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田畑正久先生の話

お釈迦様の生涯と教え

田畑正久先生のはなし

2022-08-14
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第422回
(令和4年 6月06日掲載)医療文化と仏教文化(248)
    肥満に悩む人がいるとします。体重の増加は、食べる量と消費カロリーに大きく関係します。力士やアメフトの選手たちは、ぶつかる力を強くするためにたくさん食べて体重を増やします。当然、体重は食べる量に比例して増加します。
    肥満を改善しようとすれば食べる量を減らすか、消費カロリーを増やすのが合理的な方法です。この道理に逆らうと改善の方向には進みません。
    お釈迦様の目覚めに「縁起の法」というのがあります。これは、大きな原因(因)があって、それが小さな原因(縁)と和合して働き(業)をすると結果(果)がもたらされる。そして、それが次に影響(報)して「因縁業果報」というように展開するという法則です。
    内臓の調子もよく、元々食べるのが好きだという因と、たまたまおいしそうなお菓子が食卓にあった(縁)のでついつい食べてしまって体重が増えた(果)。これは「縁起の法」に沿った自然な流れです。
    仏教では不自然なことを推し進めると、いつかは否応なしに自然に戻されると教えています。
     いろいろな事象を考えるとき、因や縁次第では何でも起こります。固定した「我」というものはなく、私の身体も代謝によって常に変化し続けています。心も状況次第で常に変化していて、それを「無常」と言います。喜怒哀楽も縁次第で目まぐるしく変化します。いくら怒りっぽい人でも、二日も三日も怒り続けるということはないと思います。
    世間の出来事でも、縁次第では何でも起こると教えています。私自身の人生でも「まさか」と思うことが実際に起きました。大学での学園紛争、米軍のベトナム撤退、地震、津波、火山噴火、ニューヨークの世界貿易センタービルの惨事、原発事故、新型コロナウイルスのパンデミック、ウクライナ危機など枚挙にいとまがありません。
    心の変化を表わす指標として国の統計をみると、その年に提出された婚姻届件数に対する離婚届件数は、最近の10年間は離婚率は約33%で推移しています。婚姻届けを出すときに離婚は考えなくても、私たちの心は常に変化するのです。
    仏教は人間の思いや感情の変化を見透かして、自分の思いに執われている私たちに「感情の奴隷になるな」と言います。そのために智慧の光に照らされて「自分の相(すがた)を知ること」の大切さを教えているのです。

田畑正久先生のことば

2022-07-29
「自分のことは自分が一番よく知っている」
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第421回
(令和4年 5月23日掲載)医療文化と仏教文化(247)
 よく耳にする言葉に「自分のことは自分が一番よく知っている」というのがあります。確かに、現在の心の在り様を実感しているのは自分だと思います。しかし、それは言葉や論理だけで自分の思いを自分流に理解しているだけなのです。
 庭で枯葉や焚き木を燃やすとき、よく燃えるように火箸でたき木をつかもうとすると、思ったより熱くて、後ずさりすることがあります。頭で考えていたのより、実際に身体で感じたものが本当の熱さです。それは見た目で考えた想定とは違っています。
 「自分のことは自分が一番よく知っている」というのは、自分に起きたことを理屈で受け止めても事実との間には差があることを知らない発言です。
 私たちの日常的な思考では仏教でいう「空(くう)」は理解できません。それで「空というものはどんなものか」という研究をしているうちに、「では、それを受け取める意識とはどんなものか」という考究から唯識(ゆいしき)という学問が始まったようです。無意識や深層心理について深く広く考えて、心の在り様を末那(まな)識、阿頼耶(あらや)識などと表現しました。
 末那識は人間に意識されない煩悩の領域を想定せずには心の動きが理解できないとされて命名されていったのです。私たちが眠って翌朝に目覚める時、眠る前と同じ意識で目覚め、その自我意識は毎日続いています。その継続する無意識の領域を阿頼耶識と命名したのです。これらの考察が、日本では弥生時代の紀元2世紀ごろのインドや中国でなされていたのは驚きです。
 仏教の深層心理の思索では、人間の「自分のことは自分が一番よく知っている」という思い込みは自分を表面的に、局所的にしか把握していないと見破るのです。
 釈尊の教えの真髄は虚妄(実のない偽り)分別からの脱却です。理性的な科学思考を間違いと言っているのではなく、煩悩を秘めた人間の思考では真実を知るには限界があるので、分際を自覚しながら謙虚に人生の課題を考えようというのです。私たちの思考では人生の全体が見えてないので生死の迷いを繰り返している。その自覚がない傲慢さに気づいて、人生をあるがままに自然に受け止め、生きる姿勢を正していくことを勧めているのです。

