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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

聞のほかには、何もないのです。

2020-06-04
「聞即信」ということ
 

677
「聞即信」ということを言います。
聴聞ということをいって
聴は耳で聞くかもしれないけれども、
聞は信心でしょう。
「如是我聞」というように
これは非常に大事なことです。
迷っている人間が覚るようになるには
聞の一字しかないのです。
聞のほかには、何もないのです。

聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。

2020-06-01

676
信を獲(え)るまでは耳に良い加減に聞いていたけれども、
信を獲(え)た時にはわが身に聞いたのです。
わが身にひきかけて聞いたのだから、
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
聞ということがそういうように転じてくるでしょう。

信心というものは

2020-05-30

675
信心というものは、

名号にたまわった自覚です。
名号を聞いて自覚の眼がひらけた。
実はその開かれた自覚が聞くのです。
そのように逆を言わないとね。
分からないから聞くというけれども、
それなら分かったら聞かないようになってしまう。
そうではないでしょう。
信を得るために聞くというのなら、
得てしまったらもう聞かなくてもいいということになる。
けれどもそうではないのです。
信を得て初めて、無限に聞きたいと。

時機相応

2020-05-30

674
無量寿経に聞くというようなことを言えば、
「に」まで聞いたら「を」まで注意をしなければならない。
そうすればはっきりしてくるでしょう。
つまり聞くのは偶然に聞いたのだが、
聞こうと計画して聞いたのではない。
いろいろな縁に触れて聞いたのだが、
聞いてみたら、
まさしく聞くべき時に聞いたのです。
それが時機到来です。
つまり偶然ではなく必然だったのです。
聞くまでは偶然だけれども、
しかもそこに見出された意味からみると
聞くべき時に聞いたのです。
時が熟したのです。
頭が良かったから聞いたわけではないのです。
頭が良かろうが悪かろうが
善人であろうと悪人であろうと、
そういうことと無関係です。

自己ということ

2020-05-27


673
法によって初めて知られた自己というのは、
いつか地獄に堕ちはしないかというような自己ではない。
すでにして堕ちている自己です。
これを知ったのです。
もうこれは堕ちようがない。
一番底に着いたのです。
そういう自身だけがついに本願に乗托することができるのです。
この、機の深信が無ければ法に乗ることができないのです。
そうでしょう。
機の深信が大事なわけです。
法の深信は無限に展開しても、
その法の深信を信ずる自己は機の深信でしょう。
機の深信というものが大事です。

 


672
親鸞は「自身を深信す」というのですが、
このまとめ方が面白いわね。
善導は「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫云々」と、
自身が主語です。
それを目的語にしてしまうのです。
「自身を深信す」と。
自身は何々であるという、
そういう自身を信ずる。
自己を信ずると。
つまり自己を初めて知ったという意味でしょう。

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