは?)ありません何も。何もありません、以上」

「チャールズ国王」へ備え 退位せず、公務移譲進める―英女王在位70年

2022-06-03
エリザベス英女王(左)とチャールズ皇太子=2019年10月、ロンドン(AFP時事)
2022年06月03日07時05分

 【ロンドン時事】4月に96歳になったエリザベス英女王は、存命中の君主として世界最高齢だが、「生涯を国民にささげる」と誓った通り、生前退位の考えはないとみられている。その一方、長男チャールズ皇太子(73)に重要な公務を移譲するなど、「代替わり」への準備も進めている。

〔写真特集〕エリザベス英女王在位70年 プラチナ・ジュビリー

 女王は5月10日、毎年恒例の議会開会式での演説を「移動が困難」なことを理由に取りやめた。歩行に問題を抱え、昨年10月ごろからつえを手放せなくなっていた。
 女王が行う政府施政方針演説の代読は、英国の立憲君主制を象徴する重要な行為だ。女王が開会式を欠席したのは妊娠中だった1959年と63年に続き3度目だが、大法官が演説を読み上げた最初2回と異なり、今年代役を務めたのはチャールズ皇太子だった。
 王室有力筋は英紙タイムズに、皇太子の登壇は女王が「意識的に決断した」もので、「チャールズ国王」の時代が近づいていることを国民に強く印象付ける狙いがあったとの見方を明らかにした。
 女王は可決された法案の裁可、外国元首や大使の接受、首相との定期会見などの公務で多忙だ。王室メンバーがパトロン(後援者)を務める慈善団体など約3000組織のうち、約600団体(昨年時点)は女王がパトロンだ。
 それでも数年前から、秋の戦没者追悼式での慰霊碑献花、叙任といった重要公務のかなりの部分は、皇太子はじめ他の王室メンバーに任されている。女王に届けられる政府文書には、皇太子も時間を置かずに目を通しているとされる。
 王室筋はタイムズ紙に、継承の道筋をめぐっては女王自身がかじ取りをすると説明。一方で皇太子についても「準備を確かなものにするため、自身のチームを率いて奮闘している」と語っている。

神社本庁トップが失脚か、2人が新総長を自認で「南北朝時代」突入を危惧する声

2022-06-03
ダイヤモンド編集部,宮原啓彰 2022/06/03 16:25
全国約8万社の神社を傘下に置く宗教法人、神社本庁。6月3日に満期を迎える、その巨大宗教法人のトップ人事が目下、前代未聞の大混乱。新総長を自認する2人が併存しかねない事態に陥っている。(ダイヤモンド編集部 宮原啓彰)
象徴的な存在である統理が 「指名権」を使って田中氏を“失脚”か

