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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

F4U コルセア、もはや零銭では対応できなくなりました。

2021-04-18
F4Uの初戦は1943年、ガダルカナルに進出した、数と練度で勝る日本海軍に「セントヴァレンタインデーの虐殺」と呼ばれる大敗北を喫した。
1944年末から海軍に供給されたZ-2与圧服は、機体構造が頑丈で高速機動性に優れたF4Uとの相性が非常に良いことを示し、その価値を証明した。343航空隊の紫電改に囲まれた2機のF4Uがドロップタンクをつけたまま数的に優位な紫電改の降下攻撃に対してブラックアウトギリギリの急機動を行い、むしろ紫電改を相次いで撃墜して突破した事例もあった。
1945年の本土攻撃で、日本の新型機などの高火力にさらされることが多かったF4Uは、高い耐弾性と生存率を示した。F4Uは紫電の攻撃により搭載弾薬が爆発して主翼の三割が吹き飛んだり、40mm砲によって主翼中央区画がほぼ喪失した状態でも、生還した事例があった。
F4U (航空機) - Wikipedia

F4U コルセアChance Vought F4U Corsair)は、アメリカチャンス・ヴォート社が開発し、第二次世界大戦朝鮮戦争アメリカ海軍海兵隊が運用したレシプロ単発単座戦闘機。愛称の「コルセア (Corsair、コーセア)」は、バルバリア海賊の意。

ロッキードP38ライトニング戦闘機

2021-04-18
1943年4月前線を視察中だった日本海軍の山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機を撃墜したのもP38
、ラバウルからブーゲンビルに向かう長官機を、ガダルカナルから往復1400キロの距離を飛んで攻撃した。
 P38は双発双胴のため、全長11.5メートル、全幅15.9メートルと大型で、その分、燃料や兵装を多く搭載することができた。F型以降は大型の増加燃料タンクを使えるようになり、航続距離は3000キロを超え、機体の燃料搭載量も増加したJ型以降は4000キロ超に伸びた。特に、島しょ部を飛び石式に攻略していた太平洋戦線では、この長大な航続力が役に立った。写真はP38J。
 1943年4月前線を視察中だった日本海軍の山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機を撃墜したのもP38で、ラバウルからブーゲンビルに向かう長官機を、ガダルカナルから往復1400キロの距離を飛んで攻撃した。また、ヨーロッパ戦線では、最大で2000ポンド(908キロ)爆弾を2発か、5インチロケット弾を10発搭載し、対地攻撃機として活躍した(米空軍提供) 【時事通信社】

カーチスP-40ウォーホーク

2021-04-18
:こちらとの闘いは、零戦に利がありました。
本当に駄作機なら13,738機も作りません!カーチスP-40ウォーホーク

太平洋戦争初期、軽快な日本軍機に圧倒された印象の強いP40だが、中低高度での飛行性能は必ずしも低いわけではなかった。
このため、第2次世界大戦中盤以降、戦闘爆撃機として地上部隊の近接航空支援にかり出され、特に枢軸国側の航空戦力が高くなかった北アフリカや地中海戦域で活躍した。
P40は機体、エンジンともに堅牢で、砂漠地帯の砂塵にも耐えて高い稼働率で連合軍の進撃に貢献した。
 また、米国以外の連合国にも多数が供与され、英国、オーストラリア、中国などで使用された。傑出した性能こそなかったものの、堅牢で扱いやすい点は過酷な戦場で大きなメリットとなり、第2次大戦終了までに1万3000機以上が生産され、P47、P51に次いで米陸軍機では第3位の生産数を記録している。
写真はエンジンを離昇出力1150馬力のV1710-33に換装し、12.7ミリ機銃6挺を装備したP40E型。全長9.7メートル、全幅11.4メートル、最高速度は時速580キロだった(米空軍提供) 【時事通信社】

 米カーチス社製のP40戦闘機は、ドイツと壮烈な航空戦を展開していた英国にも供与された。英国はP40に「トマホーク」「キティホーク」という名称を付けた。
写真の機体はアリソンV1700エンジンを搭載した「キティホークIII」で、ロンドンの英国空軍博物館に展示されている。
英空軍のP40は苦手な高高度での戦闘を避け、ドイツの主力機メッサーシュミットBf109とも互角に立ち回り、特に北アフリカ戦線での制空権確保に貢献した。
また、低高度での機動性を生かし、戦闘爆撃機としても多用された 【時事通信社】

FacebookMatthew Copp 三菱ゼロのリベットと塗装スキームの細部が好きです.

2021-01-24

【零式艦上戦闘機】連合軍が最も恐れた戦闘機「ゼロ戦」

2021-04-18

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は、三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに三菱重工、中島飛行機の両企業により総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし連合軍と対峙、あるいは国土防衛に尽くした。
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