「捨身飼虎(しゃしんしこ)」という話

2022-07-14
田畑正久先生の話
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第420回
(令和4年5月2日掲載)医療文化と仏教文化(246)
    『金光明経』という経典に、「捨身飼虎(しゃしんしこ)」という話があります。
     虎の親子が飢え死にしそうになっているところに、三人の王子が通り掛かります。一番上の王子が言います。「あの人食虎が死にそうだ。よかった、これで人が助かるだろう」。二番目の王子は「あれは殺した方がいい」と言いました。三番目の王子は「助けたい」と言って、二人の兄がとめるのも聞かず自分の身を横たえて食べさせようとします。しかし、虎には食べる力もありません。そこで頸動脈を切ってその血を飲ませたところが、虎が起き上がってその王子をたちまちかみ殺してしまいました。そして、子虎たちも元気になり山奥へ帰って行ったーというものです。
     この話を聞いて、私たちは三人の王子のことを考えます。長兄が正しかったのではないか。いや次兄の言う通りかも知れない。弟の言動は、どうしても理解できないなどと考えます。この三人の王子の思いや言動を、われわれの行動模範として考えるかもしれません。しかし、それでは経典の教は受け取れないと思います。
     仏教の師は、「この話のポイントはわれわれが虎であるということで、これが一番大事なところではないか」と言われました。
    「われわれは命も絶え絶えになって食べる元気もなく、多くの問題を抱えて死にそうになっている。それが三番目の王子に助けられた。助けられたのに自分を助けた人を食い殺す。感謝の心もなく、相手をしゃぶれるだけしゃぶって逃げていく。このような存在が私自身である。自分が何であるかをよく考えなければ仏法になりません。そのことをよく知っておかねばならない」と聞かされました。
     この法話を記録したものを久しぶりに読みましたが、記憶力の悪さでしょうか、人間の分別思考の習性か、三人の王子がわれわれの行動模範を示しているように読んでいました。「三番目の王子のような菩薩的精神の捨身は私には到底できない」と思いつつ読みを進めていたら、師の「死にかけた虎が私の相です」の指摘にあらためてビックリしました。仏はそんな私の姿を暴き出し、説き示されているのかと慄然としました。私は幸いにも戦争の極限状態を経験しなかった世代ですが、縁次第、時代状況によってはどんな行動をするか分からない身の危うさを思うのです。

捨身飼虎という話がある。

2022-02-04

Facebook 田畑 正久さん曰く


捨身飼虎という話がある。
これは金光明経という経典に出ている。
虎が飢え死にしそうになっていた。
そこへ三人の王子が通りかかった。
一番上の王子が言った。
あの人食虎が死にそうだ。
よかった、これで人が助かるだろう、と。
二番目の王子が言った。
あれは殺したがいい。
三番目の王子が言った。
私は助けたい、と。
二人の兄がとめるのも開かず自分の身を横たえて食べさせようとする。
けれども食う力もない。
そこで頸動脈を切ってその血を飲ませたところが、虎が起き上がってその王子を忽ちかみ殺してしまった。
その子虎達も元気になり山奥へ帰って行った。
そういう物語がある。
    この話を聞くとみな三人の王子を考える。
兄貴が言うのがよかったのではないか、いや次の兄のがよかったかも知れない。
一番下の弟のはどうも解せないというようなことになる。
この話は三人の王子が我々の行動の模範を示しているものとする。
その限りこのお経はわからないと思う。
この話の根本は我々が虎であるということである。
これが一番大事なところではないか。
我々はもう命も絶え絶えになって食べる元気もなく、沢山の問題を抱えて死にそうになっている。
それが助けられた。
助けられて自分を助けた人を食い殺す。
感謝の心もなく、相手をしゃぶれるだけしゃぶって逃げていく。
このような存在が私自身である。
自分が何であるかを考えなければ仏法にならない。
そのことはよく知っておかねばならない。

細川巌 述 「歎異抄講読」(後序について)
昭和61年 p32 
(日野市教育を考える会発行)

 医療文化と仏教文化

2022-05-18

Facebook 田畑 正久さん曰く


大分合同新聞医療欄   「今を生きる」第416回
(令和4年 2月21日掲載) 医療文化と仏教文化(242)

 「仏説阿弥陀経」に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。
人はそれぞれの個性で輝けばいいという意味ですが、子どもたちが元気で遊んでいる様はまさに、一人一人が輝いています。
自我意識が発達してない幼児期には他人と比べるとか、好き嫌い、損得、勝ち負けという思考がないので、お経の言葉のように自由自在に生きています。
 辞書によれば、自由という言葉は
 ① 他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること
② 物事が自分の思うままになる様―とあります。
  自由という言葉は、本来は仏教用語で「自らに由(よ)る」と言う意味なので①に近いものです。
「思うままになる」という意味は明治以降に加わったものと考えられています。
  明治の初期に、英語のfreedom(フリーダム、権利としての自由)、liberty(リバティー、状態としての自由)の訳語として自由という言葉を使うようになってから、「思うままになる様」という意味が加わったのでしょう。
フリーダムは「最初から与えられている」、「あって然るべき」、「妨げられるべきでない」自由で、誰でも分け隔てなく与えられているという意味の言葉です。
またリバティーは勝ち取って得た自由です。奴隷という身から、植民地という制約から解放・独立するというときなどに使います。
両方とも欧米の思想を背景とした自由です。
仏教でいうところの自由と共通する部分もありますが、その違いをよく理解して使うべきであると思われます。
   現在の日本では、辞書に示されるように①と②の両方の意味で使われています。しかし、哲学や宗教を学んで見ると、②の「自分の思いのままになる様」というのが気になります。世間的には「思いのままになる様を自由である」と考えられていますが、自由とは自分の欲望の赴くままに生きることではありません。むしろ、それは哲学的な理解では隷属的な生き方で、自我意識の思いや感情の奴隷になっている状態だというのです。
    仏教では、私が存在することの背後に宿されている意味を感得して、そのおのずからしからしめられる役割、使命を演ずることが自由であると言います。
人は生まれながらに自由なのではなく、習慣や学習、徳育などによって初めて自立して自由になれるのではないでしょうか。
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