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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

林竹二のことば 

2020-04-28
「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。」
大谷大学 きょうのことば - [2011年04月] 
「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。」
     林 竹二(『学ぶということ』国土社 95頁)


 この言葉を述べた林 竹二(はやし たけじ)(1906~1985)は、教育哲学者であり教育者であった人物です。彼は、教育の学問的な探求だけでなく、全国の小学校で対話型の授業を行ない、授業を通じて子どもたちの中で「何かが変わる」事実をもって、教育の意味を考え、追求し続けた人でした。

  この言葉の前後の、林の文章は次のようなものです。

 学ぶということは、覚えこむこととは全くちがうことだ。学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終ることのない過程に一歩ふみこむことである。一片の知識が学習の成果であるならば、それは何も学ばないでしまったことではないか。学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである
 また、次の文章は、林の授業を受けた小学生の一人が記したものです。
 答えて終って(左記強調部分について、原文の上部には傍点が付されています)しまうんでなく、考えれば考えるほど問題が深くなっていく。私は勉強していて、どこでおわるのか心配になってきたほどだ。私は一つのことを、もっと、もっととふかくなってゆく考えかたが、こんなにたのしいものかとびっくりした。
 
学校での学びにおいて、知識の獲得は重要な要素です。しかし、その知識は、私たち一人一人が、物事や自分自身について、より深く思索していくためのものでしょう。林は、そうした深い思索こそ、そして、その思索を通じて、自分自身の固い殻が破られ、それまでとは違う何かが自分の中に生まれたという実感こそ、「学ぶということ」の本質だと言っています。

 林はまた、学園紛争時に、自らも長く在籍した大学の学長として、最後まで学生と正面から向き合い、対話をし続けました。更に、彼の大きな業績の一つである『田中正造の生涯』は、明治~大正期に問題となった足尾銅山の鉱毒事件に対し、衆議院議員の職を辞して、人々とともにその解決に向け努力し続けた田中正造の生涯とその意義を追及した著述です。林の生涯の歩みは、「学ぶということ」=「何かが変わること」という自らの教育観・人間観を、身をもって実践し続けたものでした。

  大学での学問は、自分の中で「何かが変わること」を、最も大切な学びの契機と考えるものです。林は、他を本当の意味で尊敬・信頼し、自己を偽(いつわ)らず、驕(おご)らず卑下せず、自分自身を粘り強く見つめ続けた人でした。そこにおいて真の学問が成就したのです。このことを、新年度に当たって私たちは改めて心にきざみたいと思います。

創作ということ

2020-04-26
642
自分の造ったものが自分の中に入るのなら、
その創作品はまだ未完成だと。
自分の造ったものに

分が驚くと。
あぁ…、と作者自身が作者を忘れた。
造ったものによって
作者自身がびっくりすると。
こういうところに
創作というものがあるのです。


644
作るものは因であり、
その因によって作られた結果のほうは、
逆に因の意義をもってくると。
だから
親が子をつくれば親は因であるし
子は結果です。
しかし

子がなければ親ではない。
ただの男女です。
そうすれば
逆に親のほうは果になるわけです。
子どものほうが因になる。
因果が逆倒してくる。
この因果の逆倒ということが
非常に大事なことです。
知とか行ではまだ逆倒が無いけれども、
作るということになると
因果が逆倒してくる。

大林宜彦という生き方  

2020-04-26
何故、生命をかけても撮るのか?
青春が戦争の消耗品だなんて、
まっぴらだ!   
息子 大林宜彦
花筐/HANAGATAMIt』鵜飼のセリフより
 
自分の決めたことが自由にできる
それが、平和なんだ!  
父 大林義彦

https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/movies/1812501/

 

【脚注】
2017年12月公開の映画『花筐/HANAGATAMI』のクランクインを控えた)2016年8月に肺癌が判明、ステージ4まで進行しており医師より当初「余命6か月」、後に「余命3か月」の宣告を受ける。
同年8月から10月にかけて佐賀県唐津市で行われた撮影と続く編集作業に並行して抗がん剤治療を継続。

2017年4月のスタッフ向け試写会において病状を公表。
抗がん剤治療が奏効したことで病状が改善し、同年5月時点で「余命は未定」となったとしている。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/花筐/HANAGATAMI

1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作として多くの熱狂的な支持を集める。

解を学ぶということ

2020-04-19
知るということ

634
学というものは、
「解ゲ」に関する学と
「行ギョウ」に関する学と
二つ、善導は立てたわけです。
これはやはり
「知る」ということの学だけでは
学は尽くされないのです。
実行するという、
実践の学というところに
やはり人間の構造がある。
人間が人間になるために
学というものが出てくるのでしょう。
人間を完成するという意味が
学ということになるのでしょう。
それについて
いろいろ善導は
非常に大事なことを
言っているわけです。


