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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

最悪のシナリオの幕が上がりました。

2020-11-01
将来を見据えないショーの序章
Facebook佐々木信雄さん投稿
【20th Century Chronicle 1943年(s18)】
◎学徒動員
*1943.6.25/ 閣議が学徒戦時動員体制確立要綱を決定。本土防衛のため学生の軍事訓練と勤労動員が法制化される。
*1943.10.21/ 明治神宮外苑陸上競技場で、出陣学徒壮行会が開催される。
 1943(昭18)年6月25日、「学徒動員」体制が法制化され、本土防衛のため学生の軍事訓練と勤労動員が課せられることになった。戦局悪化による兵力不足のため、朝鮮徴兵・台湾徴兵と並んで、それまで徴兵猶予されていた高等教育機関在籍の学生を在学途中で徴兵し出征させた。従来、兵役法などの規定により高等教育在学の学生は26歳まで徴兵を猶予されていたが、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。
 1943(昭18)年10月1日、東條内閣は在学徴集延期臨時特例を公布し、これにより理工系と教員養成系を除く文科系の在学生の徴兵猶予は撤廃された。この特例により、10月と11月に徴兵検査を実施し合格者を12月に入隊させることとした。「学徒出陣」によって入隊することになった多くの学生は、高学歴者であるという理由から、幹部候補生・見習士官などとして、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。これらの最前線の下級指揮官は、最も戦死の確率が高い立場である。
 この第1回学徒兵入隊を前にした1943(昭18)年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場で、文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集められた前で、東条英機首相直々に訓示を行った。同様の出陣学徒壮行会は各地でも開かれたが、翌年の第2回出陣以降は戦況悪化で壮行会さえ行われなくなった。翌1944(昭19)年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されている。
 死亡した学徒兵達の意思を後世に伝えるため、1947(昭22)年東京大学の戦没学徒兵の手記として『はるかなる山河に』、続く1949(昭24)年にはBC級戦犯処刑者を含む日本全国の戦没学徒兵の遺稿集として『きけ わだつみのこえ』が出版された。これらは、時の政府により学業を中断させられ戦場に出征し、軍隊の不条理や死の恐怖と直面した学徒兵の苦悩や思索が込められており、戦後に生き延びた日本人に強いメッセージを与えた。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.3.2/ ニューギニア戦造園の輸送船団が、ダンピール海峡で米軍機の攻撃により全滅する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.10.21/ 代議士中野正剛が倒閣容疑で検挙され、釈放後、割腹自殺する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。

戦いの代償は、あまりなものでした。

2020-11-01
東京大空襲、そして新型爆弾投下
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幕引きもむ必要でした。

2020-11-01
戦中最後の宰相です。
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勝ったドー

2020-11-01
老兵は死なず、帰ってきました。

従軍記 火野葦平

2020-10-30
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