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田畑正久先生の話

お釈迦様の生涯と教え

田畑先生のことば

2022-11-06
「仕合わせ」とは
仏教関係のカレンダーの11月の標語に「仕合わせ」とは、比べるものではなく 気付いていくものである、と出ていました。
     「仕合わせ」の語源:「しあわせ」って聞くと大半の人が「幸せ」っていう漢字を思い浮かべると思うけど、この「しあわせ」は正しくは「仕合わせ」(広辞苑では)と書くのが正式な日本語だと言われています。
     「仕合わせ」の語源は、仏教用語に由来していて、「仕」というのは「仕える」という意味を表して仏様(真実の言葉)に仕えるとか目上の人に仕えるという事を表現する言葉です。「仕合わせ」っていうのは、こうした仏様に仕える仕事に巡り会う事、または仏様から仕事を頂く事を指して使われる表現で、こうした仕事に巡り会える事が「しあわせ」だという意味からこの言葉が生まれたようです。

田畑正久先生の話

2022-09-23
大分合同新聞医療欄
「今を生きる」第424回
(令和4年 7月18日掲載)
医療文化と仏教文化(250)
     「自分のことは自分が一番よく知っている」に関しての経験です。
    私の思いを翻(ひるがえ)させられことが最近ありました。我が家では私が最後に風呂に入って掃除をすることになっています。そして風呂からあがったら入り口の足拭きを干すように決めています。そのことで最近、家人から「いつもお風呂の足拭きが干してないね」と言われました。気付いたときは必ず干しているので、「できるだけしているつもりだがなあ」と言い訳をしました。だから言われることは不本意でしたが、もう一度考えてみたのです。
    気づいた時はやっていますから、自分が「干した」という記憶はたいてい残っています。逆に「干さなかった」という記憶は私に残るはずがありません。問題は常日頃から「干すこと」に注意が行っていたかどうかです。「干してなかった」という忠告については、私は次の日に風呂に入るまで脱衣場に行かないので第三者の意見が正しいでしょう。そうすると家人の指摘を承諾するしかありません。私の自己中心的な思いによって全体が見えてなかったと痛感させられました。
    あるお寺で法話を聞いていた女性が、自分の太ももをつねって目を覚まそうとしていたそうです。女性はそれを繰り返していましたが、覚まそうとする手もいっしょにこっくりとしてしまったそうです。彼女は眠るまいと努力していたのですが、つねる手も一緒にこっくりと。それで目覚めさせる方法で一番良いのは目覚めている人に注意してもらうことだと言っていました。
    徒然草に、「仁和寺の僧がいつかは石清水八幡宮に参りたいと思っていた。ある時思いたって一人で参詣し、極楽寺・高良神社などを拝んで、これが石清水八幡宮と勘違いして帰ってきた。そして知り合いに、『長年の思いを果たしました。参詣する人が山に登っていたので興味はありましたが、目的は達成したと思って山には行かずに帰ってきました』と言ったという話があります。著者は「少しのことにも、その道に通じて導いてくれる人は欲しいものである」と書いています。
    自分の分際を知って謙虚になり、気づき、目覚めた先達に助言してもらうことの大切さを思わせられます。

田畑正久先生の話

2022-09-23
大分合同新聞医療欄 
「今を生きる」第426回 
(令和4年 8月29日掲載)
医療文化と仏教文化(252)
 お釈迦さんの悟りの内容に「縁起の法」があります。
    小さな子供と花火で遊ぶときには、まずロウソクに火をつけて、その火を花火に移します。しかし、少しでも風があると吹き消されることがあります。そんなとき、「風で火が消えた」と子供に言ったとします。
    「強い風が原因で、その結果ろうそくの火が消えた」という説明が因果律です。乾燥注意報が出ているのに登山者が食事の準備に火を使って、想定外の山火事になったというニュースを聞いたことがあります。この場合は風で火が消えるのではなく、強い風が原因で大火事になったのです。相反する二つの事例ですが、同じ「火」であっても風の有無、乾燥状況、燃えやすい落ち葉の有無など、周囲の種々の条件の違いでで、火が消えたり、火事になったりという違った結果になります。その種々の状況・条件を仏教では「縁」と言うのです。
    ある原因、ここでいえば火があって、それが周囲の「縁」によって種々の展開をします。それが「業」です。そして、そのために結果が生じます。それが次の事象へと影響すなわち「報」を及ぼすという「因・縁・業・果・報」です。
     仏教はキリスト教のような創造主はいません。仏の悟りである「縁起の法」は、現代人の科学的合理思考とも整合性があるのです。「仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である」と物理学者のアインシュタインが言っています。
    医学・医療は人や病態の客観的知見の事実の積み重ねと世界の医学・医療従事者の検証を経て構築されています。そのため多くの人の信頼を獲得しているのです。
    新型コロナウイルス感染症に対してワクチンに批判的な人がワクチン「賛成派」とか「反対派」と決めつけたり、ある種の薬を使うべきだと主張する意見を時々見ます。医学というのは効果の信頼できる客観的な資料が示されれば、いつでも軌道修正するのにやぶさかではないのです。どのワクチンや薬でも100%安全というものはありません。効果と副作用、福反応を見極めながら、個人や集団に良かれと考えて対応しています。
    医学・医療は最初に結論ありきではなくて、偏見にとらわれず、合理的に柔軟性・融通性を持って個人や地域コミュニティを守ろうとするものです。

