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各地の別院と教務所

全国の別院・教務所では、今・・・。

東西本願寺、初の合同法要  

2021-08-29
両派の僧侶で実行委 9月19日に「お待ち受け」御開創550年記念 福井・吉崎御坊跡地 
初の東西合同法要が営まれる吉崎御坊跡地(中央は高村光雲作の蓮如上人銅像)
中外日報 2021年8月27日 11時36分
浄土真宗中興の祖・蓮如上人(1415~99)が北陸での布教拠点とした吉崎御坊跡地の吉崎山上(福井県あわら市)で9月19日、御開創550年記念法要お待ち受け法要が本願寺派、大谷派の僧侶合同で営まれる。関ケ原の合戦後に本願寺が東西に分かれて以降、吉崎山上の所有を巡る両派の争いを経て山上は両派共有地となった。両派の僧侶有志から成る記念法要実行委員会によると、山上で両派の僧侶が出仕しての合同法要は初めてという。

<加賀一向一揆>

2021-08-02
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【15th Century Chronicle 1481-1500年】
<加賀一向一揆>
 本願寺中興の祖と呼ばれる真宗大谷派第8代門首蓮如は、1471(文明3)年、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れて、越前吉崎に吉崎御坊を設け、ここを北陸における布教拠点とした。文明6(1474)年から文明7(1475)年の間、蓮如は吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在し、親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。
 文明5(1473)年には、富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には弟の富樫幸千代を倒した。しかし、政親は本願寺門徒の団結の強さに不安を感じ、逆に弾圧を始めた。蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は追われて越中に逃れた。
 ところが今度は越中の門徒宗が、政親と結んだ石黒光義を打ち破る越中一向一揆が起こり、元気づいた一向宗は加賀に集って国人層とも合流、長享2(1488)年、政親を高尾城に攻めて討ち取った(長享の一揆)。
 蓮如は消息を送って一揆を諌めるが、加賀の門徒宗は、宗主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)のもとで自治を始め、次第に国人層から本願寺門徒宗による支配に移行していった。
 その後、周辺諸国への進撃に失敗し、内部の動揺が広がったり、本願寺中央による抑圧があったり、勢力の弱まる時期もあったが、天文15(1546)年に尾山御坊(金沢御堂)が建設されると、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させたりした。
 さらに、朝倉義景・上杉謙信・織田信長など、本格的な戦国大名とも対立し、一時は一揆勢が上杉軍を各地で破るなど猛威を振るった。しかし謙信率いる上杉本隊により大敗を喫すると、さしもの一揆の勢いにも陰りが見え始める。
 天正8(1580)年、織田信長軍により石山本願寺が陥落、天正10(1582)年、加賀鳥越城の陥落により、100年近く続いた加賀一向一揆も終焉を迎える。
(この時期の出来事)
*1482.11.27/ 足利義政が古川公方足利成氏と和睦する。(都鄙の合体)
*1483.6.27/ 足利義政が創設した東山山荘の常御所(のちの慈照寺)が完成する。
*1485.6.15/ 足利義政が出家する。
*1487.9.12/ 将軍義尚が、六角高頼討伐のため近江坂本に出陣するも、戦果が上がらず2年後に陣中で死去する。
*1489.2.23/ 東山山荘の観音堂(銀閣)の上棟が行われる。
*1489.3.26/ 将軍義尚(義照/25)が、近江の陣中で病死する。
*1490.1.7/ 足利義政(56)没。
*1490.7.5/ 足利義稙(義材)が10代将軍となる。
*1491.1.7/ 足利義視(53)没。
*1493.4.22/ 細川政元が将軍足利義稙(義材)に背き、足利義澄(義高/14)を擁立して挙兵する。(明応の政変)
*1493.閏4.25/ 細川政元の軍勢が正覚寺を攻め、畠山政長は自刃、将軍義稙は龍安寺に幽閉される。
*1494.12.27/ 足利義澄(義高)が、11代将軍に任命される。
*1496.5.20/ 日野富子(57)没。
*1500.6.7/ 応仁の乱により中断していた祇園会(祇園祭)が、30年ぶりに復興する。

京都市 東本願寺岡崎別院 の塀について

2021-07-07
京都市左京区の宗史蹟親鸞聖人岡崎草庵跡

2021年度太子伝会(7月25日)絵解き

2021-07-26
真宗大谷派高岡教区

東本願寺函館別院本堂

2021-08-04
函館の東本願寺別院は、京都本山の御影堂の設計も手掛けた、帝室技芸員の建築家・九世伊藤平左衛門(1829~1913)により、東本願寺の王道を行くような和風意匠の図案が明治43年に完成。明治時代の最後の月となった45年7月には九世平左衛門の子・伊藤吉太郎(十世伊藤平左衛門)と、千葉出身で大蔵省臨時建築部での勤務経験を持つ、請負師・木田保造(1885~1940)の施工により建設工事が開始。現場での実務は、当時20代後半だった木田が取り仕切ることになった。

 しかしこの当時まだ認知度の低かった、鉄筋コンクリートでの新本堂建設は、檀家たちの信用を得ることが出来なかったようで、建設資金のあてにしていた寄付が思いのほか集まらず、当初予定より工事のスケジュールが遅れてしまったという。
 そこで檀家総代の三代目渡辺熊四郎と木田は、様々なPR活動を展開する。特に有名なエピソードは、屋根も上がっていないのに[上棟式]と称し、高床に芸者をあげて手踊りを披露し建物の安全を確認させ、その参加者たちに酒を振る舞い宴会を催した話だろう。この他にも商人らしい渡辺のアイディアで、様々な建設資金調達をおこない、起工から3年後の大正4年秋に、木造寺院の意匠を忠実に再現した、鉄筋コンクリート製による東本願寺の巨大伽藍が落成したのである。

 また東本願寺函館別院の施工を機に、木田保造は函館で渡辺が経営する金森合名会社の諸施設の施工を手掛ける事になる。しかし函館の人々に、木田が手掛けた鉄筋コンクリート寺院が、耐火性に優れている事を気付かせるには、もう少し時間がかかる事になる。それは竣工より六年後の大正10年4月に発生した大火で、この周辺が類焼するなか、この寺院のみ無傷で済んだのだ。
 またこの大火を機に、木田の函館における仕事は急増。そして東本願寺別院のコンクリート建設を決断した、三代目渡辺熊四郎は町の中心人物として、不燃建築を更に推進させていくのである。

東本願寺函館別院本堂(大正モダン建築再訪) : 関根要太郎研究室@はこだて (exblog.jp)

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