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「ワレニ追イツク敵機ナシ」:彩雲艦上偵察機

2022-05-01
艦上偵察機「彩雲」。乗員は3名で、極限まで空気抵抗を低減した機体であることがわかる。武装はコックピット後端に旋回機銃1丁を備えた。
日本海軍機の最高速となる時速約640キロを記録

第2次大戦中、「浮かぶ航空基地」こと空母を実戦で使用したのは、アメリカ、イギリス、日本の3カ国のみであった。この空母には、搭載できる艦上機の数に限りがある。そのため、1機種がいくつもの任務をこなせれば、搭載する機種が減らせるうえ、必要に応じて、それぞれの任務に従事する機数を容易に増減できる。

 このような発想から、各国とも艦上機は、水平爆撃機兼雷撃機、戦闘機兼急降下爆撃機といった兼用できる機種の開発に余念がなく、ましてや偵察機ともなれば、それはどれかの機種の副次的な任務にしてしまえばよい、ぐらいに考えられていた。

 例えばアメリカ海軍では、ダグラスSBDドーントレスやカーチスSB2Cヘルダイヴァーといった艦上急降下爆撃機が、また、イギリス海軍ではフェアリー・ソードフィッシュ艦上攻撃機が、それぞれ偵察任務に従事するケースが多かった。また、大戦中期以降になって機載レーダーやカメラ、長距離通信機の性能が向上すると、1人乗りの艦上戦闘機であるヴォートF4UコルセアやグラマンF6Fヘルキャットなども、容易に偵察任務に携われるようになった。

 だが日本海軍は偵察にことさら力を入れており、中島飛行機に対して、高速の艦上偵察専用機を開発するよう要請した。十七試艦上偵察機と呼ばれたこの機体は、太平洋戦争初期の1942年6月に試作が始まり、1944年中頃に艦上偵察機「彩雲(さいうん)」として制式化された。

 2000馬力級の誉二一型空冷エンジンを搭載し、究極まで空気抵抗を削減した「彩雲」は、試験飛行時に時速約640キロという当時の日本海軍機の最高速を記録。量産機になってからやや性能が低下したが、それでも高速機であることに間違いなかった。

「ワレニ追イツク敵機ナシ」。これは、偵察に出撃した「彩雲」が敵戦闘機に追撃されたものの、見事に振り切って虎口を脱した際に発した報告電文と伝えられる。

 だが「彩雲」が部隊配備された時期は、すでに日本空母で実戦に参加可能な艦が払底した状態だった。そのため本機は、ほとんど空母運用には供されず、陸上基地から発進して偵察飛行を実施した。特に日本周辺の洋上偵察、沖縄方面への特攻機の誘導やその戦果確認などに活躍。斜め銃を搭載した対B-29用の夜間戦闘型も開発されたが、これは実戦には間に合わなかった。

 戦後、アメリカは鹵獲(ろかく)した日本機をテスト飛行に供したが、同国製の高品質の燃料とエンジンオイルを使用した「彩雲」は、最大速度時速約694キロという高性能ぶりを発揮。アメリカ側技術者を驚かせたという。

数々の伝説を生んだ傑作戦闘機:零式艦上戦闘機 21 型・32型

96式艦上戦闘機という傑作機を手に入れた日本海軍は、同機に続く世界をリードする性能の艦上戦闘機の開発を求めた。これが12試艦上戦闘機で、1937年に三菱航空機と中島飛行機に試作の要請が出された。

 

 だが、96式艦戦よりもいっそう厳しくなった海軍側の要求に、中島は途中で辞退。三菱でも、96式艦戦をものにした堀越二郎らですら、前作よりさらにハードルが高くなった要求性能に頭を抱えることなった。

 

 こうして、再度堀越が主務者となって設計が始まった。海軍の要求は、軽快な運動性と優れた速度性能、長い航続距離、重武装を望むもので、この全てを満たす要求に対して、堀越が何かを犠牲にしなければならないことを示すと、防御能力がそれにあてられた。つまり防弾関連の重量を削減することで、それ以外の要求を実現するという方法が選ばれたのだ。

 

 さらに零戦の重量削減策として有名なのが、フレームに多数の孔(あな)を開けるという工程上の手間をかけて、強度を損なうことなく材料の中抜きを行い、その分の重量を浮かせたという逸話だろう。

 