田畑正久先生のはなし

2022-09-03
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第423回
(令和4年 6月27日掲載)医療文化と仏教文化(249)
    「自分のことは自分が一番知っている」と言っている人が、仏教の「縁起の法」や「空」の概念、そして無意識の領域(末那識、阿頼耶識)を知らされると、私たちの考えの浅さを仏の智慧が見破っていることに驚くのです。そして「自分のことは自分が一番知っている」と傲慢になって、自分についての表面的な理解だけで「分かっている」という自我に縛られた思い、それに気付かない無知さを指摘されるのです。
     3月初め、ウクライナの惨事を伝える報道で、出国する母子が携帯電話で会話をする映像があり、最後に妻の「愛しています」に夫が「愛しているよ」と答える悲しい場面がありました。二人ともうそを言っていないという実感があって、ロシアの愚行や人間の愚かさ、迷いの現実にいたたまれませんでした。
     非常時でなくても「私はあなたを愛しています」という思いを胸に結婚する男女は多いと思います。ところが日本の統計のよると3年前には婚姻数が約60万件で、離婚数が約20万件でした。仏教の縁起の法では、人の心は縁次第ではころころ変わることを示しています。
     インドで一番多いヒンディー語では、愛について「私には、あなた対する愛の気持ちが起こって、今、私に留まっています」という表現をすると聞きました。「とどまっている」とは、いつ消えるかも知れない可能性を含んだ言い方です。だから、愛する気持ちを大切にしなければという発想になるのでしょう。
     ところが自分の「思い」や「感情」を「私」だと思って、私の思いやフィーリングを大切にするとなるとそうはいきません。仏教が教える「縁起の法」は、縁次第では何でも起こるということを言っているのです。その事実に気付かず、「私の思い、感情を大事にします」と言っている人を仏教の視点から考えると、人は自分の思いや感情の奴隷になってしまうという指摘に耳を貸さず、それらの思いに振り回されてしまう危険があるのです。
     仏教は「縁」を大事にする教えです、そしてキリスト者の渡辺和子さんが言う「置かれた場所で咲きなさい」に通じる世界を生きることを勧めています。

田畑正久先生のはなし

2022-08-14
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第422回
(令和4年 6月06日掲載)医療文化と仏教文化(248)
    肥満に悩む人がいるとします。体重の増加は、食べる量と消費カロリーに大きく関係します。力士やアメフトの選手たちは、ぶつかる力を強くするためにたくさん食べて体重を増やします。当然、体重は食べる量に比例して増加します。
    肥満を改善しようとすれば食べる量を減らすか、消費カロリーを増やすのが合理的な方法です。この道理に逆らうと改善の方向には進みません。
    お釈迦様の目覚めに「縁起の法」というのがあります。これは、大きな原因(因)があって、それが小さな原因(縁)と和合して働き(業)をすると結果(果)がもたらされる。そして、それが次に影響(報)して「因縁業果報」というように展開するという法則です。
    内臓の調子もよく、元々食べるのが好きだという因と、たまたまおいしそうなお菓子が食卓にあった(縁)のでついつい食べてしまって体重が増えた(果)。これは「縁起の法」に沿った自然な流れです。
    仏教では不自然なことを推し進めると、いつかは否応なしに自然に戻されると教えています。
     いろいろな事象を考えるとき、因や縁次第では何でも起こります。固定した「我」というものはなく、私の身体も代謝によって常に変化し続けています。心も状況次第で常に変化していて、それを「無常」と言います。喜怒哀楽も縁次第で目まぐるしく変化します。いくら怒りっぽい人でも、二日も三日も怒り続けるということはないと思います。
    世間の出来事でも、縁次第では何でも起こると教えています。私自身の人生でも「まさか」と思うことが実際に起きました。大学での学園紛争、米軍のベトナム撤退、地震、津波、火山噴火、ニューヨークの世界貿易センタービルの惨事、原発事故、新型コロナウイルスのパンデミック、ウクライナ危機など枚挙にいとまがありません。
    心の変化を表わす指標として国の統計をみると、その年に提出された婚姻届件数に対する離婚届件数は、最近の10年間は離婚率は約33%で推移しています。婚姻届けを出すときに離婚は考えなくても、私たちの心は常に変化するのです。
    仏教は人間の思いや感情の変化を見透かして、自分の思いに執われている私たちに「感情の奴隷になるな」と言います。そのために智慧の光に照らされて「自分の相(すがた)を知ること」の大切さを教えているのです。
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