「もう好きにやってくれよ、という感じですね」――。 全国約8万社の神社を傘下に置く宗教法人、神社本庁。その幹部の一人は取材にそう投げやりに答えた。 日本最大の信者数を誇る巨大宗教法人のトップ人事が、過去に類を見ない大混乱に陥っている。 神社本庁(ひいては神社界)の象徴で「聖」の部分を担う「統理」に対し、「俗」の部分を担う事務方のトップで事実上の権力を持つのが、神社本庁「総長」だ。 現在の統理は鷹司尚武氏。公家の家格の頂点である「五摂家」の一つ、鷹司家の現当主であり、昭和天皇の第3皇女の養子で、上皇陛下の義理の甥に当たる人物だ。家柄だけでなく、慶應義塾大学大学院修了後、日本電気(NEC)に入社、最後はNEC通信システム社長を務め、神社界の“外”でも功績を残している。 一方、6月3日に任期満了を迎える現在の総長は、田中恆清氏。歴代最長の4期目にあり、4日以降も前人未到の5期目突入を狙っていたとされる。神道政治連盟会長、打田文博氏と共に神社界を牛耳る2トップと言われてきた人物だ。 そして、5月28日に開かれた神社本庁役員会で、6月4日付け以降の新総長の人選が図られたが、「多くの役員から田中氏の再任に異議を唱える声が続出した一方、吉川通泰副総長ら田中派も納得せず、激しく紛糾した」(神社本庁関係者)という。 その理由は、本編集部が報じた神社本庁の不動産売却(関連記事:『神社本庁で不可解な不動産取引、刑事告訴も飛び出す大騒動勃発』)を巡り、田中氏を含む神社界の上層部と業者の癒着があったと内部告発した結果、懲戒処分を受けた元幹部職員2人が地位確認を求めた訴訟で、最高裁が4月、神社本庁の上告を退けて、2人への処分無効と未払い賃金の支払いを命じた1、2審判決が確定したことにある。 全面敗訴となったこの上告を、半ば強引に組織決定した田中氏の責任が追及されたわけだ。 そして、役員会の終盤、鷹司統理が、田中氏失脚を意味する、鶴の一声を発する――。 なんと鷹司統理自身が、“新総長”として、北海道神社庁長で神社本庁理事を務める芦原高穂氏を指名したのだ。芦原氏もこれを承諾したという。 この意味について、馴染みのない人にも分かりやすく例えれば、天皇は内閣総理大臣の「任命権」を持つが、これとほぼ同じく、統理は神社本庁総長の「指名権」を持つ。 異なっているのは、総理大臣の方は「国会の指名によって」という但し書きがつく一方、神社本庁総長の方は庁規によって「役員会の議を経て、(中略)統理が指名」と定められている点だ。 だが、もちろん統理自らの判断による指名は前代未聞の出来事。従来の総長人事は、役員会で「統理一任」となるものの、その実、内々に決まっていた人物の名が書かれた紙が事前に事務方から統理に渡され、統理はそれを読み上げるのが慣例となっていた。「鷹司統理は、(役員会に先立って開かれた)評議員会で噴出した田中総長の再任に反対する声を勘案したのではないか」と、神社関係者はその心中を推測する。 4日以降の新総長は一体、誰になるのか?神社本庁は3日13時現在、「まだ総長人事は決まっていない」とした。一方、前出の神社本庁幹部は「田中派の幹部や役員たちは、『役員会で結論が出ていない以上、4日以降も田中氏が総長だ』という立場を崩していない。このままでは最悪、総長を自認する人間が2人並存するという、“南北朝時代”さながらのめちゃくちゃな事態になりかねません」と話す。 前述の裁判の全面敗訴だけに止まらず、近年の田中総長体制下の神社本庁では、田中・打田両氏の右腕と言われ、裁判担当も務めた神社本庁兼神政連幹部職員の不倫疑惑(関連記事:『安倍応援団の神社幹部が不倫か、神社界揺るがす裁判に影響も』)など醜聞続き。さらには、「先の大嘗祭では、本来あるはずの宮内庁から神社本庁への相談さえなく、鷹司氏は神社本庁統理としてではなく、鷹司家のご当主として呼ばれている。宮内庁も現在の神社本庁と距離を置き始めている」(別の神社関係者)とされる。 土壇場で新総長は1人に絞られるのか、4日以降の展開が注目されるが、少なくても「神は八百万いるから総長も…」とはいかないだろう。

都に風が・・・

2022-06-02
京都雑記【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】
◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム
*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。
 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。
 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。
 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。
 フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。
 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。
 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。
 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。
「悲しくてやりきれない」 
 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。
 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。
「日本のフォークブーム」 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930
(2021.12.07追記)
「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA
 夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。
 入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。
 受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。
 そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。
 実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)
(2021.12.08追記2)
さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。
「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg...
 この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。
 一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。
 本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。
 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。
 写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。
『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ
野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
ぼうしにいっぱい つみゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
いくさで死んだ 悲しい父さん
私はあなたの 娘です
二十年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていて下さい はるかな父さん
いわし雲とぶ 空の下
いくさ知らずに 二十才になって
嫁いで母に 母になるの
(2021.12.08追記3)
「風/はしだのりひことシューベルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ&t=1s
 フォークルが10ヵ月ほどで予定通り解散したが、それに先駆けて端田宣彦は、学生仲間たちと「シューベルツ」というグループを結成し、同じ同志社大学の井上博や越智友嗣と立命館大学の杉田二郎をひきいて、いきなり「風」というヒットを飛ばした。
 さらに「さすらい人の子守唄」などのヒットを飛ばし、頻繁にテレビなどに出演した。なかでも、カウボーイハットにウッドベースを担当する井上博は、端正なあまいマスクで若い女性に大人気だった。その井上が、1年余りの活動ので、あっけなく死去してしまう。過労なのか、内臓不全が死因だという。
 この井上博は、実は実家の近くの商店街で、イノハツという屋号のタバコ屋の息子だった。小学校から高校までずっと、二学年上で在籍していたのを憶えている。直接言葉をかわしたおぼえはないが、近くの神社で一緒に遊んだような記憶もある。テレビではライトなどで色白でハンサムに見えていたが、実物の本人はどす黒い顔色をしていて、子供のころから、内臓が悪かったのではないかと思った。
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