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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎社会党 浅沼委員長暗殺

2022-05-12

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1960(s35)年】-4
◎社会党 浅沼委員長暗殺
*1960.10.12/ 浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂での党首演説会で、右翼少年に刺殺される。
 1960(s35)年10月12日、東京都千代田区の日比谷公会堂で、解散・総選挙が行われる情勢のもと、自民・社会・民社の3党首立会演説会が開かれた。民社党委員長西尾末広の演説が済んだあと、午後3時頃、社会党の浅沼稲次郎委員長が演壇に立ち、「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。会場には右翼団体が多く集まっており、激しい野次を飛ばして会場は異様な雰囲気が立ち込めた。
 司会が静粛を求めいったん野次が収まると、それを見計らって浅沼は、自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。その時、暴漢が壇上に駆け上り、刃渡り30cmほどの脇差で浅沼の左脇腹を深く突き刺し、浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れた。浅沼はただちに病院に運ばれたが、ほぼ即死状態だった。ニュースなどで、事件の生々しい様子の映像が流され、日本中にショックを与えた。
 取り押さえられた犯人は、17歳の右翼少年山口二矢であった。山口は、赤尾敏率いる右翼団体「大日本愛国党」の青年本部員であったが、この年の5月に脱会している。逮捕後の供述で、赤尾の関与を完全否定し、迷惑を掛けない為に脱会し、一人で実行したと証言している。山口は取調べに対し理路整然と受け答えしていたが、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、シーツで首を吊って自殺した。
 大日本愛国党関連では、翌1961(36)年2月1日の「嶋中事件(風流夢譚事件)」でも、同党に所属していた17歳の少年小森一孝が、中央公論社社長宅を襲い、社長夫人と家政婦に死傷を負わすテロ事件を起こしている。少年は党に累を及ぼさないため、事件当日に離党届を出して犯行に及んだ。大日本愛国党の党首赤尾敏は、両事件で事情聴取を受けたが、嫌疑不十分で釈放されている。
(この年の出来事)
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。

◎スエズ動乱/第2次中東戦争

2022-04-30

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1956(s31)年】-4
◎スエズ動乱/第2次中東戦争
*1956.10.29/ イスラエル軍がエジプトに侵攻し、スエズ戦争始まる。(スエズ動乱/第2次中東戦争)
 1869年、スエズ運河は、フランスの外交官だったフェルディナンド・マリー・レセップスの尽力により開通した。運河が開通すれば、ヨーロッパからアジアへいたる航路は、これまでのインド航路(アフリカ南端の喜望峰を回る)より40%も短縮され、ヨーロッパ諸国にとってきわめて利益の大きい運河計画であった。しかし、インド植民政策でもっとも利益を受けるはずのイギリスは、従来の独占的なインド航路の利益が脅かされるとして、反対し妨害工作さえした。
 レセップスは、エジプト太守の認可を受けて、万国スエズ運河株式会社(国際運河会社)を設立、スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかし、この建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡され、エジプトはイギリスの保護国となった。そして、運河はイギリスにとってインド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点となり、その重要性は後の2つの世界大戦によっても証明された。
 スエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、イギリス軍はスエズ運河に軍隊を駐留させ、運河を実質的な管理下においた。一方エジプトでは、軍事クーデターが起こり共和制に移行、さらにナセルが大統領になると第三世界のリーダーの一人として、植民地主義を捨てられない西側に対抗するため、東側ソ連に近づく。こうした中、7月26日に、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言して、スエズ運河に利権を持つ英仏と対立することになった。
 スエズ運河に深く利害を持つ英仏は、シナイ半島やスエズに食い込むことを狙うイスラエルを巻き込み、10月29日、イスラエルがシナイ半島に侵攻、英仏が空軍で支援する形で戦端は開かれた。圧倒的な近代化部隊で、英仏イスラエル連合はスエズ運河直前にまで迫り、エジプトの降伏が間近に迫ったとき、両陣営の背後で冷戦で対立する米ソが、互いに前面に出ることをさけるために調停に乗り出し、国連総会で即時停戦を求める決議が採択された。
 結果、得ることのなかった英仏及びイスラエルに対して、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した上に、ナセルは英仏イスラエルと正面から戦ったことから、中東での発言力を確固たるものとした。さらにナセルは、国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し、エジプト主権のもとスエズ運河の通航を再開した。
 なおこの時、当方は小学2年生、世界の出来事には無縁な学童に過ぎなかったが、「スエズ動乱」という言葉はかすかに記憶されている。朝鮮戦争はまったく記憶にないので、遠くの世界では戦争というものが起きているのだなと思った最初の経験であった。
(この年の出来事)
*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。
*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)
*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

◎フルシチョフがスターリン批判

2022-04-29

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1956(s31)年】-2
◎フルシチョフがスターリン批判
*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。
 1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議であったが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝・独裁政治・粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。
 ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。
 10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。
 一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。
 日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。
 1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。
 1997年のモスクワ放送は、「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したとされる。
(この年の出来事)
*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。
*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)
*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

【速報】白い軍服姿の金正恩総書記が演説 昨夜 北朝鮮が軍事パレード

2022-04-26
© FNNプライムオンライン
FNNプライムオンライン 2022/04/26 14:51

北朝鮮は25日夜、「朝鮮人民革命軍」の創設90年を記念した軍事パレードを行い、金正恩(キム・ジョンウン)総書記が演説した。

26日付の労働新聞は、25日夜、平壌(ピョンヤン)の金日成(キム・イルソン)広場で行われた軍事パレードについて、150枚余りの写真とともに伝えた。

写真では、北朝鮮が3月、試験発射に成功したと主張する、ICBM(大陸間弾道ミサイル)「火星17」型や、極超音速滑空体ミサイル「火星8」型など、さまざまな兵器が確認できる。

白い軍服姿で出席した金総書記は、演説で「われわれが保有する核武力をできる限り速く、さらに強化させる」としたうえで、核兵器を実戦で使用する可能性も示唆した。

軍事力を誇示することで、現在、合同で軍事演習を進めているアメリカと韓国をけん制する狙いもあるもよう。

伝説の女性スナイパー 自ら“死亡報道”否定…明かす本音「平和な世界好き」

2022-04-21
これじゃ丸見え、狙撃手が標的になってしまう・・・のでは・・・?

Facebook テレ朝news さん曰く


【独自】伝説の女性スナイパー 自ら“死亡報道”否定…明かす本音「平和な世界好き」
ロシアメディア「SM NEWS」:「ロシア軍は、ウクライナの女性スナイパー、オレナ・ビロゼルスカを殺害した」
ロシアメディアのこの報道。実際には、オレナさんは生きていて、ロシア側のニセ情報、いわゆる“フェイクニュース”だったことが分かっています。
オレナさんとの接触に成功しました。
▼迷彩柄の帽子をかぶり、緑色の洋服に身を包む女性、彼女こそが、ウクライナの“伝説のスナイパー”オレナさんです。

スナイパーは、昔は、こんな世界の存在だっような・・・
1968.9.3~1969.3.25 
光あるところに影が…で始まるナレーションが有名な、忍者マンガの第一人者白土三平の画風を忠実に再現した傑作。
 一連の白土作品と同様に、登場する数々の忍術の解説もリアリティを与えている。 
サスケの声を充てた少年落語家雷門ケン坊の個性的な演技も印象的だった。

サスケ(キングレコード・オリジナルバージョン)

サスケ 1話

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