真宗本廟の仏事
真宗本廟の仏事
2021年真宗本廟御正忌報恩講にあたって【宗務総長ご挨拶】
新型コロナウイルス感染症の収束が未だ見えず、予断を許さない状況が続く中、苦難の生活を送られている方々、そして深い悲しみの中におられるすべての方々に、あらためてお見舞い申し上げますとともに、人命と生活を守るために尽力くださっている皆さまに心より感謝いたします。
このような厳しい状況下でありますが、本年も「開山聖人御正忌として、毎年不闕に、かの知恩報徳の御仏事」(『御文』三帖十一通『真宗聖典』八一〇頁)である報恩講に会わせていただくこととなりました。
知恩報徳の御仏事である報恩講は、信心を獲る喜びと感謝、その恩に報いていく意味を、あらためて確かめさせていただく御仏事であります。
信心は、如来から賜ることであり、偏に聞法によると教えられています。では、信心を獲た者はどうなるのでしょうか。宗祖親鸞聖人は、著書『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』「行巻」「正信偈」において、「獲信見敬大慶喜(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)」(『真宗聖典』二〇五頁)と述べられ、「信巻」には、信心を獲た者の利益として「知恩報徳の益」(『真宗聖典』二四一頁)があると述べておられます。
私たちは、知恩報徳の身をいただいて生きることが願われています。知恩報徳の身をいただくということは、聞法し、念仏申す中で私にまで紡がれてきた念仏の法灯の歴史を相続していくことです。具体的には自信教人信の歩みということでもありましょう。
そのことを親鸞聖人は、和讃において、
信心歓喜慶所聞
乃曁一念至心者
南無不可思議光仏
頭面に礼したてまつれ
(浄土和讃『真宗聖典』四八三頁)
と、信心を獲た者の喜びと礼拝のすがたを表され、続けて、
仏慧功徳をほめしめて
十方の有縁にきかしめん
信心すでにえんひとは
つねに仏恩報ずべし
(浄土和讃『真宗聖典』四八三頁)
と、信心を獲た者の報恩の生活を詠っておられます。
今、私たちは、宗祖の毎年不闕の報恩講と、二〇二三年春に五十年に一度の御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要の御仏事をお迎えする機会をいただいております。
報恩講は、「感謝と誓いの仏事」であるのに対し、慶讃法要は法要の名称が指し示す通り、宗祖の御誕生と立教開宗を慶喜奉讃する仏事であると同時に、人間の願いの根本に帰る、つまり「出発点に立ち帰る仏事」であります。
宗祖は生涯をかけて、今を生きる「私」に人と生まれたことの意味を明らかにしてくださる、浄土真宗を開顕くださいました。その生涯自体が、至奥からの根源的な問い(出発点)に立ち、常に求道され、信心を獲た報恩として、念仏成仏の仏法を私にまで届けてくださったのであります。
私たちは、そのような親鸞聖人の御生涯によって、法蔵菩薩の因位の願心に遇い、私自身にあうことができます。
念仏の教えとの出遇いを慶喜奉讃するこころが、知恩報徳の歩みとなって、一人また一人と、人が育まれていくのです。その場に身を置き続けることが法に遇いえた者の使命であります。
慶讃法要まで、残すところ一年半となりました。慶讃テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」のもと、私たちに届けられている本願を聞信し、慶喜奉讃とともに知恩報徳の歩みを相共に進めて参りたいと念願するものであります。
報恩講の日程等はこちらをご覧ください。
荘厳光院殿現如上人御葬儀の野卓
大正12(1923)年2月22日執行
「百味の飲食」は、亀屋末富(現、京菓子司末富)と八百喜(廃業)が50台宛、調進しました。
杉盛の華束が巨大なことと、「百味の飲食」の配置が左右非対称であることが注目されます。
野卓が大きいためか、五具足の位置も中心よりで、「百味の飲食」に掛からないように置かれています
◆大正12年「為荘厳光院現如上人御葬儀記念写真帖」80枚
今は昔のお話ですが、北海道・奥羽・三条教区からの上山の方途・・・?
今、同じ運行はなかなか出来ないでしょう。「雷鳥」+「北越」+「いなほ」ですかね
青函連絡船に接続して「おおぞら」に接続。
いかにも鉄道の旅、っていう感じですね