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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

「本当の生命(いのち)は形があっても形がないのである」  曽我量深 

2020-05-12
形のない本当の生命(いのち)が見えないから、私たちは亡くなった大切な人の行方をさがし続ける。
  • 「本当の生命(いのち)は形があっても形がないのである」  曽我量深 

例えば、冬になると木の葉が落ちるが、それは木が枯れたからではなく一時的に樹の生命が地に埋もれているので、春になればまた芽をふくのである。形のない生命が形をとっていく。象徴である。生命あるものは全く象徴である。生命は作られるのではなく、生まれてくるのである。

(中略) 

作るというのは無から有を作るのであり、生むというのは生まれるべきものがあって生まれてくるのである。生むのは自然法爾に生まれる。それが象徴の世界である。この象徴の世界は誠に広い世界である。この世界を一如平等の世界、理屈のない世界という。

曽我量深『真実の救済』(文明堂発行)

 

 


 

形のない本当の生命(いのち)が見えないから、私たちは亡くなった大切な人の行方をさがし続ける。亡くなった大切な人の本当の生命(いのち)は間違いなく今も生き生きと生きていていて下さるのに、形しか見えない私たちには本当のいのちが見えない。

その本当のいのちばかりの世界が「浄土」と呼ばれる一如平等の世界であって、亡くなった大切な人も、この私も、この浄土に生かされて生きている。

どこまでも理屈の欲しいわたしだが、浄土が見えないわたしの暗さこそがそのままわたしを照らし出してくれている浄土の光を教え続けてくれる。

 


 

  

ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。 かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬ やうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

 弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。

つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

 正嘉二年十二月十四日

 愚禿親鸞八十六歳

学ぶということ

2020-05-21

634
学というものは、「解ゲ」に関する学と「行ギョウ」に関する学と二つ、善導は立てたわけです。
これはやはり「知る」ということの学だけでは学は尽くされないのです。
実行するという、実践の学というところにやはり人間の構造がある。
人間が人間になるために学というものが出てくるのでしょう。
人間を完成するという意味が学ということになるのでしょう。
それについていろいろ善導は非常に大事なことを言っているわけです。

635
解を学するという場合には、一切を我々は学することが出来、また学さなければならないと。
一切です。
どれをこれをではない。
一切を学するということが要求されるし、また必要であると。
けれども行の場合はそうはいかないと。
これは有縁の法に藉(よ)れと。
縁のある法に藉れという具合に言うのです。
知るという場合は自分に反対するものでも知る必要があると。
自分に合うものではない。
自分に合わないものでも知るためには必要であると。

636
仏教を学ぶ場合に、仏教に反対する思想もあるだろうと。
「知る」というならばそれも知る必要があると。
こういうようにやっていくのが解学というものでしょう。
けれども行の場合はそうではない。
「知ったこと」と「知った自分」とがどうなるかと。
その知ったことで自分は救われるのか、救われないのかと。

637
解学のほうは救われようが救われまいが関係なしに知っていかなければならない。
行の学は、知るということは私にとって、自己にとって、どういう問題かと。
知るのは自己を超えるのです。
けれども自己ということが問題になってくるというと、きみのやった学問はきみ自身にとってはどういう意味をもつかと。
そういうような具合になってくる。

638
知られたものによって、知るもの自身が解決されていく。
もっと広い言葉でいえば、救われていくと。
「救い」というのは自己に関係する。
「知る」のは救いとは関係ない。
けれども、自己の存在がそれによって解決されていく、救われていくというようなことになると、やはりそこに「行」という字が出てくるのでしょう。
行学と。

639
行の学、それは一切ではないのです。
縁の有る法に藉(よ)れと言ってあります。
非常に大事な言葉です。
有縁という言葉が出てきます。
人間の構造が知と行の二つで完成する。
人間の構造に基づいて人間を完成していくということが、解・行、この二つで表わされるのです。

