本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜

2022-04-03


Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1943(s18)年】-1
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
*1943.4.18/ 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜され戦死する。
 1943(昭18)年3月中旬、ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨ぐべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第3艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し、敵の戦線を攪乱する目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。
 1943(昭18)年4月18日、山本機がブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して1ヵ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。
Facebook 福田誠  さん曰く

1943年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将、ブーゲンビル上空で、P-38戦闘機16機の待ち伏せ攻撃にあい戦死。
この時護衛の零戦はわずか6機、暗号解読により山本長官が来るのを知っていたアメリカ軍は、零戦との戦いを避け一式陸攻を狙ったという。
戦艦武蔵から東京駅に 帰着した山本長官の遺骨
山本長官の葬列

◎日米開戦

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-3
◎日米開戦
*1941.7.25/ 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
*1941.8.1/ ルーズベルト大統領が、対日石油輸出を全面禁止とする。
*1941.11.26/ ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
*1941.12.8/ 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。
 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。
 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。
 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第2次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻していたにもかかわらず、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第3次近衛内閣を組閣する。
 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を10月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否される。戦争の決断を迫られた近衛は、妥協策による交渉に道を求めたが、東条英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。
 18日東条内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東条を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東条も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。
 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。
 日米交渉決裂の結果、東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた(マレー作戦)。
 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された(真珠湾攻撃)。
(追記2022/01/22)
 ハルノートの事実上の起草者は財務次官のハリー・ホワイトで、彼は戦後ソ連のスパイとして告発されて自殺している。ルーズベルトの周囲にはスターリン指揮下のコミンテルンのスパイが張り巡らされており。ルーズベルト自体が、容共主義者でレイシストだった。かくして彼をして、日米開戦を推進する状況が整っていた。
 一方で、日本の近衛首相も公家の血を引きながら、「貧乏物語」で有名な社会主義者 河上肇に学ぶため京都帝大に転学するなど、社会主義的な思想に馴染んでおり、首相となった近衛の周囲には、やがてゾルゲ事件で死刑となる尾崎秀実や、戦後は社会党顧問になった社会主義者 風見章など、コミンテルンの息のかかったスパイが内閣の中枢に絡んでいた。
 スターリンは、ヒトラードイツの侵略を想定しており、東方の満州を支配している日本と対立しないために、日ソ中立条約を結び、さらに日本を南進させる工作を、ゾルゲなどを通じて進めていた。他方で、アメリカにも日米開戦に向けさせるようにルーズベルト周辺に工作員を侍らせた。
 かくして、真珠湾攻撃の情報を得ながら、無視して攻撃させたルーズベルトは、日米開戦にこぎ着け、さらに念願のヨ-ロッパ戦線に参画するのに成功した。そして、東方戦線の憂慮を消すのに成功したスターリンは、すべての戦力をナチスドイツとの西部戦線に投入できたわけだ。
 スターリンの指揮下のコミンテルン恐るべし、という話が、ソ連崩壊やソ連の戦時中の暗号電信を解読したヴェノナ文書などで、徐々に明らかになりつつあるようである。
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。

