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ちょい話【et cetera】

ちょっといい話

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丹下健三という生き方

2020-04-29
https://youtu.be/Kd1MtdiCCtI     https://youtu.be/0gSkE51lZMo
代々木競技場1&2
https://youtu.be/kufTGvJxM1g
Kenzo Tange-Yoyogi Stadium(国立代々木競技場)

1963年の頃

2020-04-29

W.チャーチル語録

2020-04-26
ウィンストン・チャーチル語録76件 (イギリス首相)
経歴(プロフィール)
■ウィンストン・チャーチル
【1874年~1965年】イギリスの政治家。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導。オックスフォードに生まれる。26歳の若さで下院議員に当選。海相として迎えた第一次世界大戦では、作戦失敗の責任を取って辞任し、一中佐としてフランス戦線に赴いた。第二次世界大戦開戦とともに再び海相となり、40年首相に就任。フランスの敗北、イギリス本土の空爆など困難な政局にもめげず、アメリカ、ソ連と協力して最終的な勝利に導いた。戦後の45年、有名な「鉄のカーテン」演説を行う。53年にはノーベル文学賞を受賞



http://meigennooukoku.net/blog-entry-739.html?fbclid=IwAR3zRZXh4szQjpBz2tbeH-r7CSVj96lORTHnHP4qHndl83-_yGjXEPVQDmY

「歌物語」の始まり

2020-04-27
「歌物語」とは、和歌にまつわる説話を集成した物語文学の総称で、和歌にまつわる恋物語や、死別や不遇を嘆く物語など、やはり情感を動かす物語が多くみられる。

【10th Century Chronicle 941-960年】-1
 

◎歌物語の成立
*957.-.-/ 歌物語「大和物語」ができる。
*961.-.-/ この頃「伊勢物語」が成立する。
 

 「歌物語」とは、和歌にまつわる説話を集成した物語文学の総称で、和歌にまつわる恋物語や、死別や不遇を嘆く物語など、やはり情感を動かす物語が多くみられる。「古今和歌集」などで、和歌の簡略な解説として添えられる「詞書」が、より詳しく発展したものと考えられる。
 

(伊勢物語)

 「伊勢物語」は、900年ごろからその原型となるものが存在したようだが、その後にも順次書き替えや追加が行われ、このころ現存の形のものが成立したと考えられる。そのため作者は特定されず、何人かが付け加えたりして関わったとされている。
 

 各章段の冒頭が「むかし、男ありけり」などと始められ、ある男のある男の元服から死にいたるまでを、それぞれ歌を添えて物語られる。六歌仙の一人「在原業平」の歌が多く採録されていることから、業平をモデルにしたとされるが、詠み人知らずなど他の歌も多く、一貫しているわけではない。
 

 話の内容は男女の恋愛を中心に、主従愛、友情など多岐にわたる社交生活が描かれ、「昔男」の元服から死にいたるまでをカバーする。なかでも、前半で数段にわたって綴られる「二条の后(藤原高子)」との悲恋は、恋物語としての伊勢物語を際立たせる説話を構成している。
 

 二条の后との仲を裂かれた男が、悲嘆にくれて東国に下る話が続き、この「東下り」の章段は「貴種流離譚」のひな型を提示しているし、伊勢の斎宮との交渉の一節は、伊勢物語という署名の由来の一つともされる。
 

 伊勢物語は「いろごのみ(風流の恋)」の模範型として、「源氏物語」など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。やや遅れて成立した歌物語「大和物語」にも、共通した話題がみられる他、「後撰和歌集」や「拾遺和歌集」にも『伊勢物語』から採録されたと考えられる和歌が見られる。
 

 中世以降でも、能の「井筒」や「雲林院」などの典拠となり、近世以降では、「仁勢物語」などのパロディ作品の元となり、井原西鶴の「好色一代男」も、源氏物語を経てではあれ、伊勢物語のパロディともみなせる。さらに人形浄瑠璃や歌舞伎の世界でも、伊勢物語から題材をひいたものが多くみられる。

《絵巻物で読む 伊勢物語》
https://ise-monogatari.hix05.com/
 

(この時期の出来事)
*941.5.20/筑前 南海追捕使小野好古が、博多津で藤原純友の軍を破る。
*941.6.20/伊予 逃亡していた藤原純友が、伊予の日振島で殺される(藤原純友の乱終焉)。
*947.6.9/京都 菅原道真の祠を京都北野に建てる(北野天神社の起源)。
*960.9.23/京都 平安京造営後、初めて内裏が消失する。
 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/04/10c-941-960.html

