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金閣炎上 Facebook 佐々木信雄さんより

2020-05-03
水上勉と三島由紀夫のアプローチ
1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。
佐々木 信雄                                       2017年5月3日

【金閣炎上 水上勉と三島由紀夫】
 

*1950.7.2 [京都] 金閣寺が放火で全焼する。

 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。

 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。

 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。
 

 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の唯一の安逸の場をもうけている。

 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。
 

 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。

 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは福井の同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。
 

 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。
 

*水上勉 ノンフィクション『金閣炎上』関係のブログ。
http://naoko-mt.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html
 
*三島由紀夫「金閣寺」は、市川崑監督『炎上』(1958)で映画化された。
https://ja.wikipedia.org/…/%E7%82%8E%E4%B8%8A_(%E6%98%A0%E7…
 
*水上勉『五番町夕霧楼』は、1963年東映版と1980年松竹版と二度映画化されている。

・1963東映版 佐久間良子主演
https://ja.wikipedia.org/…/%E4%BA%94%E7%95%AA%E7%94%BA%E5%A…

・1980松竹版 松坂慶子主演
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E9…/…/B005Z9NQTI
 
*水上勉については、別個にこちらでも書いた。
【水上勉と京都】http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20160605
 

*ブログで読む>http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20170503

京都・文学散策

2021-05-06
【06.「徒然草」仁和寺の法師/御室仁和寺】
Facebook佐々木 信雄さん曰く



 
これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座興に入る事限りなし。
 しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。
 とかくすれば、頸の廻り欠けて、血垂り、ただ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪え難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足なる角の上に帷子をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。
 医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。ものを言ふもくぐもり声に響きて聞えず。
------
 仁和寺の僧たちの話で、小僧が僧になる祝いの席で、酔っぱらった僧が、そばの足鼎(あしがなえ/三脚の付いた鉄の壷の置物)を被って余興に踊った。踊ってから、いざ抜こうとしたが、これが抜けなくなって大騒ぎ。最後には、耳や鼻が引きちぎれても命には代えられないと、無理やり引き抜いた。その僧はその後しばらく病に伏したという。
 御室仁和寺のオバカ坊主のドジ話というところだが、実は徒然草には他にも、仁和寺の法師の失敗談が出て来る。石清水(いわしみず)八幡宮に一度は参詣したいと思いつつ、ついつい歳を取ってしまったので、ある時、思い立って詣でることにした。ふもとの極楽寺・高良明神などを有難く拝んで満足して帰った。やっと念願がかなったと知人に語ったが、実は八幡宮の本殿は男山の山上にあり、それも知らずにうかつなことだ、このドジ坊主、みたいなことが書いてある。
 筆者の吉田兼好は、出家して兼好法師とも呼ばれるが、特に仁和寺で修業したという事実は確認できない。仁和寺の僧の悪口めいた話が続いて、特に仁和寺に恨みがあったわけでもなかろうが、仁和寺が身近な立場にあったのかとも思われる。
 仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院で、世界遺産にも登録されている。開基は宇多天皇で、出家後も僧坊を建て住まったため「御室御所」とも呼ばれる。
 京福電鉄北野線には「御室仁和寺駅」があり、また山門前を通る道路は「きぬかけの路」と呼ばれ、衣笠山の麓に沿って、北東方向にうねうねと伸びて金閣寺に至る。途中にも、龍安寺があり、妙心寺、等持院なども近辺に散在する。気候の良い時期、きぬかけの路をレンタル自転車で散策するのも好適だ。
 御室仁和寺の境内や裏山一帯は、「御室桜」と呼ばれる桜の名所でもある。御室桜には八重桜が多く、ソメイヨシノなどが散り去った後も、かなりの期間、遅咲きの桜として花見が楽しめる。
(追補1)
 「きぬかけの路」は、金閣寺から連なる「衣笠(きぬがさ)山」の麓に沿って走っているが、この山はかつて「衣掛(きぬかけ)山」とも呼ばれたことにちなむ。
 御室御所の宇多天皇が、夏の盛りに「雪のかかった衣笠山を見たい」とおおせられ、山の松の枝に綿衣を掛けて雪に見立てたという逸話から、「きぬかけ」ないし「きぬがさね」という呼び名がはじまったという。
 ちなみに京都には「衣笠丼」という独自の丼ものがある。京揚げに九条葱を載せ玉子で閉じたドンブリで、ネギが松の緑、アゲが幹の茶色、そして玉子のシロミが綿衣の雪、というわけだが、大阪人に言わせると「ただのケツネ丼」やないかと言うことになる。
(追補2)
 昔はカナに濁点が無かったので、金閣寺への道標には「きんかくし」と書いてある、という笑話がある。では銀閣寺も同じになるじゃないかというのは置いておいて、和式便器にある「きんかくし」についてのウンチクをひとつ。
 王朝時代の女房たちは、いわゆる「おまる」で用をたした。オマルは木枠の桶に、つい立て状の板などが付いている。で、現在とは逆で、このつい立に尻を向けてまたぐのだと言う。十二単など大層な着物の裾をこの板に掛けて、汚れないようにするもので「衣(きぬ)かけ」と呼んだ。
 それがなまって、やがて「キヌカケ→キンカケ→キンカクシ」と変わっていった。そしてその名につられて、男どもはキンカクシを前にしゃがむようになって、現在にいたる、というわけである。

