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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

戦士の休息

2022-05-16
Facebook 安土 実  さん曰く

田中角栄 多分 神楽坂の別邸の方ですね。 正妻 田中 はな
神楽坂に 田中角栄は 最初住んでたんですね。
目白御殿は 昭和20年代後半 あたりか
堀子爵家の家作を売却したものを 田中角栄が 購入して 増築していったんですね。
ただ 田中角栄は ビートルズ来日の頃も ほとんど 神楽坂に住んでおり
1966年ごろですね。
この方が 田中真紀子さんのお母さんですね。
神楽坂はん子の家を買ったもので
よく 神楽坂の 道の掃除を するのが 趣味だったらしいですね。
この頃 ビートルズが 来日した頃で ビートルズも聞いてたらしいですね。
ここから 市ヶ谷の 会社に行き 国会に 通ったんですね。吉田茂が 驚愕した 驚くべき 天才ですね。
田中角栄全盛期の 演説の人気は
芸能人も 全く かなわなかったですね。

ケ号作戦

2022-05-15
Facebook 矢ケ崎 浩一  さん曰く

敵国アメリカをして「パーフェクトゲーム」と言わしめ、「奇跡」の言葉とともに広く知られている「ケ号作戦」。一般的には「キスカ島撤退作戦」として知られるこの作戦は、確かに結果だけ見ると奇跡であることは疑いありませんが、そこには「何としても兵を救う」という強い意志の元、既成のルールや精神論を排除してこの作戦をけん引した優秀な軍人たちがいました。
「キスカ島撤退作戦」です。
 日本軍が、米軍の反攻ルート遮断の目的で、アリューシャン列島に進出したのは1942年、最終的にはアッツ島に2,600名、キスカ島に5,200名の陸軍兵力を進駐させます。
 しかし、戦局の悪化とともに補給は困難となり、戦力が急激に低下する中、1943年5月、ついにアメリカ軍がアッツ島に上陸、奮戦むなしくアッツ島守備隊は全滅。戦争中で初めて「玉砕」という言葉が使われたのはこの戦いでした。
 当然ながら米軍は次の目標をキスカ島に定め、同島は米艦隊に完全に包囲されてしまいます。
当時北部軍(後の第五方面軍)を統括していたのは、樋口季一郎中将。いわゆる「オトポール事件」で満州国へのユダヤ難民入国を特例で許可し、その後当時参謀総長だった東条英機に対し、「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることが正義でしょうか」と主張した人格者です。
 彼は米軍がアッツ島へ襲来した際、現地には「必ず増援を送る」と打電し、その手配に奔走していましたが、そんな彼に下達された命令は「アッツ島増援の放棄」という無情なものでした。2,600名の将兵を見殺しにする決断に樋口中将は涙を流して落胆したとも伝えられますが、ここで彼は一つの行動を起こします。彼はその無情の命令に対し、大本営に「キスカ島撤収に海軍が無条件での全面協力をすることを条件に命令に従う」と返信しました。アッツ島は救えなくとも、キスカで同じ轍を踏まないという、無念ではあるが彼らしい現実的な判断でした。そして、中将のこの訴えに対し、大本営は「キスカ撤収作戦」を正式に承認、この中将の行動から撤収作戦が動き始めます。
 そしてこの作戦においては海軍にも優れた指揮官がいたことを忘れてはいけません。現場で撤収作戦を指揮した、第一水雷戦隊司令官、木村昌福(きむらまさとみ)少将です。苦戦したガダルカナル撤収においても日本軍がかろうじて維持していた制空権、ここにはそれがない以上、海上兵力だけで包囲下のキスカへ突入することになります。ここで少将は作戦遂行の前提として「濃霧時の作戦遂行」を絶対条件にあげます。同海域に頻繁に発生する濃霧に紛れてキスカに接近、限られた短時間の間に5,200名という大量の人員を各艦に乗せて撤収しなければなりません。霧が晴れてしまえば優勢な米海軍、空軍の大兵力が同戦隊に襲い掛かることになります。
 果たして旗艦「阿武隈」をはじめとする第一水雷戦隊は7月7日、キスカを目指して出航。
 木村少将は出向前に上層部に対し以下の二つを強く主張しています。
・キスカ滞在は最高でも1時間以内、それ以上たった場合は救出作戦を中止してでも撤収する。
・その短時間に5,200名を迅速に収容するため、陸軍兵は38式小銃も含めた全装備を放棄する。
 この主張に対しては、陸軍から「天皇陛下から戴いた銃を捨てろとは何事か!」と激しい抗議が発せられましたが木村少将はガダルカナルにおいて、小銃の回収にこだわるあまり出航が遅れた実例をもとに頑として譲りません。最終的には樋口中将が「独断で」その方針に許可を与えています。精神論ではなく、何が優先事項なのかを冷静に見据えた英断と言えるでしょう。その後大本営ではこの樋口中将の判断が大きな議論となりましたが、本人は一顧だにしなかったそうです。
 そして意外に重要なファクターが「霧」に関する優れた現場判断についてのエピソード。実は当初の作戦決行日程は7月11日だったのですが、霧がなかなか思うように発生せず、司令官の木村少将は2日、3日と実施日を延期、上層からは「危険を冒さずして任務遂行ができるものか」と厳しい声も上がりましたが、木村少将は黙したまま泰然としていたそうです。精神論に流されたら作戦は失敗する。そのことを固く信じた所作と思います。
 そして7月29日、実に決行予定日を3週間近く過ぎたその日に、とうとう作戦海域を濃霧が覆いました。そして、第二次作戦において、皆さんご存知の通り、神がかり的な撤収を成功させたのです。
 この作戦を語る際、往々にして「幸運」「奇跡」等の言葉が多く用いられますが、実際のところを調べてみると、木村少将をはじめとした第一水雷戦隊は、レーダー装備の高速新鋭艦「島風」をこの作戦のために編入、各艦の船体についても大発の出撃~回収を見据えた改造が施され、キスカ湾突入のシミュレーションが幾度となく繰り返された他、軍の気象担当も、過去の気象データから、最適な日にちの選定に全力を尽くしたなど、非常にち密な準備がなされていたことがわかります。それ故、霧という僥倖を最大限に生かすことができたといえるでしょう。
 最後に、無念にも玉砕したアッツ守備隊ですが、彼らの奮戦も作戦成功に大きく寄与しています。指揮を執った樋口中将をして、作戦の成功は「濃霧、日本海軍の戦友愛、そしてアッツの英霊の加護」という言葉を残していますが、アッツ島守備隊が実に4倍の敵を相手に19日間、この狭い島で戦い、散華したことに対しては米軍も驚嘆したことが米軍側の記録にも残っており、日本軍をして「撤退はあり得ない」という先入観を米軍側に植え付けることに成功しています。
 このまさに奇跡と言える作戦ですが、そこにあったのは偶然や幸運だけではなく、むしろ合理的な判断の元、批判されながらも兵の救出を断固として完遂した優れた指揮官と、その先陣として玉砕した兵たちの奮闘があったが故であることは、覚えておきたい事実だと思います。

