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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

真珠湾の頃となりました。

2020-12-07
---- 真珠湾攻撃 ---
昭和16年 - 12月8日 (日本時間)
                - 12月7日 (ハワイ時間) ----

1/日本海軍の航空母艦 赤城 - 昭和16年
2/日本海軍 - 第二波空中攻撃隊
3/アメリカ海軍 - 戦艦 ウェストバージニア
             戦艦 テネシー - 戦艦 アリゾナ

4/アメリカ海軍 - 戦艦 ウェストバージニア
                          - 戦艦 テネシー

5/アメリカ海軍 - 戦艦 ネバダ
6/アメリカ海軍 - 戦艦 メリーランド

プラハの春

2020-12-06
ドプチェフ、チャフラフスカ・・・
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1968年(s43)】
◎プラハの春 ソ連・東欧軍が鎮圧
*1968.8.20/ チェコの改革に対して、ソ連軍が介入する。(プラハの春 鎮圧)
 1月、チェコ・スロヴァキア共産党第一書記にドプチェクが就任すると、次々と改革自由化政策を推進した。4月には「人間の顔をした社会主義」を目指す新しい共産党行動綱領を決定した。
 この一連の自由化の動きは、のちに「プラハの春」と呼ばれることになるが、8月20日、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が軍事侵攻することで鎮圧された。そして本格的な自由化は、1989年の「ビロード革命」にまで持ち越されることになった。
 前回の東京五輪で「体操の花」と歌われたベラ・チャスラフスカは、この10月のメキシコ五輪への参加が危ぶまれたが、不足した準備にもかかわらず渾身の演技をした。ほとんどの個人種目に優勝、唯一銀に終った平均台の表彰台では、掲揚されるソ連国旗から顔を背け抗議の意を示した。
「平均台の表彰式/1:20ぐらいより」 https://www.youtube.com/watch?v=SyYMcLwKreo
(この年の出来事)
*1968.1.30/ 南ベトナム全土で解放勢力が大攻勢、テト攻勢を開始する。
*1968.10.8/ 阪神タイガースの江夏豊投手が、シーズン奪三振385の世界記録を達成、最終401を記録する。
*1968.10.12/ 第19回オリンピック メキシコ大会が開催される。

改革開放へ

2020-12-02
勝利者の二人
現実派の周恩来や鄧小平
Facebook佐々木信雄さんの投稿
1970年代に入ると、内戦状態にともなう経済活動の停滞によって、国内の疲弊はピークに達していたが、そのころ、文革を主導してきた林彪が毛沢東と対立するようになり、1971年9月には林彪による毛沢東暗殺計画が発覚し、林彪一派は飛行機で国外逃亡を試みるも事故死する(林彪事件)。
 林彪の死後、ずっと調整の立場を続けていた周恩来の実権が強くなり、また1973年には鄧小平が復活する。知識人たちの多くも都市に戻ってきて、文革は下火に向いつつあった。しかしその後も、毛に直結して文革を推進してきた毛沢東夫人「江青」ら急進原理派の「四人組」は、現実派の周恩来や鄧小平の打倒を進めた。
 1976年1月8日には、文革派と実権派のあいだにあって両者を調停してきた周恩来が死去した。その周恩来の追悼を切っ掛けに「四五天安門事件(第一次天安門事件)」が発生し、混乱に乗じて四人組は鄧小平を再び失脚させるが、続いて同年1976年9月9日に毛沢東までも死去する。政権を引き継いだ華国鋒国務院総理により、10月6日、後ろ盾を失った四人組は逮捕される。
 翌1977年7月、失脚していた鄧小平が復活し、同年8月、中国共産党は第11回大会で、四人組粉砕をもって文化大革命は勝利のうちに終結したと宣言した。毛沢東色を残す華国鋒に代わって、不死鳥のように何度も復権した鄧小平が実権を握り、文革で破壊的な状況となった国内の復興をはかり、対外的な関係も修復してゆくこととなった。

一冊の本

2020-12-02
『毛沢東語録』

内戦としての文化大革命

2020-12-02
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