◎ゾルゲ事件

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-2
◎ゾルゲ事件
*1941.10.15/ 国際スパイ容疑で、尾崎秀美(ほつみ)が検挙される。18日、独新聞特派員リヒャルト・ゾルゲも検挙される。(ゾルゲ事件)
 ドイツ紙の記者として東京に在住していたゾルゲを頂点として、数多くのソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動をしていたことが判明、1941(昭16)年9月から1942(昭17)年4月にかけてその構成員が逮捕された。当初、特別高等警察はアメリカ共産党党員である宮城与徳および北林トモたちの周辺を内偵していたが、10月10日に宮城が逮捕され数多くの証拠品が見つかると、はじめてその事件の重要性が認識された。
 宮城は取調べの際に自殺を図り失敗すると、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどの大物がスパイであることが判明する。ゾルゲは独有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員かつナチス党員という肩書で日本に赴き、駐日ドイツ大使オイゲン・オットーや大使館付将校ヨーゼフ・マイジンガーらからも信頼を得ていた。
 また尾崎秀美は、元朝日新聞社記者で、近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界・軍部に深く関わっており、日中戦争から太平洋戦争開戦直前まで、政府の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えていた。尾崎はゾルゲとともに処刑されるが、戦後、尾崎秀実をモデルに「愛は降る星のかなたに」というタイトルで映画化され、さらに獄中の尾崎から妻子に宛てた書簡集「愛情はふる星のごとく」」が出版されベストセラーとなった。http://www.nikkatsu.com/movie/20157.html
 また、尾崎のコードネームは「オットー」とされ、劇作家木下順二により「オットーと呼ばれる日本人」として戯曲化されている。左翼系の新劇劇団「劇団民藝」や「前進座」で何度も上演されているが、あの「夕鶴」の作家木下順二が共産党シンパであったことは初めて知った。さらに、文芸評論家尾崎秀樹は秀美の異母弟にあたり、「生きているユダ わが戦後への証言」」を著し、ゾルゲ事件への独自の考察を行っている。
 事件捜査では、ドイツ人・ロシア人などの多くの在日外国人が容疑者や参考人として事情聴取され、日本側にも多くの有力者が含まれていた。また、ドイツ大使オットーや、親衛隊将校で「ワルシャワの屠殺人」と呼ばれたマイジンガーまでもが、ゾルゲを信用しきっており日本側の捜査に異を唱えた。裁判では、ゾルゲ、尾崎が死刑、合計20名が無期懲役など有罪判決を受け、1944(昭19)年11月7日のロシア革命記念日に両人の死刑が執行された。
 日ソ中立条約が結ばれ、一方で独ソ戦が開始される時期に、このような大規模のスパイ組織が暗躍していたことは、日本政府や軍にとっても衝撃であった。日本のちぐはぐな外交は、目に見えない裏側で、このような情報戦に翻弄されていたわけである。 
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。
佐々木 信雄さん曰く
ゾルゲ事件は、太平洋戦争勃発の直前に摘発されたので、曖昧なまま処理された。日米開戦そのものが、スターリンの工作で実現されたことは、戦後になってやっと明かになってきた。
処分されたゾルゲや近衛のブレーン尾崎秀実だけでなく、内閣書記官長(官房長官相当)・司法大臣などを務め、戦後も社会党の重鎮となった風見章、最後の元老西園寺公望の孫西園寺公一なども実質スパイで、さらに追及すれば首相近衛文麿にも及んだはず。
そんなソ連傀儡政権のもと、いざ日米開戦となると、ポイっと政権を投げ出されたのがヘタレ軍事官僚東条英機、あとは軍部が勝手に動くアノミー世界なのだ(笑)

◎日ソ中立条約

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-1
◎日ソ中立条約
*1941.4.13/ 日ソ中立条約が調印される
 1936(昭11)年、日本は「日独防共協定」を結び、満州国北部国境の脅威となるソ連を牽制することにしたが、1939(昭14)年、ドイツは日本への通知なく「独ソ不可侵条約」を締結し、すぐにポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始められた。ソ連囲い込みを意図した防共協定は事実上の意味を失い、1940(昭15)年、より明確な同盟関係の「日独伊三国軍事同盟」を締結した。
 ヨーロッパで快進撃をするドイツに乗り遅れるなと、三国同盟で意を強くした日本は南進を始め、英米との対立関係が顕著となっていた。松岡洋右が外務大臣に就任すると、日独伊ソ四国による「ユーラシア枢軸」を構想し、三国軍事同盟に続き、「日ソ中立条約」でソ連を枢軸国側に引き入れることを目指した(「日独伊ソ四国同盟構想」)。
 妄想に近い構想であるが、松岡自身はこのユーラシア枢軸によって、国力に勝るアメリカに対抗できると考えた。ソ連側は相手にしなかったが、まもなく「ドイツの対ソ侵攻計画」を察知したことで、対独戦に専念できるように、松岡構想と違う狙いで日本の提案を受諾し、1941年4月13日モスクワで調印した。
 ヒトラーは三国同盟締結時にすでにソ連侵攻を決めており、状況を読み違えた松岡の日独伊ソ四国同盟構想などはあり得ないことであった。しかしソ連は日ソ中立条約によって極東の部隊を西部へ移動させることができ、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した結果モスクワは防衛された。
 ヒトラーは日本への通知なく独ソ戦を開始しており、ソ連を甘く見ると同時に、日本の役割を軽視した。もし日ソ中立条約を結ばせず、ソ連の兵力を東西に分散させたままならば、ソ連を崩壊させられたかも知れない。また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡に、ドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告していたという。
 日本にとって意味のない日ソ中立条約であったが、敗戦ぎりぎりまで日本が頼りにしたのもこの条約であった。日本側は条約の有効期間がまだ残っているとして、ソ連の仲介による和平工作を期待している。しかしヤルタ会談において、秘密裏にソ連の対日参戦が約束されており、ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。
 ドイツに軽視されソ連に裏切られたなどと、国家間の情報戦で恨みごとを言っても始まらない。戦闘以前に「情報戦」ですでに敗北していたのであり、この年の10月には「ゾルゲ事件」の摘発が始まったが、露見したのは諜報活動のごく一部に過ぎない。友邦ドイツにも仮想敵国の共産ソ連にも、日本の機密情報は漏れ漏れであり、まもなく全面戦争に入るアメリカにも、言うまでもなく情報戦で完全敗北していたのであった。
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。

征露から正露へ・・・。

2022-03-20
どっこい生きてる、征露丸・・・。 どちらかへ贈ってあけたいような・・・。
TOPへ戻る