 また、20mmという当時としては大口径で威力のある機関銃を搭載したが、同じく搭載していた7.7mm機関銃と弾道特性が異なるため、この両方の機関銃を巧みに使うにはパイロットの腕が大きくものを言った。

 

 かくして193941日に試作1号機が初飛行を行い、19407月に零式艦上戦闘機11型が制式採用された。そして同年中に中国での戦闘に出撃し、その驚異的な性能を発揮して中国空軍機を片端から撃墜。このとき、現場部隊から防弾についての要望の声も一部聞かれたが、勝ち戦だったため立ち消えになってしまった。

 

 太平洋戦争が始まると、零戦の主力は21型となっていた。同時代のアメリカのカーチスP-40トマホークやグラマンF4Fワイルドキャット、イギリスのホーカー・ハリケーンやスーパーマリン・スピットファイアなどは、熟練パイロットが操る零戦の巧みな空戦術によってバタバタと撃墜された。それまで、航空技術の後進国と思われていた日本の戦闘機に太刀打ちできないアメリカやイギリスのパイロットのみならず航空機メーカーも、「ゼロファイターの脅威」の前に、対抗策を講じるべく急遽研究を進めることになった。

 

 戦前から零戦で訓練を重ね、中国で実戦を経験してきた日本のパイロットの技量はそれこそ神業にも例えられるほどで、連合軍パイロットにとって零戦は恐怖の的であった。

 

 しかしもちろん、連合軍側も強敵である零戦の研究を怠っていたわけではない。不時着した機体などを徹底的に調査して弱点を調べ上げ、それを味方のパイロットたちに周知させたのである。また、零戦よりも大馬力のエンジンを積んだグラマンF6FヘルキャットやロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルトやスピットファイアの出力向上型の登場で、大戦中期になると零戦の優位もかなり揺らぐようになっていた。

 

 このような流れの中で、速度の向上と生産の容易化を図るため主翼端を角型にした零戦32型の生産が開始されたが、前線部隊ではこの改修は嫌われ、結局、主翼端は後の型で元の丸型に戻された。

 

 零戦の圧倒的な優位が揺らぎ始めたのは、ベテランパイロットの不足が目立ち、連合軍戦闘機の性能向上や新型機が登場するようになった1943年頃からである。一方で零戦も、21型や32型から新しい型への移行が始まることになる。

零戦の前段階に誕生した「もうひとつの傑作機」:96式艦上戦闘機(A5M)

1930年代中頃、日本海軍は、まだ複葉の95式艦上戦闘機を運用していた。しかし1920年代末から1930年代のこの時期にかけて、航空技術は世界的に急速な進歩を遂げており、複葉機では近々に旧式化することが明白だった。

 

 そこで日本海軍は、近代的な次世代の戦闘機を求めて9試単座戦闘機を発注することにし、試作の要請が三菱航空機と中島飛行機に出された。試作機の完成は1935年で、審査の結果、三菱案が採用となった。

 

 こうして誕生した96式艦上戦闘機は、続いて零戦を手がけることになる堀越二郎の設計で、海軍の制式機としては初の全金属製低翼単葉機だった。

 

 また、96式陸上攻撃機と共に、日本機として初めて沈頭鋲(ちんとうびょう)を全体に使用した。小さな鋲の頭だが、数がまとまると大きな空気抵抗となる。だが、頭が飛び出していない鋲の使用で、この空気抵抗を解消でき、性能の向上につながった。加えて、日本製実用機種として初めてフラップを採用している。

 

 主脚については、開発時期的に引込脚も実用化されていたが、脚部構造の重量増加を避け、さらに最前線の未舗装滑走路でのラフな運用を考慮して、あえて固定脚とし、フェアリング(覆い)をかぶせて空気抵抗の削減を図った。

 

 96式艦戦は開放式コックピットを備えていたが、転覆時などにコックピットが潰されてパイロットが死傷する恐れがあった。そこで、着陸時にフラップを作動させると、連動式のセーフティー・バーがコックピットの後方からせり上がるという工夫が施された。機体の転覆時はこのバーが先に接地して、コックピットが潰れるのを防ぐ仕掛けである。

 

