本文へ移動

田畑正久先生の話

お釈迦様の生涯と教え

田畑正久先生のことば

2022-07-29
「自分のことは自分が一番よく知っている」
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第421回
(令和4年 5月23日掲載)医療文化と仏教文化(247)
 よく耳にする言葉に「自分のことは自分が一番よく知っている」というのがあります。確かに、現在の心の在り様を実感しているのは自分だと思います。しかし、それは言葉や論理だけで自分の思いを自分流に理解しているだけなのです。
 庭で枯葉や焚き木を燃やすとき、よく燃えるように火箸でたき木をつかもうとすると、思ったより熱くて、後ずさりすることがあります。頭で考えていたのより、実際に身体で感じたものが本当の熱さです。それは見た目で考えた想定とは違っています。
 「自分のことは自分が一番よく知っている」というのは、自分に起きたことを理屈で受け止めても事実との間には差があることを知らない発言です。
 私たちの日常的な思考では仏教でいう「空(くう)」は理解できません。それで「空というものはどんなものか」という研究をしているうちに、「では、それを受け取める意識とはどんなものか」という考究から唯識(ゆいしき)という学問が始まったようです。無意識や深層心理について深く広く考えて、心の在り様を末那(まな)識、阿頼耶(あらや)識などと表現しました。
 末那識は人間に意識されない煩悩の領域を想定せずには心の動きが理解できないとされて命名されていったのです。私たちが眠って翌朝に目覚める時、眠る前と同じ意識で目覚め、その自我意識は毎日続いています。その継続する無意識の領域を阿頼耶識と命名したのです。これらの考察が、日本では弥生時代の紀元2世紀ごろのインドや中国でなされていたのは驚きです。
 仏教の深層心理の思索では、人間の「自分のことは自分が一番よく知っている」という思い込みは自分を表面的に、局所的にしか把握していないと見破るのです。
 釈尊の教えの真髄は虚妄(実のない偽り)分別からの脱却です。理性的な科学思考を間違いと言っているのではなく、煩悩を秘めた人間の思考では真実を知るには限界があるので、分際を自覚しながら謙虚に人生の課題を考えようというのです。私たちの思考では人生の全体が見えてないので生死の迷いを繰り返している。その自覚がない傲慢さに気づいて、人生をあるがままに自然に受け止め、生きる姿勢を正していくことを勧めているのです。

捨身飼虎という話がある。

2022-02-04

Facebook 田畑 正久さん曰く


捨身飼虎という話がある。これは金光明経という経典に出ている。虎が飢え死にしそうになっていた。そこへ三人の王子が通りかかった。一番上の王子が言った。あの人食虎が死にそうだ。よかった、これで人が助かるだろう、と。二番目の王子が言った。あれは殺したがいい。三番目の王子が言った。私は助けたい、と。二人の兄がとめるのも開かず自分の身を横たえて食べさせようとする。けれども食う力もない。そこで頸動脈を切ってその血を飲ませたところが、虎が起き上がってその王子を忽ちかみ殺してしまった。その子虎達も元気になり山奥へ帰って行った。そういう物語がある。
    この話を聞くとみな三人の王子を考える。兄貴が言うのがよかったのではないか、いや次の兄のがよかったかも知れない。一番下の弟のはどうも解せないというようなことになる。この話は三人の王子が我々の行動の模範を示しているものとする。その限りこのお経はわからないと思う。この話の根本は我々が虎であるということである。これが一番大事なところではないか。我々はもう命も絶え絶えになって食べる元気もなく、沢山の問題を抱えて死にそうになっている。それが助けられた。助けられて自分を助けた人を食い殺す。感謝の心もなく、相手をしゃぶれるだけしゃぶって逃げていく。このような存在が私自身である。自分が何であるかを考えなければ仏法にならない。そのことはよく知っておかねばならない。
細川巌 述 「歎異抄講読」(後序について)昭和61年p32 (日野市教育を考える会発行)

「捨身飼虎(しゃしんしこ)」という話

2022-07-14
田畑正久先生の話
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第420回
(令和4年5月2日掲載)医療文化と仏教文化(246)
    『金光明経』という経典に、「捨身飼虎(しゃしんしこ)」という話があります。
     虎の親子が飢え死にしそうになっているところに、三人の王子が通り掛かります。一番上の王子が言います。「あの人食虎が死にそうだ。よかった、これで人が助かるだろう」。二番目の王子は「あれは殺した方がいい」と言いました。三番目の王子は「助けたい」と言って、二人の兄がとめるのも聞かず自分の身を横たえて食べさせようとします。しかし、虎には食べる力もありません。そこで頸動脈を切ってその血を飲ませたところが、虎が起き上がってその王子をたちまちかみ殺してしまいました。そして、子虎たちも元気になり山奥へ帰って行ったーというものです。
     この話を聞いて、私たちは三人の王子のことを考えます。長兄が正しかったのではないか。いや次兄の言う通りかも知れない。弟の言動は、どうしても理解できないなどと考えます。この三人の王子の思いや言動を、われわれの行動模範として考えるかもしれません。しかし、それでは経典の教は受け取れないと思います。
     仏教の師は、「この話のポイントはわれわれが虎であるということで、これが一番大事なところではないか」と言われました。
    「われわれは命も絶え絶えになって食べる元気もなく、多くの問題を抱えて死にそうになっている。それが三番目の王子に助けられた。助けられたのに自分を助けた人を食い殺す。感謝の心もなく、相手をしゃぶれるだけしゃぶって逃げていく。このような存在が私自身である。自分が何であるかをよく考えなければ仏法になりません。そのことをよく知っておかねばならない」と聞かされました。
     この法話を記録したものを久しぶりに読みましたが、記憶力の悪さでしょうか、人間の分別思考の習性か、三人の王子がわれわれの行動模範を示しているように読んでいました。「三番目の王子のような菩薩的精神の捨身は私には到底できない」と思いつつ読みを進めていたら、師の「死にかけた虎が私の相です」の指摘にあらためてビックリしました。仏はそんな私の姿を暴き出し、説き示されているのかと慄然としました。私は幸いにも戦争の極限状態を経験しなかった世代ですが、縁次第、時代状況によってはどんな行動をするか分からない身の危うさを思うのです。

