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「医師の知性とは何か」

2021-01-13
田畑正久先生のことば
日本医事新報2020年10月03日号No.5032. p.65 掲載
♯医療と仏教 田畑正久(佐藤第二病院院長、龍谷大客員教授)
「医師の知性とは何か」
    「健康で長生き」は医療界の目標であり、多くの国民の願いでもあります。外来診療でも高齢者が健康を目指して受診します。人間関係が出来たころ、対話の中で「長生きして何かしたいことがあるのですか」と聞くと、「別にないのですが」とか「みんなが健康で長生きが良いと言っていますから」という人がいます。しかし、人生において健康で長生きは目的ではなく、手段・方法ではないでしょうか。もし目的であるとする人は老病死に直面した時、悔やみ愚痴を言うことになるでしょう。
    私は医療療養型病棟を担当しています。そこに転院してくる廃用症候群に近い高齢患者に、高血圧症、骨粗鬆症、脂質異常症などの生活習慣病治療薬が投与されていることが多いことに気付きました。この治療の目標をどう考えればよいのでしょうか。当事者は自分の人生を生きる意義をどう受け止めているのでしょうか。
    生命倫理を担当される学者がある講義で、「知性」について以下のような考えを述べていました。「物事は単純に『よい』とか『悪い』とか言えるようなものではありません。物事を多面的に見るということは、ある意味で、そういう『曖昧さ』『複雑さ』に耐えられる力を身につける、ということです。『知性』というのはそういう曖昧さに辛抱強く付き合う力だと思っています。いわゆる『頭がいい』というか、記憶力がいい、計算が速いのは知性ではありません。そういう能力は、答えが決まっているものを短時間に解くことが求められる受験のようなものには有利ですが、単純には答えの出ない問題、人が一生かけて向き合っていかなければいけないような問題に取り組むときには、かえって邪魔になることすらあります。生命倫理の問題というのは、まさにそういう問題だと思います」。
    医学の依ってたつ科学的思考からは、人間に「生まれた意味」「生きることの意義」など出てきそうにありません。医師、教師、看護師など「師」の名称の付く職種の人は、人生の意義などを哲学・宗教的に思考する知性的存在であって欲しいものです。

田畑正久先生発

2021-01-13
聖人の なつかしい真剣な批判内省の世界
私の知っている高徳な宗教家を見ても
高い世界に住んで居なさる方は皆
その頭が大変低いのあります
しかるにその教えを受けた方のほうが
かえって頭が高くて
私の住んでいる世界はこうだと一種の嫌みを受ける場合があります
私は何和上(わじょう)の同行(どうぎょう)だ
私は何先生の教えを受けているというので
それが自慢の種となるというのは 道の真実に出た人ではないのであります
親鸞聖人は八宗兼学の大徳法然上人のお弟子になられたけれど
そうした高慢な態度はちっともなくて
あの高い世界にいつつも 頭は愚禿だと大地についていました
静かに教行信証を拝読して信巻に味わいます時に
高い世界を知りつつも自分の本当の姿を見失わなかった聖人の
なつかしい真剣な批判内省の世界を伺うことができます【住岡夜晃法語】

努力の証

2021-01-13
浩宮様の場合
Facebook永井由紀夫さんより
学習院中等科1年生の時の殿下のご様子
学校の宿題に逆立ちが出されました。
最初のうちは苦手だった浩宮さま
なかなかできません。
でも暇を見つけては壁にむかって練習する毎日
ついにはクラスで一番逆立ちが上手になられました。
クラスメイトにコツを聞かれた浩宮さまはこう答えました。
「一に勇気だよ。二から先は練習さ」
侍従によれば「浩宮さまはコツコツ地道に努力を積み重ねられるタイプ」
逆立ちは努力の証です。
(参考文献松崎敏弥著 『浩宮さまのとっておき会話』 光文社)

田畑先生のことば

2021-01-12
「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する」信國淳(1904-1980)のことば
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第388回
(令和2年10月 5日掲載)医療文化と仏教文化(214)
    今年の仏教関係のカレンダーの標語に信國淳(1904-1980)の「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する」がありました。
    私が大学を卒業した頃、日本人の平均寿命は男、70歳、女、76歳でした。その頃の人生について漠然と、60歳の定年まで働いた後に余生を過ごし、70歳すぎに死ぬというイメージを持っていました。60歳まで仕事に励み、定年後はゆっくり暮らして70歳過ぎに死ぬという人生観です。
    しかし、仏教の学びをしていると、71歳を過ぎた今、目、耳、鼻、体力の衰えなど身体的な加齢現象からは逃れられませんが、意識、心は学びの連続です。定年までには世間的な仕事は十分にこなし、生きる上の知識も学び尽くしているというイメージでしたが、現実には70歳を過ぎても気付き、目覚め、驚きがあり、今でも学び続けています。
    本来なら、これまでの実生活を通して疾(と)うに気づくべきだったという反省の思いもありますが、それとは別の学び続ける楽しみもあるのです。世間的な知識を増やし博学になるというよりは、仏の智慧に照らされて自分の愚かさを深く懺悔(さんげ)させられます。そして「人間とは?、人生とは?」ということを深く、広く考えさせられて、仏教との出遇いを喜び、「人間として生れて良かった、生きてきてよかった」という思いに心が温かくなり、しみじみとした味わいが湧いてくるようです。
    信国先生が言われた「死をかかえて成長する」ということ、「年を取るのは楽しいことですね、今まで見えなかった世界が見えてくるのです」という言葉が身に染みてそう思えるのです。師の言葉に「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁(人間として成長・成熟する機会)として生きる、これを仏道という」があります。日本人の現在の平均寿命は男81歳、女88歳です。恵まれたる長寿を「死への生」ではなく「仏となる生、浄土への生」に導かれて歩みたいものです。

Xmas

2020-12-26
第265代教皇ベネディクト16世は、「無原罪聖マリアの祭日」(12月8日)とクリスマスの間の「聖なる降誕祭を準備する期間」(アドベント)について2005年、以下のようなコメントを発している。 
現代の消費社会の中で、この時期が商業主義にいわば「汚染」されているのは、残念なこと。このような商業主義による「汚染」は、降誕祭の本来の精神を変質させてしまう恐れがある。降誕祭の精神は、「精神の集中」と「落ち着き」と「喜び」であり、この喜びとは、内面的なもので、外面的なものではない。— 教皇ベネディクト十六世の2005年12月11日の「お告げの祈り」のことばカトリック中央協議会
また2012年12月19日には、フィナンシャル・タイムズへ寄稿し、その中で、以下のように述べた。ローマ教皇が経済紙に寄稿するのは非常に異例だという。 
クリスマスには聖書を読んで学ぶべきだ。政治株式市場など俗世の出来事にどう関わるべきか啓示は、聖書の中に見つけられる。……
……貧困と闘わなければならない。資源公平に分かち合い、弱者助けなければならない。強欲搾取には反対すべきだ。……
……クリスマスはとても楽しいが、同時に深く内省すべき時でもある。私たちはつつましく貧しい馬小屋の光景から何を学べるだろう。
— A time for Christians to engage with the world(キリスト者が世界と繋がる時)
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