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支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

◎マイクロソフト「ウインドウズ95」発売 *1995.11.2

2021-04-10
Facebook 佐々木信雄さん曰くマイクロソフト「ウインドウズ95」日本語版が発売される。
ビル・ゲイツのマイクロソフト社
スティーブ・ジョブズvsビル・ゲイツ
ジョブズのアップル社が1984年1月に発売した”Macintosh”
*1995.4.9/h7 東京都知事に青島幸男氏・大阪府知事に横山ノック氏当選
【20th Century Chronicle 1995(h7)年】
◎マイクロソフト「ウインドウズ95」発売
*1995.11.23/ マイクロソフト「ウインドウズ95」日本語版が発売される。
 1995(h7)年11月23日午前0時、秋葉原では日付の変わる深夜に発売を開始し、パソコンファンが殺到、さらに業界関係者や報道陣も加わり、パソコンソフトウェアの発売としてはまれな大騒ぎが展開され、発売4日で400万本を売ったと言われる。
 それまで一部のマニアだけが使いこなせたパソコンやインターネットが、Windows95によって、一挙に一般人の手の届くところに近づけられたという意味では、まさしく画期的な製品であったと言える。
 では、Windows95の一体どこが革新的だったのか? とにかく羅列すると、GUIの刷新によるカラフルな画面、LAN・WANなどのネットワーク機能の充実、Win32APIによる高速な32ビットコードによるプログラム処理、32ビットI/O機能による高速なファイル処理、ファイルシステムFATの拡張により長大ファイル名が利用可能、プラグアンドプレイによる周辺機器増設の容易化、などとなる。
 このように書かれても分かりづらいだろうが、つまるところ、そんなことを気に掛けなくても、リアルでカラフルなディスプレーを眺めて、マウスとキーボードでちゃちゃっと操れるイメージになったわけである。そして、誰もが簡単にインターネットを活用できる環境が整った。
 コンピュータの画面上に、ウィンドウ、アイコン、ボタンといったグラフィックが表示され、ユーザはそれらの中から目的の動作を表すグラフィックスをマウスで選択するという仕組みは、総称してGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)と呼ばれる。
 Windows95では、それらのアイテムをディスクトップ(起動時初期画面)上に展開するGUIを売り物として、それまでのMS-DOSの世界を一新したが、実はこのようなGUIを本格装備したのは、ジョブズのアップル社が1984年1月に発売した”Macintosh”だった。
 しかし、一般向けPCとしては高額であり、対応ソフトの不足などでMacintoshの販売は停滞し、創業者で開発リーダーであったスティーブ・ジョブズが会社を去ることになるなどして、アップルは長い業績低迷期をむかえる。
 その間に、ビル・ゲイツのマイクロソフト社はWindows95を大々的に発売し、Windowsを搭載しさえすれば、パソコン機種に関わらず同じ動作が保証される特性を発揮し、パソコンのOSを独占する勢いとなった。
 アップル社は身売り話が出るほど低迷したが、97年にジョブズが復帰すると、ビル・ゲイツとの歴史的和解を演出し、MSとAppleがクロスライセンスを結んだ。まもなく可愛らしいスケルトンボディのiMacをヒットさせひと息つくと、iPod・iPhone・iPadを次々と開発し、モバイル・コンピューティングに市場を移行させるのに成功した。
 Windous95は、その後”98”・”Me”とアップグレードし、プロ仕様の"NT"・”2000”と平行展開していたが、その後はNT系をベースに統合して”XP”・”Vista”・”7”・”8”・”10”と進めてきた。しかし近年のAppleやGoogleの攻勢に対応できず、立ち遅れ感は否めない。
 NHK-BSドキュメンタリーで「スティーブ・ジョブズvsビル・ゲイツ」が放映された。年月を経て温和に語り合う二人だが、終始、スティーブがビルをいじるというような対談の様子が、二人の関係を象徴していた。二人の関係者らへのインタビューで、その中の一人が次のように答えていた。
 「ヒッピーとオタクが いまの IT の世界をつくったのさ」
(この年の出来事)
*1995.4.9/h7 東京都知事に青島幸男氏・大阪府知事に横山ノック氏当選
*1995.7.30/h7 八王子スーパー強盗殺人事件
*1995.8.15/h7 戦後50年 村山談話発表
*1995.12.14/h7 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 和平協定調印式(パリ)