釈 尊 の 誕 生 日 、花 祭 り を お 祝 い 致 し ま す

2022-04-03

Facebook 田畑 正久さん曰く


釈 尊 の 誕 生 日 、花 祭 り を お 祝 い 致 し ま す
    新型コロナウイルスのパンデミックはまさに想定外の事でしたが、またロシアのウクライナ侵略は、人間という存在の縁次第では如何なる振る舞いをするという煩悩性をまざまざと知らされました。人が地獄を出現させる、その愚かさを見抜かれての大悲でありでした。
     仏教に衆生世間という言葉があります。生まれてから今日までに出会った人や命ある存在によって私の精神活動は在るということで、決して当たり前、当然ではないということです。
     人生の最終章を迎え、師の教言「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずるということは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」に照らされる歩みをしたいと思っています。
     身体的には、新たなほころびの症状に気づきながら、その現実は私に何を知らせようとしているかを考えるご縁にしております。
    「歎異抄に聞く会」(毎月第3月曜日)、延塚先生の「教行信証に学ぶ会」(隔月)の継続に努め。さらに仏の心に深く触れ思索する歩みを続けます。縁熟せば皆さま是非ご参加下さい、お待ちしています。
     大分合同新聞隔週掲載の「今を生きる」の記事は継続させていただき、日々の社会や病院での出来事に触れながら文章を書かせていただき思索の励みになっています。
     この一年は、国、大分県、宇佐中津のコロナ患者数を見ながら、まさにコロナ、コロナであっという間に過ぎました。
    夫婦で同じ職場の生活が19年目を迎えています。「余力を残して世間ごとは止めた」つもりでしたが……勤務を少し短縮しながら、与えられ、期待された役割をもう少し果たして行きたいと思っています。合掌, 南無阿弥陀仏 
仏暦2566年(2022年)4月 8日 田畑正久 
勤務先、宇佐市中原347 佐藤第二病院  電話;0978-32-2100





「経は鏡なり」(お経は鏡のようなもの)

2021-10-13
Facebook 田畑正久さん曰く
 仏教の智慧には転悪成善(悪を転じて善と成す)という働きがあります。智慧は全ての事象の中に無限の意味を見いだすのです。
 私の仏教の師は科学者でもありました。河川の水質調査に関する環境問題の研究に足跡を残されています。師の講義の中で、パルププラントは多くの産業廃棄物が出るという問題に触れたことがあります。パルプから有用な化学物質を抽出した後、恐ろしいほどの量の不要な廃棄物が出るというのです。多くの人が時間をかけて廃棄物の処理について研究したのですが、なかなか良い方法を見つけられなかったようです。
 そんな中で、ある人が思いがけない提案をしたそうです。それは廃棄物の中にミミズを大量に入れるということでした。ミミズを入れてみると廃棄物を食べて消化したのです。そしてその排泄物は有機肥料になったというのです。
 仏教の師は、これを転悪成善の一例として講義の中で紹介されたのですが、仏の智慧というのは、分別で思考すると不都合なものを有益なものに転じる働きがあります。そのためには迷っている自我意識が仏智で翻されるということが求められます。そのために仏教の学びをするのです。
 私たちは、学びとは学校で勉強して知識を増やし生きるために役立てると思っています。仏教の智慧の学びは、それとは方向が違うのです。
 法話を聞いて知識として覚えることを私有化ということができます。私有化して「その教えを私は知っている」となると、自分の身を照らす働きが鈍(にぶ)るのです。「私は知っている」と誇るような傾向がでると、教えによって身が照らされて、照らし破られて「驚く」ということがすくない傾向になります。
 知識的に学ぶのではなく、「経は鏡なり」(お経は鏡のようなもの)というように自分の姿が照らし出される鏡として受け取ることが大切です。そのためには本を読むだけでなく人を通して聞くということが要るでしょう。禅宗の道元禅師が「仏道を習うとは自己を習うなり」と言われているように、教えによって、鏡を見るように自分の相(すがた)を表面的、深層的に知らされることが大切です。「自分のことは自分が一番よく知っている」と考えるのは傲慢(ごうまん)だと仏教は教えてくれます。
TOPへ戻る