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京都・文学散策

2021-05-06
【04.「今昔物語集」頼光の郎等共、紫野に物見たる語/紫野・賀茂の祭】

Facebook佐々木 信雄さん曰く



京都・文学散策
【04.「今昔物語集」頼光の郎等共、紫野に物見たる語/紫野・賀茂の祭】
 今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等にて有りける、平貞道・平季武・坂田公時と云ふ三人の兵有りけり。・・・
 然て、紫野樣に遣らせて行く程に、三人ながら、未だ車にも乘らざりける者共にて、物の蓋に物を入れて振らむ樣に、三人振り合はせられて、或いは立板に頭を打ち、或いは己れ等どち頬を打ち合はせて、仰樣に倒れ、樣にし轉びて行くに、惣て堪ふべきに非ず。
 此くの如くして行く程に、三人ながら酔ひぬれば、踏板に物突き散らして、烏帽子をも落してけり。
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 源頼光の四天王のひとり坂田公時(金太郎のモデルと言われる)ら、3人の豪の者が、御所の警護をさぼって加茂の祭り(葵祭り)を見物に行こうと、女官を装って女車に乗り込んで加茂川の河原方面に向かう。
 やっと紫野あたりまで来ると、日ごろ馬を乗りこなす強者も、ガタゴトと狭い牛車(ぎっしゃ)に揺られて、ひどい車酔いでひくっくり返って悶えているうちに、さっさと行列は通り過ぎてしまった、という笑話。
 「紫野」という土地に生まれ育ったので、彼らの辿った道筋など何となく分かり、この話が記憶にのこった。平安京の大内裏(今の京都御所よりは西にあった)を北側の裏口から出て、舟岡山周辺から今宮神社のある紫野を通り、そのまま北東の加茂川堤防に向かう予定だったと思われる。
 今宮神社東門前のあぶり餅屋は、創業1000年と400年の店が向かい合うが、さすがにこの時期にはまだ無かったようで、応仁の乱のあと、西陣という地名が成立したころからという。

京都・文学散策

2021-05-06
【05.芥川龍之介 「芋粥」粟田口】

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京都・文学散策
【05.芥川龍之介 「芋粥」粟田口】
 それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口(あはたぐち)へ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。一人は濃い縹(はなだ)の狩衣に同じ色の袴をして、打出の太刀を佩いた「鬚黒く鬢(びん)ぐきよき」男である。
 もう一人は、みすぼらしい青にびの水干に、薄綿の衣を二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子と云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟にぬれてゐる様子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事おびただしい。
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 豊臣秀吉が、当時の京の街を「御土居」と呼ばれる土塁で囲った。平安京は、唐の都にならって造営されたが、西半分は「長安」、東半分は「洛陽」に擬したとされる。西ノ京の地域は早くから寂びれ、秀吉の時代には、東の洛陽部分が都市として栄えていた。そして御土居で囲われた都市部を「洛中」、その外側を「洛外」と呼ぶようになった。
 御土居には「京の七口」ないし「九口」と呼ばれる、洛外への出入り口が設けられ、そこから各地への街道がのびていた。「粟田口」はそれより以前から、東国に至る街道(のちの東海道)の出入り口として、最も重要な関の一つであったと考えられる。
 拠点は鴨川に架かる三条大橋(秀吉が本格的な橋を造ったとされる)で、橋を渡って東に向かい蹴上の峠に至る地域が「粟田口」と呼ばれた。三条の河原や粟田口などには刑場があり、都を出たばかりとはいえ、もの寂しくおどろおどろしい道が延びるだけの荒地であったと想像される。
 「芋粥」は「鼻」とともに、芥川龍之介の初期の秀作であり、デビュー作の「羅生門」よりも優れている。これらは今昔物語などの中世の説話集などから題材を取り、芥川が独自の創作を加えたものである。とくに「芋粥」と「鼻」は、それぞれゴーゴリの「外套」「鼻」から主題を借用したと考えられる。
 「芋粥」の場合、主人公の五位が、長年の願望であった鍋一杯の芋粥を目の前にして、急に食欲がなくなるという、願望の達成と希望の喪失という不安定な人間心理を描いたとされる。「羅生門」や「鼻」でも同様に、簡単に移ろってゆく人間心理をテーマにしているが、これらは人間の深層意識に着目すれば、一貫した意識の働きに過ぎない。
 芋粥を腹いっぱい食べたいという五位の願望は、みすぼらしく惨めな自らの境遇から目をそらすために抱き続けてきた願望に過ぎず、それが叶えられてしまうと意味を持たなくなるもので、五位の食欲を失せさせるのも当然のことでしかない。同様に、「羅生門」の老婆を眼にして盗賊に豹変してしまう下人や、「鼻」で禅智内供の鼻が元に戻るのを心よしとしない周囲の「傍観者の利己主義」も、深層的エゴの一貫した働きに過ぎない。
 「芋粥」や「鼻」の真髄は、漱石が「鼻」で「自然其儘の可笑味」と表現したユーモアでありペーソスにあるのであって、若い芥川が勘違いしていた、移ろいやすいエゴの心理主義的分析などではなかったのである。
(追補)
 この洛外には刑場がいっぱいあった。粟田口だけでなく、「蹴上(けあげ)」から山科方面に上って行く先の「九条山」にもあり、嫌がる罪人を蹴り上げながら刑場に上って行ったので地名がケアゲとなったり、ひどいのは刑で斬り落とされた首を蹴り上げたのでケアゲだとか言われたという説がある。
 九条山の峠を越えて山科に入ったあたりの「日ノ岡」には「ホッパラ町」という土地があり、処刑された罪人の遺体を、そのあたりの野原に放りっぱなしにしたから「放り原」、つまりホッパラ町だとか、何ともひどい話だ。
 さらに一駅先に行くと天智天皇の陵があり、「御陵(みささき)」と呼ばれる。ここには「御陵血洗町」という地名があり、源義経が平家の兵の首を落して、刀の血を洗ったという逸話からだとされる。