◎2000年問題(ミレニアム問題)

2021-04-10
Facebook佐々木信雄さん曰く 2000年問題で、無事に新年度を迎え政府が安全宣言をする
*2000.11.21/h12 野党4党提出の内閣不信任案に乗る予定の自民党加藤派らが、直前に決定を覆したため「加藤の乱」と呼ばれた。
【20th Century Chronicle 2000(h12)年】
◎2000年問題(ミレニアム問題)
*2000.1.1/ 2000年問題で、無事に新年度を迎え政府が安全宣言をする。
 2000年問題とは、西暦(グレゴリオ暦)2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた問題である。前年ぐらいから、この問題が危機感をもって語られ、考えられる限りの対策が講じられてきたが、実際にどんな問題が起こるかはその時が来てみないと分からない状態だった。
 そして実際に西暦2000年に年号が変わったあとの午前0時50分から、小渕首相が記者会見して、「全国の電力・ガス・交通・通信などに重大な問題は発生していない」と発表し、ひとまずは安心というわけだった。
 2000年当時、すでに世界のあらゆる場面で使われるようになっていたコンピュータやICチップは、埋め込まれたタイマーで年や日時を認識し、それに基づいて動作している。しかし初期のICチップなどは、容量が少なく処理速度も格段に劣っていたため、西暦年号を下二桁で表現する仕組みを取っていた。
 つまり、その数字が「00」なら1900年、「99」なら1999年を意味した。つまり西暦2000年までの20世紀の間は、前二ケタ分の「19」を省いてもよかったわけである。しかし、西暦2000年になったとたんにタイマーは00に戻り、これをコンピュータは2000年ではなく1900年と認識してしまう。その年号誤認識によって、コンピュータシステムが正常に動かなくなることが懸念されたわけであった。
 もう一つの問題は閏年の扱いに関する問題で、グレゴリオ暦の「置閏法」と呼ばれている。現行のグレゴリオ暦では、4年に1回、4で割り切れる年を閏年として、2月29日を挟み込むことは広く一般に知られている。しかしこれだけでは、地球の公転周期と暦の間にさらに微妙なずれが残る。そこで100で割り切れる年は本来閏年であるが、閏年を飛ばして平年とすることになっている。
 ところがそれでもごくわずかの誤差が生じるので、さらに400で割り切れる年は、平年になるところを閏年とすることで調整する。すると、1900年は平年扱いだが2000年は閏年となる。しかし初期のコンピュータでは、この3重にわたる煩雑な調整ルールをプログラミングされていない恐れがあり、2000年に誤動作を起こす可能性があるというわけだ。
 1960年代から1980年代にかけて組まれたプログラムの多くでは、年数を下2桁に縮めてメモリリソースを節約をするのは当然の技法であった。そしてコンピュータシステムなどの日進月歩の世界では、2000年までには新しいシステムに更新されているであろうと想定し、2000年問題には充分な対策が施されていなかった。
 そこでこの西暦2000年になる時、懸念されたされた問題は、発電送電システム、水道水の供給システム、鉄道・航空管制など交通システム、銀行・株式市場など金融関連システム、電話・インターネットなど通信システム、医療関連機器の機能、工場のロボットなどの機器などなど、社会インフラシステムが大打撃を受ける可能性もあったのである。
  結果としては、2000年になって早々に小渕首相が会見で無事を宣言したように、生活に直結するほどの大きな混乱は起きなかった。ただし置閏法関連で言えば、閏日(2月29日)の誤認識問題は、その日になってみないと分からないということもあった。
 いずれにせよ大地震など自然災害のように、いつ起こるか分からないのとは違い、1月1日や2月28日のそのタイミングに、関係者が集中して監視することで、大事故を防止できるという、対応するタイミングが明白だったことで、万全の対策をもって臨むことができたのであった。
 なお今後にも、2025年問題、2038年問題というのが残されている。2025年というのは昭和100年に相当する。となれば、2000年問題と同様の「下二ケタ」問題が発生する。もちろんパソコンなどの処理機器はすべて西暦で内部処理されているが、行政関係や金融関係など古い手書き書類を継承しているものは、当時の和暦、つまり「昭和」の年号で管理されているものが残っている。
 もっとも、その大半は「平成」に変わる時点で、西暦に一元化されたはずで、例えば最近のカレンダーを見れば、平成だの令和といった元号は書かれていないものがほとんどである。
 もう一つの2038年問題というのは、パソコンなど処理機器内部演算で使われる2進数の限界問題である。古いコンピュータやパソコン(UNIXやC言語)では、内部での時刻管理は、それらが使われ出した1970年1月1日午前0時からになっている。
 そしてそれからの累積秒数を二進数の乗数に換算して扱える最大桁数が、2038年1月19日午前3時4分8秒(GMT)で上限に達するというのである。しかし近年のパソコン類は32bitや64bit処理がベースなので、扱える二進数の桁数が圧倒的に増えている(それこそ乗数的に)ので、何の問題もないはずであると考えられる。
(この年の出来事)
*2000.1.28/ 9年にわたる少女監禁事件が発覚する。(新潟少女監禁事件)
*2000.7.18/ 三菱自工が車の欠陥情報を隠蔽していたことを、運輸省が公表する。
*2000.11.21/h12 野党4党提出の内閣不信任案に乗る予定の自民党加藤派らが、直前に決定を覆したため「加藤の乱」と呼ばれた。
*2000.12.31/ 東京世田谷の一家4人殺害事件が発覚する。