635
解を学するという場合には、
一切を我々は学することが出来、
また学さなければならないと。
一切です。
どれをこれをではない。
一切を学するということが
要求されるし、また必要であると。
けれども
行の場合はそうはいかないと。
これは
有縁の法に藉(よ)れと。
縁のある法に藉れ
という具合に言うのです。
知るという場合は
自分に反対するものでも
知る必要があると。
自分に合うものではない。
自分に合わないものでも
知るためには必要であると。


636
仏教を学ぶ場合に、
仏教に反対する思想もあるだろうと。
「知る」というならば
それも知
る必要があると。
こういうようにやっていくのが
解学というものでしょう。
けれども
行の場合はそうではない。
「知ったこと」と「知った自分」とが
どうなるかと。
その知ったことで
自分は救われるのか、
救われないのかと。


637
解学のほうは
救われようが救われまいが
関係なしに
知っていかなければならない。
行の学は、
知るということは
私にとって、
自己にとって、
どういう問題かと。
知るのは自己を超えるのです。
けれども
自己ということが
問題になってくるというと、
きみのやった学問は
きみ自身にとっては
どういう意味をもつかと。
そういうような具合になってくる。

638
知られたものによって、
知るもの自身が解決されていく。

もっと広い言葉でいえば、
救われていくと。
「救い」というのは自己に関係する。
「知る」のは救いとは関係ない。
けれども、
自己の存在がそれによって解決されていく、
救われていくというようなことになると、
やはり
そこに「行」という字が出てくるのでしょう。
行学と。

639
行の学、
それは一切ではないのです。
縁の有る法に藉(よ)れ
と言ってあります。
非常に大事な言葉です。
有縁という言葉が出てきます。
人間の構造が
知と行の二つで完成する。
人間の構造に基づいて
人間を完成していくということが、
解・行、
この二つで表わされるのです。

今月のことば

2020-04-10
光華女子大学
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「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」 『仏説観無量寿経』

標記の言葉は、宗祖親鸞聖人が真実の経典として最も大切にされた浄土三部経のひとつであります『仏説観無量寿経』のなかにある言葉です。「阿弥陀仏の光明が十方世界を照らして、念仏するものを摂め取って決して見捨てない」と説かれています。

宗祖親鸞聖人においては、どのようなものも決して見捨てることのないこの阿弥陀仏の本願念仏の真実の教えを絶え間なく聞思し、進むべき道を正しく照らす生涯の生きる確かな拠りどころとされて人生を生き抜かれました。

経典では、阿弥陀仏を光で表されています。その光を「摂取不捨」というはたらきとして示されています。暗闇を照らす光明は、闇を除き一面を明るくし、安心感を与えてくれます。また、進むべき道、方向をはっきりと示してくれます。そして、最も大切なことは、すべてを同時に誰一人として取り残さずに生きとし生けるものすべてを絶対平等に照らすということです。

それでは、私たちはこの「摂取不捨」というはたらき(光)を具体的に容易に実感できるのでしょうか。源信僧都は『往生要集』のなかで「大悲倦きことなくして常に我が身を照らしたまう」即ち、阿弥陀仏のはたらき(慈悲の光)の中に包まれて生かされているけれども、煩悩の身であるためにそのはたらきをはっきりと見ることも気付くこともできない。そのような煩悩の深い我が身であるからこそ、阿弥陀仏の慈悲がどのようなときでも決して見捨てることなく常に照らし励まし続けてくださっていることがわかる、と記されています。そのように実感するためには自分自身を深く厳しく見つめて、真の自己とはどういう存在なのか、自分の本当の相(すがた)は如何なるものなのかを顕かにすることが最も必要なことです。真の自己がわかれば自ずから私をあらしめてくれている大きな願いがあることに気付き、生かされている自分であることが本当に分かれば、「摂取不捨」ということが我が身にはたらいていることに気付くことができるのではないでしょうか。

仏教における「真実の教え」は、何ものにも妨げられることのない光としてあらゆる方向に平等にはたらき、いつでもどこでも私たちに届けられています。その光は、私たちの無明を照らし出し、本当の相を顕かにすることとともに、生きることにとまどい、つまずき、傷つき、不安の多い人生の中において、その人生を生き抜く力と勇気、そして励ましと安らぎを与える大きなはたらきになります。

この現代社会を生き抜かなければならない私たちは、時として生きることの厳しさに孤独を強く実感することがあるでしょう。その時は、決して孤独ではなく、他者とのつながりの中に自己を見出し、「どこまでも必ず摂め取って見捨てない」というはたらきに生かされて生きていることに気付かされて、共に乗り越えて行けるのではないでしょうか。(宗教部)

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