兵戈無用(ひょがむよう)
「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)
102歳で没した日本初の商業誌の女性編集長と、その仕事。
日本初の商業誌女性編集長の軌跡
「ちょっと来て見てごらん。中央公論社が『婦人公論』編集者を募集している」
終戦翌年、小さな新聞広告を見た夫の一言が、主婦だった三枝さんの心を「社会へ出て自分の力を試してみたい、という気持ちにかりたてた」(『婦人公論』1997年9月号)。
46年、本誌の戦後復刊第一号が発行された4月に中央公論社に入社。『婦人公論』編集部に在籍したおよそ20年のうち、58年から66年まで編集長を務めて40万部近くまで発行部数を伸ばし、退職後は評論家として活躍した。
主婦である妻たちに、社会に出て「第一の職業」を持つよう説いた論文。以後、多様な主婦論がメディアを賑わせた。
この企画は『暮しの手帖』の花森安治編集長のアイデアによるものだったと三枝さんが回想する。
昭和三十年のある日、私は珍らしく花森氏の自宅へ伺って、いろいろ話をしていた。話はたまたま京大教授桑原武夫氏が「中央公論」に書かれた「俳句第二芸術」という論文に及び、花森氏がふと、「『主婦第二職業』というのは面白いと思うが……」と洩らされた。(中略)
私は花森氏に、「ぜひその題で『婦人公論』に論文を書いて下さい」とお願いした。しかし、氏はちょっと考えた後に、「いや、ライバル誌に論文を書くわけにはいかないからな」と言われ(中略)「では、そのタイトルで、他の方に原稿を書いていただいてもいいですか?」との私の言葉に、「ああいいですよ」との返事が返ってきたのである。
私はその足で評論家の石垣綾子さんをおたずねして「主婦第二職業」――つまり、主婦業は第一の職業とはいえない。これからの主婦は、第二の職業である主婦業に満足していないで、社会に出て、第一の職業につくべきである――という趣旨の原稿をお願いした。
世に言う「主婦論争」の口火となった石垣さんの論文は、このように、花森さんが思いついたタイトルを、石垣さんが見事に肉付けしたものである。
(『暮しの手帖保存版III』臨時増刊号2004年1月1日号より)
「平和と言っても平和はこない」内閣総理大臣顕彰の100歳 一盌にかけた思い
千さんは顕彰状と盾を受け取り、「身に余る光栄。先祖もみな喜んでいる」と笑顔を見せた。首相は「外交の分野で長きにわたり日本文化をアピールしていただいて感謝している」と述べた。
式典後に千さんは、海軍特攻隊員として多くの仲間を亡くした体験に触れ、「残った自分は忸怩(じくじ)たる思いで生きてきた。戦争がない平和な世界を何とか、との思いで一盌(いちわん)をもって世界中を歩き回った。口々に平和と言っても平和は来ない」と、今後も茶道を通じた活動への意欲を語った。
内閣総理大臣顕彰は国や社会に貢献し、顕著な功績があった個人や団体が対象で、これまで34人、16団体が受賞している。
昭和38年6月、関西電力黒部川第四発電所・黒部ダム(通称黒四ダム)完成
背番号42
扇千景という生き方
歌舞伎役者・坂田藤十郎さんとの結婚を機に…
「1954年に宝塚歌劇団41期として娘役で初舞台を踏んだ扇さんは、ほどなく八千草薫さんらとともに宝塚歌劇団に新設した『映画専科』ヘ異動。宝塚映画やドラマで活躍したのち、1957年、映画で共演していた歌舞伎役者で人間国宝の四代目坂田藤十郎と結婚しました」(芸能記者)
結婚を機に一時芸能界から離れるも、知人からの依頼で女優に復帰。加えて1974年から4年間、フジテレビ系の昼のワイドショー『3時のあなた』では総合司会を務めた。その持ち前の度胸のある行動力や発言が注目され、政界入りを打診され承諾。番組内で出馬会見を行ったことも大きな話題となった。
「当時の首相で自由民主党総裁の福田赳夫氏、同幹事長の大平正芳氏らの要請を受けての参議院選挙出馬です」(芸能記者)