· 東京タワーを作り上げた方々!

2021-04-10
Facebook 原 しゅういちさん曰く 命綱も無しにあの高さまで作り上げた事に敬意を表します。
日本の象徴の一つですね

おちょやんが・・・。

2021-04-09
Facebook 小林 知茂さん曰く
吉永小百合&高橋英樹 川端康成に宇野重吉

◎第12回主要先進国首脳会議(東京サミット2)

2021-04-09
*1986.1.28/ スペースシャトル・チャレンジャー号が、打ち上げ27秒後に爆発、乗組員7人全員が死亡する。
【20th Century Chronicle 1986年(s61)】
◎第12回主要先進国首脳会議(東京サミット2)
*1986.5.4/ 第12回主要先進国首脳会議が東京で開催される。
 第12回先進国首脳会議(東京サミット2)は、1986(s61)年5月4日から6日まで、日本の東京赤坂の迎賓館で開催された。これが日本で2回目で、同じ東京でのサミットであった。ホスト国の中曽根康弘首相は、就任当初の田中角栄の影響も払拭し、保守政治と新自由主義的経済政策で安定した政権運営をしていた。レーガン米大統領とロン・ヤスと呼び合う親密な関係や、同じく英サッチャー首相とも保守的自由主義を認めあう良好な関係を結び、世界を代表する首脳たちと対等に語り合う関係を演出した。
 下記一覧にみるように豪華な顔ぶれであったが、世界的に重要な議題は比較的少なかった。前年のプラザ合意により日米の経済摩擦も一段落し、日米英など首脳による新自由主義的経済改革も軌道に乗りつつあり、各国の課題であったインフレも抑制されつつあった。東西冷戦の当の相手ソ連は、アフガニスタン侵攻以降の硬直化で疲弊し、やがてゴルバチョフが登場しグラスノスチ(情報公開)が始まると、その経済的破綻状態が明白になってくる時期であった。
 やがてやってくる東側陣営の崩壊前夜であり、リビアなどによる国際テロリズム批判の声明や、ソ連にチェルノブイリ事故の情報公開を求める声明をだして、西側諸国の結束を訴える「東京宣言」によって終幕した。しかしプラザ合意による円高容認は、のちのバブル経済の先駆けでもあった。
「参加首脳」 中曽根康弘(議長・日本国内閣総理大臣)/フランソワ・ミッテラン(フランス共和国大統領)/ロナルド・レーガン(アメリカ合衆国大統領)/マーガレット・サッチャー(イギリス首相)/ヘルムート・コール(西ドイツ
首相)/ベッティーノ・クラクシ(イタリア首相)/ブライアン・マルルーニー(カナダ首相)/ジャック・ドロール(欧州委員会委員長)
(この年の出来事)
*1986.1.28/ スペースシャトル・チャレンジャー号が、打ち上げ27秒後に爆発、乗組員7人全員が死亡する。
*1986.4.11/ ハレー彗星が76年ぶりに地球に接近する。
*1986.11.15/ 三井物産の若王子信行マニラ支店長が、マニラ市郊外で誘拐される。
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