本文へ移動

支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

二人のレディーに傷を残したキャスティング

2021-01-13
ジュリーとオードリー
Facebook永井由紀夫さんより
二人のレディーに傷を残したキャスティング
映画「マイ・フェア・レディ」のオリジナルは、ブロードウェイのミュージカル。舞台でコックニーなまりの花売り娘を演じたのはジュリー・アンドリュース。
「マイ・フェア・レディ」はジュリー・アンドリュース主演で大ヒットし、当時としては異例の3年に渡るロングランを記録した。
そうなると当然ながら映画化の話が持ち上がる。映画化の権利を取得したのはワーナー。
当時、あらゆる人がジュリー・アンドリュースがElizaをやると思ったそうだ。  
しかし、映画化権を買ったジャック・ワーナーはそうは思わなかった。
なぜなら、ジュリー・アンドリュースはブロードウェイでは人気でも、当時まだ映画には1本も出演したことがなかったからである。
もっと有名な女優が演じるべきだと考えた。そこで選ばれたのがオードリーである。
オードリーは、このミュージカルを演じるにあたり、相当歌の練習をしたそうである。
実際いまでもオードリーが歌う映像が残っている。
踊り明かそうとか確かに厳しいかなと
ワーナーは最初から歌は吹き替えする予定だったそうだ。
全曲吹き替えると聞かされたオードリーが怒りのあまり撮影現場から去ってしまい、翌日現場に戻ってきて「プロにあるまじき行為だった」とスタッフに謝罪した
一方のジュリー・アンドリュースは、映画版ではスクリーンテストまでしたのに結局主演に選ばれず、そうとう落胆したそうだ。
ブロードウェイ版でヒギンズ教授を演じていたレックス・ハリソンも「有名じゃない」という理由で別の俳優を立てる計画だったそうだ 
白羽の矢が立ったのが、ケーリー・グラントとピーター・オトゥール。ケーリー・グラントは「自分はコックニー訛りの出生だし、そもそもレックス・ハリソンが演じるべき」と断った
ヒギンズ教授の歌は語り調子で何とかなる部分があった
オードリーはケーリー・グラントのように断らなかった。
後に、オードリーは「この役は断るべきだった。あなたがやるべきだった」とジュリー・アンドリュースに謝罪したそうだ。
ちなみに仮にオードリーが断ったとしても、ジャック・ワーナーの次善策はエリザベス・テーラーだったとのこと
メリー・ポピンズ
ジュリーはMy Fair Ladyのスクリーンテストで選ばれなかった後遺症から「私は映画に向いてない」と自虐的だった。
ジュリー・アンドリュースは「では、もしジャック・ワーナーの気が変わって私にMy Fair LadyをやらせてくれるってなったらMary Poppins役は降りて、Elizaをやるから」との条件で了承。
マイフェアレディーとメリーポピンス 
同じ年に公開された因縁の2本の映画。アカデミー賞でジュリーは主演女優賞を受賞し、オードリーはノミネートすらされなかった。
しかしそのジュリーの主演女優賞も、アカデミー会員からの同情票だったという憶測も流れた。
長らくジュリーはオスカー像を屋根裏にしまいこんでいたそうだ。
本当に不幸しか生まなかったキャスティングだった

井上準之助(明治2年3月25日(1869年5月6日) - 1932年(昭和7年)2月9日

2021-01-12
日本銀行第9、11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。
没年月日: 1932年2月9日(62歳没) 死没地: 日本 東京府東京市

町子さんです。

2021-01-12
サザエさんのお母さんです。
Facebook永井由紀夫さんより
町子さんは15歳から漫画家として活動し、約半世紀におよぶ漫画画業においてアシスタントをつけずに一人で描いてきた。早くに父を亡くしたことから、母は娘たちに自立した道を歩むことを望み、町子はプロとして、そして一家を支える大黒柱として漫画に向き合ってきた。『サザエさん』は新聞連載のため、一つ出来上がっても息をつく暇もなくまた翌日分の作品を一から考えなければならない。
 常に精神的に追い込まれた状況下でありながら、町子さんは2~3枚候補が上がると、姉妹にどれが良いかを選ばせ、選ばれなかったものは破いて捨ててしまっていたという。今描けるものの中でベストのものしか世に出したくないのである。決して手を抜かない姿勢
「三コマ目でもうわかっちゃって笑ったとしたら、それは失敗作なんです。」(「週刊朝日」昭和43年4月23日号)この言葉を裏付けるように『サザエさん』はしっかりと起承転結を軸に構成されている。町子さんが残した草稿には一つの作品に対し何パターンもの展開が描かれ、熟考された上で発表されたものであることを示している。

