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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

シベリア出兵

2021-03-14
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
Facebook佐々木信雄さん曰く
◎シベリア出兵
*1918.5.26/ チェリャビンスクでチェコ軍団が反乱。反革命勢力や列強の後押しで混乱する。
*1918.8.2/ 日本軍、大挙シベリア出兵。チェコ軍支援の名目で、背景には満州支配の野心。 
 1918年から1922年にかけて、英・仏・米・日本など帝国主義列強は、ロシア革命に対する軍事干渉としてロシアのシベリアに出兵した。1918年3月英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。東シベリアのチェリャビンスクで包囲されたチェコ軍団の救出がその名目だった。
 レーニンの指導するボリシェヴィキ革命は、資本主義体制・議会政治・自由主義など西欧の価値観を否定する過激派として恐れられており、第1次世界大戦の最中に、連合国のロシアでボリシェヴィキに指導された革命が起こると、資本主義列強はロシアの反革命保守勢力(白軍)を支援して、革命政権の打倒しようと考えた。
 オーストリア帝国の一部で同盟軍として動員されたチェコ兵は、連合国側にチェコの独立を持ち掛けられて寝返ったところ、些細なことから革命軍と戦闘が始まり、革命軍に包囲されてしまった。これを救出するというのが連合国側の名目だが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことにあった。
 しかし、オムスクの反革命白軍コルチャーク軍が1919年3月に大敗すると、反革命支援の目的が完全に潰え、シベリア出兵の意味はなくなったため、英仏の干渉軍は撤退、アメリカも続いて撤退する。しかし、最大7万以上を派兵した日本軍は、1922年までシベリアに留まることになった。
 日本軍は事後処理のためとして駐留を続けているとき、1920年2月に「ニコライエフスク事件」の悲劇が発生した。これは日本では尼港事件とも呼ばれ、現地の共産パルチザンが、アムール川の河口のニコライエフスク港(尼港)の日本陸軍守備隊および日本人居留民約700名、その他現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した事件である。
 日本は事件に対する報復として北樺太(樺太の北半分)を占領した。時の原敬内閣は、出兵目的を居留民保護とロシア過激派の勢力伸張の防止に変更し、駐兵を継続しようとする。しかし、そもそも戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃しており、日本国内でも批判が高まった。
 アメリカなど諸外国からの日本への不信感も高まり、1922(t9)年10月に、やっと日本も撤兵することとなった。日本のシベリア出兵は、延べ3,500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、具体的な成果のまったくないまま終結した。撤兵を決定した加藤高明首相は後日、「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評している。
(この年の出来事) 
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第1次世界大戦が終わる。

映画『Fukushima 50』(若松節朗監督)

2021-03-14

大阪も標的でした。

2021-03-13
大阪大空襲から76年 91歳「最後の語り」活動半世紀で区切り
スマートフォンでビデオ会議システムを使い、中学生に大阪大空襲の体験を語る久保三也子さん=大阪市福島区の自宅で2021年3月8日午後3時8分、園部仁史撮影
第2次大阪大空襲で破壊し尽くされた大阪市内=大阪市港区で1945年6月撮影

渡邉英徳 Hidenori Watanave, Ph.D. 1945年6月7日,大阪空襲のさなか,消火活動を行なう人々。

2020-06-08
ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。
1945年6月8日,大阪空襲の翌朝,十三大橋を通って通勤する人々。

東京・下町を焼野原にした「東京大空襲」

2021-03-10
山谷周辺で亡くなられた方のご遺体のうち、玉姫公園には789体運ばれた  
山谷周辺で亡くなら浅草周辺の屍は、隅田公園へ運ばれ、仮埋葬された(左側が隅田川)
   今でも北部浅草地域で語り継がれているのは、『ほていや』から直線で1㌔強、東京スカイツリーの絶景ポイントでもある「言問橋」の惨状の話だろう。当日、浅草の言問橋西詰(浅草追分)から向島方面へ避難しようとする者と逆に向島から浅草方面へ向おうとする者が橋の上でぶつかり合い、交錯して身動きが取れない状況の中で、そこへ周辺から熱風の火が燃え移り、橋上は大火の炎に包まれ、逃げ場を失った多くの市民が焼死した。この惨状で焼死したおびただしい人間の体の脂が燃え、橋を真っ黒に変色させたという。
 1992年(平成4年)の言問橋改修工事で、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったが、今なお言問橋の親柱などに黒ずんだ第二次世界大戦当時の惨状の跡を確認することが出来る。

 一夜の焼夷弾投下で、罹災者は100万人を超え、10万人が屍になったと推定されているが、一体何人死んだかは未だに分かっていないというのが現実だ。一家全滅どころか、墨田区向島から本所辺りは、全滅状態になった街もあった。たくさんの女性や子どもも亡くなって、故初代林家三平の奥さんである海老名香葉子さんなどのように、戦争孤児になった子供たちもとても多かった。
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