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iPS細胞研究所山中所長 x 早稲田大学田中総長 スペシャル対談 Part 1

2020-05-27
https://youtu.be/1qooW-fBCGs たくましい知性、失敗を糧として・・・

『紺碧の空』と『栄光の早稲田』

2020-05-26

フォーディズムの時代

2020-05-20
Facebook 佐々木信雄さんの投稿
ヘンリー・フォード
流れ作業
ベルトコンベア式組み立てライン
量産車 T型フォード

【20世紀の記憶 1913(T2)年】
 

(T型フォード量産)
*4.1/米 大衆車「T型フォード」量産体制に。ベルトコンベヤ方式による分業を導入する。
 

 1908年に発売された「フォード・モデルT」は、この年1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。それまで数人の熟練工の手作業で、数日かけて完成車にしていたが、ベルトコンベアによる流れ作業による分業化にするには、単にコンベアを導入すればよいというものではない。コンベアの流れる時間に合わせて、人員配置から部品の規格化まで、すべて「システム」として同期させなければならない。
 

 部品の簡素化・内製化、流れ作業による未熟練工員の間での分業化により、車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超えた。1908年の初生産から1927年まで、T型フォードは、基本的なモデルチェンジのないまま、通算で1,500万台が生産された。これに相当するのは、2100万台以上を生産されたという、後年のフォルクスワーゲン・タイプ1(通称ビートル)のみである。
 

 ヘンリー・フォードが作り上げた大量生産、大量消費という生産販売システムは、現代の資本主義の象徴するモデルとなり「フォーディズム」と呼ばれる。それは、大量生産できる高効率の工場設備、従業員のモチベーションを高める高給料、一台当たりの生産コストの革新的な低減などを組み合わせた画期的な方式であった。それは単なる工場管理法にとどまらず、フレデリック・テイラーの提唱する「科学的管理法」を採り入れた総合的マネジメント・システムであった。
 

 「フォーディズム」は自動車業界にとどまらず、20世紀における労働、経済、文化、政治などの各方面に多大な影響を及ぼした生産活動であった。しかし、充分な機能の車を低価格で提供すればよいというヘンリー・フォードの考え方は、時代の流れの中で劣化していった。一方、フォード社のライバル、ゼネラルモーターズ社(GM)は、消費者のニーズに合わせた多品種の車種を生産し、割賦販売を導入するなどして、黒色ボディー一色にこだわり続けた実用車T型フォードを圧倒していった。
 

 結局、フォーディズムも科学的管理法も、究極的に効率を追求するシステムであった。そこでは、機械や部品と同様に人間も効率性の下に評価される。機能が優れて低価格ならば顧客は満足する、賃金が高ければ従業員は充足する、しかしこの考え方は、生活に余裕が出始めた消費者には通用しなくなる。また、いかに高賃金であろうとも、長時間を単純作業で過ごす従業員は耐えられなくなる。
 

 さまざまなニーズの消費者に向けて、自動車ディーラーの店頭には多品種のカラフルな車が並び、製造工場でも、ベルトコンベア方式を廃したボルボ社カルマール工場の生産実験が、経営学の話題に上るなど、人間をシステムの一つのモジュールとして扱う側面が批判された。しかし、効率性の追求は資本主義の基本原理であり、その中で、消費者のニーズをいかにつかむか、従業員のモチベーションをいかに高めるかが、マネジメントの世界では追及され続けている。
 

 チャーリー・チャップリンは『モダン・タイムス』で、機械の一部分となる労働者を描くことで、資本主義社会や機械文明を痛烈に風刺している。さすがに現在では、このような状況は解消されたかに見えるが、資本主義社会であるかぎり、人は「効率」という指標にさらされ続けていることに変わりはない。
 

(補記)
 テイラー科学的管理法やフォーディズムのアンチテーゼとして、経営学教科書に必ず出て来るのが、戦前の有名なウェスタン・エレクトリック社「ホーソン工場研究」と、戦後ではボルボ社「カルマール工場実験」だ。これらの実験では、作業に関わる労働者のモチベーションが重要であることが明らかになった。
 

 科学的管理法は、人間を物理的客観的にとらえて作業効率を図ろうとする。ホーソン実験も当初は、作業条件と作業効率の関係を調べる目的で始められた。
 

 しかし作業環境を悪くしても、実験の作業効率は上がり続けた。当初の想定と違って、実験で注目されているという作業者の「モチベーション」が能率を高めているのだという結論を得た。
 

 戦後、スェーデンのボルボ社カルマール工場では、労働者の主体性を尊重するという労使間の合意により、非人間的なベルトコンベア・システムを廃止した。その結果を引用すると、

 >>1970年代、労働条件改善のためにベルトコンベアー生産方式を廃止し、各工程で工員数人から成る作業チームを主体とした生産方式を採用した。これは労働者に歓迎され、生産技術者らの注目を集める一方で、労働コスト高騰によって国際競争力を失い、結果として高級車の生産に移行していかざるを得なくなった。<<
 

 つまり、労働者の意欲は高まって充足されたが、生産効率は、コンベア・オートメーションには劣ったということだ。結果的に、ボルボ社は高級車にシフトし、そのブランド力を獲得した。
 

 これは、T型フォードの時代には成り立たず、戦後の経済が確立して、消費者が豊かになり、品質重視の選択をするという状況が出来てきたからであった。
 

〇この年の出来事
*5.28/仏 ストラビンスキーのバレエ組曲『春の祭典』、パリ初演は不満と嘲笑につつまれる。
*7.1/日 宝塚新温泉の余興に女子唱歌隊が誕生。「清く、正しく、美しく」をモットーに、「宝塚歌劇団」の前身となる。
*9.7/欧州 独・墺・伊「三国同盟」を強化! 英・仏・露の「三国協商」に対抗。
*10.11/台湾 日本統治下の台湾で「独立蜂起計画」発覚。指導者ら20人、死刑に。
*11.16/仏 無意志的回想『失われた時を求めて』、プルーストが自費出版。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170506

池江璃花子、ウィッグを外した姿を初公開「小さな希望になれば」

2020-05-18

早慶戦の始まり

2020-05-18
それは、一通の挑戦状から始まった!

今日に続く「早慶戦」は、1903(明治36)年、早稲田大学野球部が慶應義塾野球部に「挑戦状」を送り、11月21日に慶應の三田綱町運動場で対戦したことに始まっている。11対9で敗れはしたものの、1888(明治21)年創部の由緒を持つ慶應野球部に対し、創部わずか2年の早大野球部がこれを僅差まで追い込んだことは、予想外の善戦であった。翌年6月には、早慶両校は国内最強と目されていた第一高等学校(現東京大学教養学部)野球部を相次いで破り、すでに1904年秋の「早慶戦」は、プロ野球がまだ誕生していなかった当時に、野球界における頂上対決と位置づけられていた。

加えて、20世紀初頭には「慶應義塾及び専門学校〔早稲田大学の前身〕は首都の二大私立学校として、其名尤(もっと)も高し」(『中央公論』1902年4月1日号)と評されたように、早慶両校は南北に対峙(たいじ)するライバル同士として優劣を比較されるようになっていた。その両校野球部がチームを組んで対戦し、勝敗を決する「早慶戦」は、両校の学生たちにとって単なるスポーツの試合ではなく、名誉を賭した両校自体の決戦のように感じられ、異常なほどの熱気を呼び起こすようになったのである。


https://www.waseda.jp/inst/weekly/column/2018/05/18/43718/?fbclid=IwAR3LeTi2SshbAAthfVsJ0LsNNlb02GAfJ9AHrPBG20TsKzEWd_9-YR7_GYo
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