ちょっと気になる一冊です。

2021-05-06
スーザン・バーレイ作の『わすれられない おくりもの』

Facebook釋 大曰く


【7日間ブックカバーチャレンジ 初日】
(第1冊目)
『わすれられないおくりもの』です。
九州大谷短期大学で行われた新入生向けのオリエンテーションで、宮城しずか先生が、ご紹介なさいました。
以来、私にとって、ちょっと気になる絵本です。

[略歴]1931年(昭和6年)、京都市生まれ。 大谷大学文学部卒業。 大谷専修学院講師、教学研究所所長を歴任。真宗大谷派本福寺前住職。 九州大谷短期大学名誉教授。
 2008年11月21日逝去。 
 法名 聞信院釋智雄
[著書] 
『地獄と極楽』『真の仏弟子』『真宗の本尊』、 『親鸞ー生涯とその教え』
『和讃に学ぶ-浄土和讃・高僧和讃・正像末和讃』(全3巻)
『生きる 今 人間として』『本願に生きる』
『人と生まれて』『生と死』〈以上、東本願寺〉
『死からの問いかけ』『親鸞思想の普遍性』 『正信念仏偈講義』(全5巻)、
『後生の一大事』〈以上、法蔵館〉
『仏弟子群像』『続・仏弟子群像』
               〈名古屋別院〉
『自分を愛するということ
『他人さえもいとおしく』〈九州大谷短期大学〉
『大無量寿経講義』〈大地の会〉
『今の世にあって真宗とは』
        〈さいたま親鸞講座〉等多数。


京都・文学散策

2021-05-06
【04.「今昔物語集」頼光の郎等共、紫野に物見たる語/紫野・賀茂の祭】

Facebook佐々木 信雄さん曰く



京都・文学散策
【04.「今昔物語集」頼光の郎等共、紫野に物見たる語/紫野・賀茂の祭】
 今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等にて有りける、平貞道・平季武・坂田公時と云ふ三人の兵有りけり。・・・
 然て、紫野樣に遣らせて行く程に、三人ながら、未だ車にも乘らざりける者共にて、物の蓋に物を入れて振らむ樣に、三人振り合はせられて、或いは立板に頭を打ち、或いは己れ等どち頬を打ち合はせて、仰樣に倒れ、樣にし轉びて行くに、惣て堪ふべきに非ず。
 此くの如くして行く程に、三人ながら酔ひぬれば、踏板に物突き散らして、烏帽子をも落してけり。
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 源頼光の四天王のひとり坂田公時(金太郎のモデルと言われる)ら、3人の豪の者が、御所の警護をさぼって加茂の祭り(葵祭り)を見物に行こうと、女官を装って女車に乗り込んで加茂川の河原方面に向かう。
 やっと紫野あたりまで来ると、日ごろ馬を乗りこなす強者も、ガタゴトと狭い牛車(ぎっしゃ)に揺られて、ひどい車酔いでひくっくり返って悶えているうちに、さっさと行列は通り過ぎてしまった、という笑話。
 「紫野」という土地に生まれ育ったので、彼らの辿った道筋など何となく分かり、この話が記憶にのこった。平安京の大内裏(今の京都御所よりは西にあった)を北側の裏口から出て、舟岡山周辺から今宮神社のある紫野を通り、そのまま北東の加茂川堤防に向かう予定だったと思われる。
 今宮神社東門前のあぶり餅屋は、創業1000年と400年の店が向かい合うが、さすがにこの時期にはまだ無かったようで、応仁の乱のあと、西陣という地名が成立したころからという。