日産とルノー

2021-01-12
コストカッターことカルロス・ゴーン
Facebook佐々木信雄さんより
【20th Century Chronicle 1999年(h11)】
◎日産・ルノーが提携
*1999.3.27/ 日産とルノーが提携で合意する。
 日産自動車は、継続的な販売不振により2兆円あまりの有利子債務を抱え、倒産寸前の経営状態となった1999(h11)年3月、フランスの自動車メーカーのルノーと資本提携(ルノー=日産アライアンス)を結び、同社の傘下に入り更生を図る事となった。
 両社の文化的土壌の違い・車種ラインナップの重複・日産自動車の負債の大きさ・労働組合の抵抗などの理由から、多くの専門家がその行き先を危惧した。日本人社長の塙義一は解任され、ルノー副社長のカルロス・ゴーンが新たな最高経営責任者に就任した。ゴーンは、「日産リバイバルプラン(NRP)」を発表し、徹底したリストラを進めた。
 カルロス・ゴーンCEOは、東京都武蔵村山市の日産自動車村山工場・京都府宇治市の日産車体京都工場などの生産拠点の閉鎖と資産の売却、および2万人超の従業員削減を実施し、さらに子会社の統廃合・取引先の統合・原材料の仕入の見直しなどによって、大幅にコスト削減を達成した。
 一方で、車種ラインアップの整理とデザインの刷新および積極的な新車投入を行い、大きく販売台数を増加させて、国内シェア第2位の座を奪回した。これらの対策によって、2003年6月には当初の予定から前倒しで負債を完済し、コストカッター=ゴーンとしてV字回復を演出して見せた。
 その後、2016(h28)年4月に三菱自動車で燃費偽装問題が発覚し経営危機状態に陥ると、日産が三菱自動車の再建を支援するとし、三菱を加えて「ルノー・日産・三菱アライアンス」を形成することになった。そして2017(h29)年上半期の自動車販売台数では、トヨタ自動車グループやフォルクスワーゲン・グループを抑え初の世界首位に立つなど、世界のトップグループとなった。
 日産自動車は、第二次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であり、グループの持株会社であった日本産業が社名の由来となって、「日産」となった。海外ではニッサンよりもダットサン(DATSUN)のブランドで浸透している地域も多い。
 これは日産の源流となる会社が最初に生産した車に、「脱兎のごとく走る」というのにかけて「脱兎号」と名付けたことに始まる。社名もダット自動車製造となり、さらに作った小型車には、「DATの息子」=DATSONと命名した。さらに英語で同音のSUN(太陽)に変えて、DATSUN(ダットサン)となったという。
 日産は創業時より技術力の高さには定評があり、戦前から故障が少なく高速走行を得意として医者の往診に愛用されたことから、「医者のダットサン」としても親しまれた。さらに戦後には、小型車ブルーバードを発売し、それまで日野ルノーとしてライセンス生産され、タクシーなどで普及していたルノー車をしのいで、国民車的な地位を占めた。
 1966(s41)年には、戦闘機製造で有名な中島飛行機などの流れをくむプリンス自動車工業と合併、スカイライン、グロリアなどの名車をラインナップして、「技術の日産」としての名声をさらに高めた。
 しかし一方で、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」に連なっていた、日本国内各地の地元有力ディーラーの大半がトヨタ自動車に組織化されたため、販売力でトヨタの後塵を拝することになり、1980年代以降にはトヨタとの差は広がる一方となっていった。
 1990年代、バブル崩壊で高価格で収益性の高いシーマやセドリック、グロリアなどの高級車の販売が減少、そして、吸収や合併による複雑な人員構成も影響して、労働組合の力が強く人員整理が進められなかったため、財務体質は悪化の一途を辿り、1998(h10)年には事実上ルノーの傘下に入ることとなった。
 結局、日本人経営者では、過去のしがらみや情実に引きずられて思い切ったナタを振るうことができず、ルノーからコストカッターとして実績のあるゴーンを受け入れることになった。その結果、日産は息を吹き返し、本体のルノーをしのぐほどに復活した。しかし一方で、日産の経営はゴーンの思うままに支配され、やがて発覚する「ゴーンの犯罪」を許すことになったのであろう。
(この年の出来事)
*1999.7.23/ 全日空61便ハイジャック事件で機長が殺害される。
*1999.8.14/ 神奈川県で、キャンプ中の13人が増水した川で流されて死亡する。 
*1999.10.5/ 自自公3党連立が成立し、小渕第2次改造内閣が発足する。
*1999.10.26/ 埼玉県の桶川で、女子大学生がストーカーに殺害される。

梅原龍三郎

2021-01-16
美しい光や色彩に感動すれば 何度でも同じ絵を描く
NHK「 あの人に会いたい」より
天性の豊かな色彩感覚で裸婦画・風景画・静物画などを描き、大正から昭和にかけ日本画壇の最高峰に君臨した巨匠。溢れるばかりの才能を持ち、一作ごとに話題を呼び、数え切れない称讃を手にした梅原が、生涯の師と仰いだルノアールとの出会いと思い出、晩年たどり着いた自らの境地を語る。
TOPへ戻る