各地の別院と教務所
全国の別院・教務所では、今・・・。
東本願寺函館別院本堂
2021-08-04
函館の東本願寺別院は、京都本山の御影堂の設計も手掛けた、帝室技芸員の建築家・九世伊藤平左衛門(1829~1913)により、東本願寺の王道を行くような和風意匠の図案が明治43年に完成。明治時代の最後の月となった45年7月には九世平左衛門の子・伊藤吉太郎(十世伊藤平左衛門)と、千葉出身で大蔵省臨時建築部での勤務経験を持つ、請負師・木田保造(1885~1940)の施工により建設工事が開始。現場での実務は、当時20代後半だった木田が取り仕切ることになった。
しかしこの当時まだ認知度の低かった、鉄筋コンクリートでの新本堂建設は、檀家たちの信用を得ることが出来なかったようで、建設資金のあてにしていた寄付が思いのほか集まらず、当初予定より工事のスケジュールが遅れてしまったという。
そこで檀家総代の三代目渡辺熊四郎と木田は、様々なPR活動を展開する。特に有名なエピソードは、屋根も上がっていないのに[上棟式]と称し、高床に芸者をあげて手踊りを披露し建物の安全を確認させ、その参加者たちに酒を振る舞い宴会を催した話だろう。この他にも商人らしい渡辺のアイディアで、様々な建設資金調達をおこない、起工から3年後の大正4年秋に、木造寺院の意匠を忠実に再現した、鉄筋コンクリート製による東本願寺の巨大伽藍が落成したのである。
また東本願寺函館別院の施工を機に、木田保造は函館で渡辺が経営する金森合名会社の諸施設の施工を手掛ける事になる。しかし函館の人々に、木田が手掛けた鉄筋コンクリート寺院が、耐火性に優れている事を気付かせるには、もう少し時間がかかる事になる。それは竣工より六年後の大正10年4月に発生した大火で、この周辺が類焼するなか、この寺院のみ無傷で済んだのだ。
またこの大火を機に、木田の函館における仕事は急増。そして東本願寺別院のコンクリート建設を決断した、三代目渡辺熊四郎は町の中心人物として、不燃建築を更に推進させていくのである。
東本願寺函館別院本堂(大正モダン建築再訪) : 関根要太郎研究室@はこだて (exblog.jp)
しかしこの当時まだ認知度の低かった、鉄筋コンクリートでの新本堂建設は、檀家たちの信用を得ることが出来なかったようで、建設資金のあてにしていた寄付が思いのほか集まらず、当初予定より工事のスケジュールが遅れてしまったという。
そこで檀家総代の三代目渡辺熊四郎と木田は、様々なPR活動を展開する。特に有名なエピソードは、屋根も上がっていないのに[上棟式]と称し、高床に芸者をあげて手踊りを披露し建物の安全を確認させ、その参加者たちに酒を振る舞い宴会を催した話だろう。この他にも商人らしい渡辺のアイディアで、様々な建設資金調達をおこない、起工から3年後の大正4年秋に、木造寺院の意匠を忠実に再現した、鉄筋コンクリート製による東本願寺の巨大伽藍が落成したのである。
また東本願寺函館別院の施工を機に、木田保造は函館で渡辺が経営する金森合名会社の諸施設の施工を手掛ける事になる。しかし函館の人々に、木田が手掛けた鉄筋コンクリート寺院が、耐火性に優れている事を気付かせるには、もう少し時間がかかる事になる。それは竣工より六年後の大正10年4月に発生した大火で、この周辺が類焼するなか、この寺院のみ無傷で済んだのだ。
またこの大火を機に、木田の函館における仕事は急増。そして東本願寺別院のコンクリート建設を決断した、三代目渡辺熊四郎は町の中心人物として、不燃建築を更に推進させていくのである。
東本願寺函館別院本堂(大正モダン建築再訪) : 関根要太郎研究室@はこだて (exblog.jp)
北海御廟について
2021-08-04
北海御廟が新築されました。
2021-08-04
歴史
大谷光瑩(東本願寺 現如上人)は、「北海道に分骨してほしい」との意志を兼ねてから述べており、生前の1921年(大正10年)に北海道教区が現在地の土地を取得。死後、御廟仮堂を建て分骨を迎えて1925年(大正14年)以降、(一般門徒の?)墓地とした。1934年(昭和9年)10月4日、分骨を納める三重塔(北海廟)を建立した。近年再建された。