京都・文学散策

2021-05-06
【05.芥川龍之介 「芋粥」粟田口】

Facebook佐々木 信雄さん曰く



京都・文学散策
【05.芥川龍之介 「芋粥」粟田口】
 それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口(あはたぐち)へ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。一人は濃い縹(はなだ)の狩衣に同じ色の袴をして、打出の太刀を佩いた「鬚黒く鬢(びん)ぐきよき」男である。
 もう一人は、みすぼらしい青にびの水干に、薄綿の衣を二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子と云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟にぬれてゐる様子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事おびただしい。
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 豊臣秀吉が、当時の京の街を「御土居」と呼ばれる土塁で囲った。平安京は、唐の都にならって造営されたが、西半分は「長安」、東半分は「洛陽」に擬したとされる。西ノ京の地域は早くから寂びれ、秀吉の時代には、東の洛陽部分が都市として栄えていた。そして御土居で囲われた都市部を「洛中」、その外側を「洛外」と呼ぶようになった。
 御土居には「京の七口」ないし「九口」と呼ばれる、洛外への出入り口が設けられ、そこから各地への街道がのびていた。「粟田口」はそれより以前から、東国に至る街道(のちの東海道)の出入り口として、最も重要な関の一つであったと考えられる。
 拠点は鴨川に架かる三条大橋(秀吉が本格的な橋を造ったとされる)で、橋を渡って東に向かい蹴上の峠に至る地域が「粟田口」と呼ばれた。三条の河原や粟田口などには刑場があり、都を出たばかりとはいえ、もの寂しくおどろおどろしい道が延びるだけの荒地であったと想像される。
 「芋粥」は「鼻」とともに、芥川龍之介の初期の秀作であり、デビュー作の「羅生門」よりも優れている。これらは今昔物語などの中世の説話集などから題材を取り、芥川が独自の創作を加えたものである。とくに「芋粥」と「鼻」は、それぞれゴーゴリの「外套」「鼻」から主題を借用したと考えられる。
 「芋粥」の場合、主人公の五位が、長年の願望であった鍋一杯の芋粥を目の前にして、急に食欲がなくなるという、願望の達成と希望の喪失という不安定な人間心理を描いたとされる。「羅生門」や「鼻」でも同様に、簡単に移ろってゆく人間心理をテーマにしているが、これらは人間の深層意識に着目すれば、一貫した意識の働きに過ぎない。
 芋粥を腹いっぱい食べたいという五位の願望は、みすぼらしく惨めな自らの境遇から目をそらすために抱き続けてきた願望に過ぎず、それが叶えられてしまうと意味を持たなくなるもので、五位の食欲を失せさせるのも当然のことでしかない。同様に、「羅生門」の老婆を眼にして盗賊に豹変してしまう下人や、「鼻」で禅智内供の鼻が元に戻るのを心よしとしない周囲の「傍観者の利己主義」も、深層的エゴの一貫した働きに過ぎない。
 「芋粥」や「鼻」の真髄は、漱石が「鼻」で「自然其儘の可笑味」と表現したユーモアでありペーソスにあるのであって、若い芥川が勘違いしていた、移ろいやすいエゴの心理主義的分析などではなかったのである。
(追補)
 この洛外には刑場がいっぱいあった。粟田口だけでなく、「蹴上(けあげ)」から山科方面に上って行く先の「九条山」にもあり、嫌がる罪人を蹴り上げながら刑場に上って行ったので地名がケアゲとなったり、ひどいのは刑で斬り落とされた首を蹴り上げたのでケアゲだとか言われたという説がある。
 九条山の峠を越えて山科に入ったあたりの「日ノ岡」には「ホッパラ町」という土地があり、処刑された罪人の遺体を、そのあたりの野原に放りっぱなしにしたから「放り原」、つまりホッパラ町だとか、何ともひどい話だ。
 さらに一駅先に行くと天智天皇の陵があり、「御陵(みささき)」と呼ばれる。ここには「御陵血洗町」という地名があり、源義経が平家の兵の首を落して、刀の血を洗ったという逸話からだとされる。
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