田畑正久先生の話
お釈迦様の生涯と教え
(令和7年5月5日掲載予定)医療文化と仏教文化(307)
2025-10-19
大分合同新聞医療欄 「今を生きる」第481回
仏教の師に「病気で死に直面している人に、どういう言葉をかけたら良いか」と質問したことがあります。師は「(家族、医療者、同僚、仏に)お任せすること。そして、仏さんがいらっしゃるということをしっかりと伝えることが大切だ」と言われました。それには患者と仏教の対話ができる関係になっていることが前提です。では、仮に対話の縁が熟しているとして「仏さんがいらっしゃる」とはどういうことなのかを説明しましょう。
中国・唐の時代の高僧、善導大師の著作に「経は鏡なり」というのがあるように、仏の教え(経教)は鏡に例えられます。これは本当に澄みきったもので、人の相(すがた)を陰(かげ)日向(ひなた)なく照らし出します。「そんな鏡がどこにあるのか」と思うかもせれません。しかし、教えに触れることで、今まで見ることもなかった自分の相(すがた)が、隅から隅まで心の内面までも明らかに知らされ、そして、それを納得して受け止めることができる…。これこそが仏の存在の証拠なのです。
釈尊は二千数百年前の歴史上の人で、今はどこを探してもいません。そのため、私たちがいくら仏を信じようと思っても、そう簡単ではありません。会ったことも、話をしたこともないのですから当然です。しかし、悟りや目覚めの教えは今日まで伝えられ、相手に応じて説き(対機説法といって聞き手の状況に応じて説くこと)、目覚めさせる働きは色あせていません。
このように仏智(鏡)に照らされると、私たちの分別思考の狭さ、融通性のなさ、とらわれやすさ、根深い煩悩性に振り回されやすいなどを知らされることになります。同時に、多くの因や縁によって生かされている、支えられている、願われていることに気づかされます。そして、このご縁のある方々が自分にしてくれた苦労を知るとともに、忘恩の自分を知らされるのです。私の年齢になると、ご縁のあった師友もだんだんと少なくなってきます。もう恩返しができない、と懺悔せざるを得ないのです。
お坊さんは・・・。
2022-05-12
Facebook 田畑正久さん曰く
「医者は間違った薬を出したり、
間違った処置をしたら、人を殺してしまうことがある。
お坊さんは間違った説教をしたら、いのちを殺してしまう」
【住岡夜晃法語】
2022-07-03
Facebook 田畑正久さんの投稿
田畑正久先生のお話
2023-02-28
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第432回
(令和4年12月 5日掲載)医療文化と仏教文化(258)
第425回の「自分を空っぽにする」ということについて、小学4年と6年の孫から、「どういうこと?」と質問されました。
仏教には「人間は三回生まれる」という話があります。1回目は出生による誕生です。2回目が「自我意識」の誕生です。それまでは「私は」「私が」という「自我」はなく、純真で空っぽです、小ざかしさがないからかわいいのです。
自我意識は段階的に発達します。一才半ぐらいで自分というものを認識するようです。「〇〇ちゃん」と名前を呼ばれて「それって自分のこと?」と認識するようになります。それが「自我(意識)」の誕生です。そした、他人から見られた自分も意識するようになります。
3回目の誕生は、仏教的な誕生です。それまで自己中心的に外の事象を見て、好き嫌い、善悪、損得、勝ち負けで二元的(相対的)に見ていたのに、それが迷いを繰り返しているだけの空過流転の虚偽であったと目覚めるのです。
生命の起源をたどると、私たちは生命の歴史37億年の連鎖の最先端にいて、身体はこれまで食べたり飲んだり呼吸したもので作られ、人間関係や社会から学んだ知恵によって生活をしています。自分は宇宙全体と無限に関係して常に変化している無我・無常の存在であるという目覚め、仏の智慧の働く場である浄土に立っている自己を発見する誕生です。
そこでは「私は」という自我意識中心の偏見や思い込み、好き嫌い、損得、勝ち負け、善悪、苦楽の思考は影を潜め結果として自我が空っぽになります。私の存在の背後にあるもの、今まで私を支え、生かし、育て、教育して、見守り、導いて、経験させてくれた無数の因や縁に気づきます。そして現在の状況を謙虚に受けとめ、物事を総合的に考え、少しでも良かれと思う方向に行動するのです。思いや感情に執われ振り回されるのではなく、自分の思いや感情に少し距離を置いて柔軟心で見ることができる存在の誕生です。
仏の教えによって今日までの私になされた多くのご苦労を知る時、そのご恩に報いることを私の役割と自覚して、「これが私の果たすべき使命、いや、仏さんから頂いた仕事だ」と生き生きと取り組むのです。
