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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

今日はルキノ・ヴィスコンティの命日らしい。

2022-03-18

Faceboo永井資久さん曰く


今日はルキノ・ヴィスコンティの命日らしい。
(Luchino Visconti, 1906年11月2日 - 1976年3月17日) 
イタリアの映画監督、脚本家、舞台演出家。
ローマにて69歳で死去した。。。とある。
最も好きな映画監督の一人、ほとんど見た。

アナから弁護士になってさらに早大院修了 菊間千乃、学び続けた早稲田愛(2019年公開)

2022-03-07

Facebook 早稲田ウィークリーさん曰く


【バックナンバー/先輩に乾杯!】
アナから弁護士になってさらに早大院修了 菊間千乃、学び続けた早稲田愛(2019年公開)
今年、勤務する弁護士事務所の代表パートナーに就任した菊間さん。
以前のインタビューで語った、アナウンサーから弁護士への転身に対する思いとは?

伝説の石原軍団 社長・裕次郎さんが倒れたことでより強まった結束力

2022-02-16
© NEWSポストセブン 提供 軍団のステージが変わるきっかけに(1981年裕次郎の手術結果を報告する渡と小林正彦専務。写真/共同通信社)

大スター・石原裕次郎が芸能界で作った伝説のひとつが、今なお語り継がれる「石原軍団」の鉄の結束であろう。国民的スターとなった石原裕次郎が1962年に石原プロモーションを旗揚げしてからしばらくは、『黒部の太陽』(1968年)や『栄光への5000キロ』(1969年)の大ヒットで景気がよかったが、1970年代に入ると映画産業の斜陽化とともに大きな負債を抱え、倒産寸前に追い込まれていた。だが、テレビドラマに進出した石原プロは、『太陽にほえろ!』(日本テレビ系、1972~1986年)や『大都会』(日本テレビ系、1976年)など、ド派手なアクション路線で人気を博し、苦境を脱する。そして『西部警察』(テレビ朝日系、1979年)で、その人気は頂点を極めた。裕次郎演じる西部警察署の捜査課長・木暮謙三と渡演じる刑事のリーダー・大門圭介を中心に繰り広げられる人間ドラマと爆破やカーチェイスに、視聴者は釘付けになった。「使用した火薬4.8トン」「壊した車両4680台」「飛ばしたヘリコプター600機」「始末書45枚」という数々の伝説を生んだ。PARTIの途中から最終話まで刑事ジョー役で出演した御木裕氏が語る。「もともと石原慎太郎さんと知り合いだった縁で、20歳で石原プロに入って右も左も分からぬまま『西部警察』で役者デビューしました。撮影現場では、渡さんが来ると良い意味で現場の空気がピリッと引き締まり、裕次郎さんが現われるとみんながイキイキと動き出す。渡さんがロケの宿泊先でみんなを集めて『正座しろ』みたいなこともあったけど、そういう体育会系なところもみんなで楽しんでいました。裕次郎さんと渡さんを中心とする結束の固さが、作品の魅力を生み出したんだと思う」だが、『西部警察』のロケ中だった1981年4月に大事件が発生する。裕次郎が解離性大動脈瘤で倒れ、緊急入院したのだ。「もし、最悪の事態になったら、私も連れていってもらいたい。石原に殉じたい気持ちです」ワイドショーに出演した渡は涙ながらにそう語った。その後、裕次郎は奇跡の復活を遂げるが、病気で倒れたことをきっかけに石原プロは新たなステージへと突入した。良純が語る。「もともと石原プロは太陽のような存在だった石原裕次郎を慕って集まった男たちの集団だったけど、社長が倒れたことで親分の夢を受け継いで作品を作っていこうと決意した。『社長のために』という一つの方向性を持つ男たちの結束力が、より強まっていったんですよね。酒はあまり飲まないほうだった渡さんが、ロケ後の夜や休みに若い連中を集めて、ワイワイと楽しむようになった。『社長の代わりに、俺がやらなきゃいけない』との責任感があったんだと思う」渡を中心に団結を深めた石原プロは「石原軍団」と呼ばれるようになり、熱い男たちの集まりとのイメージが世間に定着していった。(文中一部敬称略)

※週刊ポスト2022年2月18・25日号

かしまし娘(昭和31年頃) 3人とも20歳代でお若い。

2022-02-08
Facebook Yasuharu Miyakeさん曰く、 3人の漫才は明るくて面白かった。 3人の漫才は明るくて面白かった。

かしまし娘


かしまし娘


かしまし娘「21年ぶりのTVステージ」

獅子てんや・瀬戸わんや「何んで行ったの」

2022-02-02
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