時機相応
時機相応について 時代の中で、この人は、どう生きたか?
永田鉄山
2020-08-10
1931年に満州事変が起こりると、来る国家総力戦を戦い抜くためにとして、日本陸軍内部において、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派と、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指す急進的な皇道派との対立が激化していた。1934年に皇道派青年将校らによる「士官学校事件」が発覚し、翌年には皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起ることで、統制派が皇道派を一掃する動きが強まってきた。
このような統制派による皇道派追放への動きを、統制派の永田鉄山軍務局長が取り仕切っていると考えた相沢三郎陸軍中佐は、1935年8月12日永田鉄山少将の在室を確認したうえ軍務局長室に闖入、軍刀を抜いて永田に切りかかり殺害した。
翌年初めに軍法会議は始められ、軍幹部らの証人喚問をめぐって錯綜している間に、2月26日に二・二六事件が勃発した。皇道派の青年将校らが引き起こしたクーデター事件は、相沢の裁判をめぐる環境を一変させ、非公開のままで一挙に公判が進められ、死刑の判決が確定すると7月3日に銃殺刑が執行された。
永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深めやがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至る。「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」という戦後の証言なども残されているが、歴史にイフはない。
加藤一二三 将棋プロ棋士
2020-07-21
鍋島直正 佐賀の殿様
2020-07-21
長谷川町子
2020-07-21