大乗、そして方便

2020-05-21

631
真実ばかりあるのは仏教では小乗仏教というのです。
大乗には方便がある。
方便回向ということがある。
大乗仏教の大という字は方便から出てくるのです。
大乗教学というのは方便教学です。
それが非常に大きな特色ではないかね。
小乗は方便がないのです。
小乗は真実しかないから小乗なのです。

632
方便か無いというと真理が痩せ細ってしまうのです。
真実から方便を生み出して、その方便によって真実を成就すると。
そういうときに真実が広がってくるのです。
方便という思想が大乗仏教だと思うのです。
巧方便回向と。
その方便というものを最も純粋な形で示したのが回向です。
巧方便というのは善巧方便回向です。
善巧方便の働きが回向です。

 

 

 

 


633
『願生偈』のうしろのほうに五念門というものが述べてあるのです。
智慧、慈悲、方便というようなことがあるのです。
智慧と慈悲と方便です。
普通は智慧と慈悲で終わってしまうのでしょう。
あらゆる教学は智慧と慈悲です。
その智慧と慈悲とにもう一つ、方便というものを加えて、智慧、慈悲、方便と。
これが『浄土論』というものの非常に大事な点ではないかと思います。
普通は慈悲と方便とは一つにして智慧と慈悲で二つだと。
こういうのが普通の考え方です。
そうではないのです。
三門に分けてくるのです。

不安ということ

2020-05-20

665
人間というものは
地獄に堕ちていないから不安になるのです。
堕ちている人間に不安はありはしない。
そうではないかね。
堕ちた人間、
堕ちきった人間にあと残っているのは
立ち上がることだけが残っているのです。
そうではないかね。
堕ちていない人間が堕ちはしないかと。
それはどうしてそうなるかというと、
人間というものは
自分の分別に生きているからです。


666
分別を固執して、
分別の中に生きているのだけれども、
そこにやはり何か、
現実に触れて生きていない、
何か分別の中に浮かんで生きている、と。
こういう自覚症状があるのです。
嘘をついて、
自分自身を騙している人間、
人も騙しているけれども
自分で自分も、
自分の分別で騙している。
それでもやはり
自覚症状はあるのです。
それが不安というものです。

667
不安。
なんとも言えないこの、
気持ちの悪い気分です。
それが
自分の分別に立っている人間の自覚症状です。偽れないのです。
非常に大事な手がかりになるのではないかね。また
これは、或る人間には有り、
或る人間には無いというものではない。
人間に普遍的な感情です。
そういう
不安というものが無いというのは、
ただガサツなだけです。

念仏、そして菩薩とは

2020-05-16

662
念仏というのは、あらゆる人を菩薩的人間たらしめる法である。
如何に罪悪深重といっても、
その罪悪深重に如来を背負って立つ確信を与える法である。
罪悪深重は
いたずらに人間を小さくすることではない。
自己を自己以上にしたり、
自己以下にしたりする妄想が破られる。
自己以上でもなく以下でもない。
それは宿業を背負った衆生である。

 

 

663
「思うことはなんでもやれる」というのは自我から考えた自由。
妄想である。
無責任に、ただ気炎を吐くとか、
理想を語るのではない。
人間は一点一画も崩されぬ限定の中にある。
無限の限定をはらんでいる。
だから、
思うことはなんでもやれるというのは、
自己を抽象化する限りは言える。
宿業は人間が具体的である限定を表わす。
どこまでも限定された人間において、
絶対自由の表現を、になっていく。
ここに菩薩があり、
人間が菩薩として成り立っていくのである。

 

 

 



664

現代に生きている我々として、
共通の問題がある。
迷うのは当たり前のことである。
この時代に生まれていると、
迷わざるを得ぬ。
しかし、
迷いかたが不真面目でなく、
真剣に迷う。
その場所として相応学舎がある。
迷いを逃避せずに、
予定したものから逃げて傍観することなく、まじめに迷う。
個人個人が現代を表現している。
見えるものは顔しか見えないが、
見えないものが
そこに表現されてある。
おおげさな実践を持ち出すまでもなく、一杯の水を飲むということの中にもそれが表現されている。
つまり、
真に現代人になること、
これが菩薩である。

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