童謡/チキ・チキ・バン・バン/第34回童謡こどもの歌コンクール こども部門銀賞

2021-05-05
薫と友樹、たまにムック。「マル・マル・モリ・モリ! 2014」薫と友樹の振り付き映像

薫と友樹、そしてムックが帰ってきたよ!!
 芦田愛菜・鈴木福と犬による最強にカワイイユニットが2014年版のマルモリ!を歌います! フジテレビ系ドラマ
「マルモのおきて スペシャル 2014」主題歌

「檸檬屋(れもんや)」という喫茶店

2021-05-05
バンドマンだった高木(たかぎ)ブー(72)は、結婚して以来、早稲田大学の近くに住んでいる。
 テレビの「8高木は家を改築、その1階で71年秋、「檸檬屋(れもんや)」という喫茶店が始まった。「しゃれたレコードがあって、本が積んであって。詩や小説を書く学生たちがいた。騒がしくない、ほの明るい店だった」

店主は、早大法学部を6年半かけて卒業した住枝清高(すみえだきよたか)(58)。広島の親に「司法試験の勉強中」とうそをつき続けたが、限界に。元々、文学少年。「群れるのは嫌い」。そのくせ面倒見がいい。飲んべ。ワセダスラムと呼ばれた薄暗い下宿に住み、時々デモに出るほかは、詩の好きな後輩たちと行き来して過ごしていた。

 自分たちで詩を出版したい。でも金がない。住枝は高木に「店をやりたいから1階を貸してください」と頼みこむ。店の名は、梶井基次郎の小説「檸檬」から。

 檸檬屋の出版第1号が、早大4年生だった荒川洋治(あらかわようじ)(56)の最初の詩集「娼婦(しょうふ)論」、28ページ。荒川の級友が住枝の高校の後輩だった。「檸檬屋は、小さな詩集を出す個人出版のひとつだった」と荒川。詩やエッセーで立て続けに賞をとった荒川はいま、現代詩の最前線を走る。

 檸檬屋が出版した早大卒業生の郷原宏(ごうはらひろし)(63)の詩集が74年、優れた新人に贈られるH氏賞に選ばれて、勢いにのった。

 ルポライターの姜誠(カンソン)(48)は76年に早大に入った。上京して下宿探しを始めた日に、疲れ切って入った店が檸檬屋だった。

.梶井基次郎「檸檬」 Facebook佐々木信雄さん曰く

2021-05-05
早稲田にも、こんな名前の茶店がありました。


京都・文学散策【01.梶井基次郎「檸檬」】
・・・。どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。
 私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。
 私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
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 丸善書店はもともと舶来品の輸入商社だった。バーバリのコートから、オーダーメイドの英国製スーツ生地、ドイツ製のローデンストック眼鏡にモンブラン万年筆、もっぱら学者先生たちのご愛用であって、我ら学生分際に手の届くものではない。梶井同様に、ひたすら雰囲気を味わいに店内に入るだけで、安い丸善特製原稿用紙などを購入して末席に連なる気分にひたるのみ。
 丸善の原稿用紙は著名文士たちも愛用しており、少し薄めの紙で升目は横広、これに太めの万年筆で書くと、いかにも作家になったような気分だった。そんな趣味人的なことではまともなものは書けないぞ、とか仲間と論争になったりした。それなら折り込み広告チラシの裏で名作を書いてやる、などと啖呵を切ったものの、紙に関係なく、ついに名作を書くことはなかった(笑)
*梶井基次郎『檸檬』 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170212
*『檸檬』(青空文庫)で読む 
オーナーは、あの高木ブーさんでした。
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