チャップリン映画

2022-02-27
Facebook 岩田 宏一 さん曰く 

子供の頃、家族揃って爆笑しながら観たなぁ~
チャップリン映画大好きでした。

ちょうど400年前の今日、イエズス会士・カミロ・コンスタンツォ神父が宇久島で捕らえられました。

2022-04-24

Facebook 日本二十六聖人記念館さん曰く


ちょうど400年前の今日、イエズス会士・カミロ・コンスタンツォ神父が宇久島で捕らえられました。
 1614年の宣教師追放の際にマカオに送られたものの、21年に密かに日本に戻り信者たちのために働いたイタリア人司祭は、1622年4月24日に上五島の宇久島で捕縛されました。
 同年9月15日に平戸の田平で火に焼かれて殉教しました。長崎での「元和の大殉教」の5日後のことでした。
 コンスタンツォ神父は1867年に「205福者」のひとりとして列福されました。
 田平にある「焼罪史跡公園」は、コンスタンツォ神父を顕彰したもので、美しい海に面した岬の先端に位置しています。
 ※おらしょこころ旅「焼罪 (やいざ)」:htps://oratio.jp/p_resource/yaiza-2

ゼレンスキー大統領の妻であるオレーナ・ゼレンシカが、

2022-04-20
Facebook VOGUE JAPAN さん曰く、 『VOGUE』に侵攻直後の様子と母国の惨状、そして希望を語った。
オレーナ・ゼレンシカ、2021年撮影。 PHOTO: STEPHAN LISOWSKI FOR VOGUE UKRAINE
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