闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
この戦争がなかったら
「わしもよく、伯父さんが言いよったあの言葉を思い出すがや。何のために生まれて、何をして生きるがか。分からんまま終わるらあて、そんながは嫌じゃ。
この戦争がなかったら、わしはもっと法学の道を極めて、腹を空かせた子どもらや、虐げられた女性らを救いたかった。
この戦争がなかったら、いっぺんも優しい言葉を掛けちゃれんかった母さんに親孝行したかった。
この戦争がなかったら、兄貴ともっと何べんも、酒を飲んで語り合いたかった。
この戦争さえなかったら、愛する国のために死ぬより、わしは愛する人のために生きたい!」
自民党の重鎮・野中広務が遺した言葉
「票にもカネにもならぬ仕事に…」元宝塚市長の中川智子が明かす、自民党の重鎮・野中広務が遺した言葉
その夜、私の議員宿舎のドアポケットに、お菓子の袋と「困ったことがあったら何でも相談しなさい」と携帯番号を書いたメモが入っていました。
それから被災者生活再建支援法や、ハンセン病患者の国家賠償訴訟などで相談するたび、親身になって力を貸してくださいました。理由を尋ねると、こう言われました。
「君は、票にもお金にもならない仕事に取り組んでいる。光の当たらない人に手を差し伸べるのが政治家だ。君の応援をしたら、僕もいい仕事ができたと思えるんだよ」
岸信介が獄中でみせていた“意外な姿”
父の遺品に、手のひらに乗る蓋つきの小箱がございます。一見、陶器で出来た、お茶入れのように見えますが、実はみかんの皮で作られたもの。底に「信介作 鴨獄」とありますように、父が自らの手で、監視の目を盗んで、巣鴨の獄にて作ったものです。
なんでも散歩の時間に、庭の片隅でガラスの破片を見つけ、こっそりと房へ、持ち帰ったのだとか。それを刀の代わりにして、食事に出されたみかんを細工したのだと聞いております。
まず、ヘタから1センチほど下を水平に切り、内側を綺麗にくり抜く。次に紙をちぎって水に浸したものを幾重にも貼り付けていったそうです。食事の際、ご飯粒を少しずつ残して、それを練り潰したものを糊にしまして。