和歌集の歴史

2020-04-25
「古今和歌集」は醍醐天皇の勅命によって編纂された、最初の勅撰和歌集

【10th Century Chronicle 901-920年】
  

◎古今和歌集
*905.4.18/ 醍醐天皇が、紀友則・紀貫之らに「古今和歌集」の編集を命じる(初の勅撰和歌集)。
  

  「古今和歌集」は醍醐天皇の勅命によって編纂された、最初の勅撰和歌集であり、延喜5(905)年4月18日に、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、生壬生忠岑らに編纂を命じられたとされる。
  

 古今集には仮名序・真名序の二つの序文が添えられているが、仮名序には紀貫之の署名があり、貫之が編纂の中心になったと見られる。「万葉集」以後の古い時代から撰者たちの時代までの和歌が撰ばれており、一部の長歌・旋頭歌を除けばほとんどが短歌である。
  

 二十巻からなる選出された歌は、四季に分類された歌と、慶賀歌・離別歌・旅情歌・哀傷歌など内容で分類された歌があるが、なかでも恋歌が五巻を占めている。所載歌のうち4割ほどが読人知らずの歌であり、また撰者4人の歌が2割以上を占める。
  

 古今和歌集は中世以降、その講義や解釈が次第に伝承化され、やがて「古今伝授」と称されるものが現れた。これは古今集が、歌を詠む際の手本・基準とすべきものになったことを意味し、一方では新たな革新が為されなくなることでもあった。
  

 古今が歌のお手本という風潮は明治にまでも続くが、一方で、賀茂真淵などにより、「万葉集」の「ますらをぶり」と対比して、古今は「たをやめぶり」すなわち女性的であるとする評などが登場する。
  

 明治には、短歌の革新を目指す正岡子規らが、「万葉集」の和歌が素朴雄大で生活に密着しているのに対して、古今は定型化した花鳥風月を歌う貴族趣味に堕したものだという批判が出された。
  

 現在でも大勢は変わらず、学校の国語教育などでは万葉集が称揚されることが多いが、私自身は高校の古文で初めて、伊勢物語や古今集のロマンに触れて文学に目覚めたという経験もあし、著名文学者にも、三島由紀夫のように古今を高く評価する者も居る。
  

 古今和歌集の冒頭に添えられた、紀貫之による「仮名序」は、古今集編纂の経緯の解説であるとともに、他方で日本で最初の優れた歌論でもある。そこでは、編者紀貫之らの先の時代の優れた歌人たちに言及し、そこで評された僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主の六人は、のちに「六歌仙」と呼ばれるようになる。
  

 なかでも入集30首と最も多い在原業平は、「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし」と評されている。次に多い僧正遍昭は「歌のさまはえたれども、まことすくなし」、唯一の女流歌人小野小町には「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり」と、好きなことを言っている(笑)。
  

 あとの3人は入首は少ないものの、「ちかき世に、その名きこえたる人」と6人並べて触れられているが、文屋康秀は「ことばはたくみにて、そのさま身に負はず」、喜撰法師は「ことばかすかにして、始め終り、たしかならず」、大伴黒主に至っては「そのさまいやし」などとクソミソに評されている。
  

(この時期の出来事)
*901.1.25/筑前 菅原道真が大宰権帥に左遷される(昌秦の変)。
*901.8.2/ 左大臣藤原時平らが、勅撰史書「日本三代実録」50巻を完成する。
*901.-.-/ このころまでに「竹取物語」「伊勢物語」ができる。
*903.2.25/ 菅原道真(59)が大宰府で没。
*904.3.-/ 宇多法王が、御室仁和寺を造営し移る。
*907.11.15/ 藤原時平らが延喜格を完成する。
*913.3.12/京都 宇多法王が、亭子院歌合を催す。
*914.4.28/ 学者三好清行が、意見封事12ヶ条を提出する。
*920.5.5/ 小野道風が能書により内裏昇殿を許される。
 *920.12.28/ 醍醐天皇が皇子高明親王らに源姓を与える(醍醐源氏)。

 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/04/10c-901-920.html

  「古今和歌集」は醍醐天皇の勅命によって編纂された、最初の勅撰和歌集であり、延喜5(905)年4月18日に、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、生壬生忠岑らに編纂を命じられたとされる。
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