 1937822日、日中戦争が勃発したため作戦行動中の空母加賀に96式艦戦が送り込まれた。そして94日に中国軍のカーチス・ホークを3機落とし、本機による初撃墜を記録した。さらに同年129日には、日本航空史に残る「片翼の帰還」が、樫村寛一(かしむらかんいち)三空曹の96式艦戦によってはたされ、本機の優秀さを広くアピールすることとなった。樫村機は空戦中に中国空軍のカーチス・ホークⅢと空中衝突してしまい、左の主翼の外側を大きく失ったものの、巧みな操縦によって帰還に成功したのである。

 

 その後、零戦が艦上戦闘機として制式化されても、同機の不足を補うために一部の空母での運用が続けられたが、1942年頃には全機引き揚げられて訓練など二線の任務に就いた。96式艦戦は、出現した時代において世界最優秀の戦闘機と言っても過言ではない名機であった。

 

 なお、連合軍は本機をMitsubishiの“Claude”というコードネームで呼んでいた

水上戦闘機から発達した零戦をしのぐ傑作戦闘機:紫電改

先に本連載で紹介した2式水上戦闘機は、実は、とある別の水上戦闘機の開発が遅延したことによる、リリーフ的立場の機体であった。その本来の水上戦闘機とは、川西航空機が開発した強風(きょうふう)である。

 

 大出力エンジンが必要だったため、雷電と同じ火星エンジンを搭載し、自動空戦フラップという空戦時のフラップ調整を自動で行う機構が組み込まれた、きわめて意欲的な設計の機体であった。しかし2式水上戦闘機がすでに実戦配備されて相応の成果をあげており、戦局は水上戦闘機を必要としない状況になりつつあったため、わずか97機の生産に留まった。

 

 そこで川西は194112月末、強風を、引込脚を備える局地戦闘機に改修する計画を海軍に提出した。当時、海軍は新型機雷電の不具合の調整と、零戦の後継機問題で悩んでいたため、既存の機種からの改修で実用化が可能と思われたこの計画を承認した。しかし当時の川西は、飛行艇や水上機のメーカーとしての評価こそ高かったが、陸上機に関しては経験がやや浅く、海軍内部の技術者の中から計画を懸念する声も聞かれた。このような状況を受けて、改めて審査の席が設けられ、その結果として計画にゴー・サインが出されている。

 

 当初の予定では、できるだけ速く実用化するため強風の設計を極力流用することになっていた。しかしエンジンを火星からより高出力の誉(ほまれ)に換装したことなどにより、各部に設計変更が必要となり、外観こそ似ているものの別の機体といえるほど手が加えられた。ただし水上機の強風譲りの中翼は変わらず、そのため主脚が長くなっている。

 

 こうして完成した機体は、紫電11型とされ、紫電(しでん)と略して呼ばれた。

 

 だが紫電は、自動空戦フラップや引込脚の不調、そして何よりも、プルフィーングが足りない誉の不具合に悩まされ、実戦部隊で高い評価を得ることができなかった。このことについて、当の川西も満足していなかった。というのも、紫電には素質として良い点もあったからだ。

 

 そこで、水上機だった強風に由来する中翼配置を零戦のような低翼配置に改め、直径の大きな誉に合わせて胴体のデザインや各翼の位置を修正。自動空戦フラップの信頼性も向上し、さらに、逼迫する戦況に対応すべく生産性向上と原材料節約の観点から、紫電よりも部品数を減した紫電21型が開発された。そしてこの機体は、紫電改(しでんかい)と呼ばれることになった。

 

 紫電改はきわめて優れた戦闘機で、パイロットの腕さえともなえば、零戦や雷電では荷が重かったグラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、ノースアメリカンP-51マスタングといった強力なアメリカ製戦闘機と互角に戦うことができた。特に、紫電改を優先的に配備された第343海軍航空隊は、本土防衛に参加して大活躍をはたしている。

 

 かくして紫電改は、戦争末期の日本本土防空戦の勇戦をもって、海軍航空隊の戦いに最後の煌(きらめ)きを添えたのである。

 

 なお、連合軍は本機を“George”のコードネームで呼んだ。

川西 E15K 紫雲一一型 (昭和16年 - 昭和20年)

2021-10-07
Facebook 「絆の会」さん曰く
--- 川西 E15K 紫雲一一型 (昭和16年 - 昭和20年) --- 
- 全長 : 11.58 m
- 全高 : 4.95 m
- 全幅 : 14 m
- 空虚重量 : 3 165 kg
- 最大離陸重量 : 4 900 kg
- 最大速度 : 468 km/h 

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