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アーカイブス in NBA

【野球は巨人という時代がございましたが・・・】

高橋直樹が語った因縁のライバル

2023-08-28
一目でわかる個性的なルックス。日本ハム時代の高橋直樹(写真・共同通信) © Sportiva 提供
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki によるストーリーさん曰く、甲子園、早稲田、プロ、そして突然の死。

高橋直樹さんに会いに行ったのは2018年8月。きっかけは〈西武ライオンズ誕生40周年〉の同年、仕事の関係で球団の歴史を紐解いたときのことだ。1982年の埼玉・所沢移転後初優勝を語るに欠かせない選手として、その名が浮上した。

 82年6月、高橋さんは広島から移籍すると、当時は前期後期制のパ・リーグで西武の前期優勝に貢献。移籍後7勝を挙げて、日本ハムとのプレーオフ、日本一になった中日との日本シリーズでも登板している。

元巨人・新浦壽夫氏 3年間で54勝を挙げた韓国球界に別れを告げた理由

2023-08-08
新浦壽夫氏(2016年撮影) © (C) スポーツニッポン新聞社
スポーツニッポン新聞社 の意見

巨人、大洋(現DeNA)などで活躍し、NPB通算116勝、韓国プロ野球でも54勝を挙げた新浦壽夫氏(72)が7日に更新されたYouTube「よしひこチャンネル」にゲスト出演。わずか3年で韓国球界を離れた理由を告白した。

 新浦氏といえば、第1次長嶋政権(1975~80)、第1次藤田政権(81~83)で巨人のエースとして君臨したレジェンド左腕。32歳の時に日本を離れ、韓国プロ野球に新天地を求めた。

 3年契約を結んだ三星ライオンズでは、1年目に16勝(10敗)、2年目に25勝(6敗)、3年目に13勝(4敗)を挙げる活躍。糖尿病を患っていたものの、医者からもプレーに影響はない、お墨付きを得ており、「まあ、黙ってやれば、2ケタは勝つだろうな。5年か6年はやれるだろう」と本人も自信を持っていた。

 ただ、別の問題があった。「1年目の16勝をした時に給料が上がらなかったんです」。いきなりエース級の活躍を見せたサウスポーに対し、球団フロントは「ウォンが上がってますので」と苦しい?言い訳。25勝を挙げた2年目のシーズンオフも、給料は変わらず、「ウォンが動いてますから」の言葉を聞いた。

 当時、新浦氏が球団と「闘争」しなかったのには、恩師の「助言」があった。「長嶋(茂雄)さんには“韓国へ行ったら、金のことで問題起こすなよ”(と言われていて)。はい、黙ってましょうって」

 沈黙は金なり。トラブルを起こさず、3年で日本復帰を決めた新浦氏のもとには、大洋(現DeNA)、日本ハムから獲得オファーが。セ・リーグで戦う気持ちを固め、その後は「巨人キラー」としてならした。

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1985年「たった一人の引退式」(Number主催)に向かう際の江夏豊
「ど真ん中でも打てない」じつはメジャー挑戦していた“江夏豊の伝説”

 球史に残る大投手の生涯ベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。沢村栄治、江川卓、山本由伸、野茂英雄らに続く第15回は、「世界一の奪三振王」江夏豊だ。

 日本プロ野球史上、江夏豊ほど伝説に彩られた投手はいないだろう。オールスター1試合9連続奪三振、オールスター3試合にまたがる15連続奪三振、史上唯一の延長戦(11回)でのノーヒットノーランを自身のサヨナラホームランで達成、高度な投球術を駆使して日本シリーズを制した“江夏の21球”。

 そして、高卒2年目(1968年)の20歳で達成したシーズン奪三振401個の世界記録である。

江夏の21球  (1979年)
1979日本シリーズ江夏の21球
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