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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

現生ということ

2020-08-25
 
760
現成です。現生の益であって、未来というようなものではない。未来ということと区別している。未来というのは願望、理想あるいは要請という。そういうものではない。それはもと(本)を探ると『観無量寿経』の真身観の「光明遍照十方世界 念仏衆生 摂取不捨」に基づく言葉です。念仏する衆生を摂取して捨てないと書いてあります。

願往生心

2020-08-10

746
だから、社会主義というのも共産主義というのも何もないところに出てきたのではない。
根底に願往生心というものがあるのです。
根底に願往生心というものがなければ社会主義とか共産主義が出てくるはずがないのです。
その彼らが宗教を否定するのは、いわゆる反動宗教を否定するのです。
つまり封建制度や資本主義の御用教学を否定しているわけです。

「易往而無人」の人が無いということ

2020-08-14

749
親鸞は、「易往而無人」の人が無いということを、真実信心の人は有り難いと言うのです。有ることが難いと。人間は易往の大道の本願の中にいるのだけれども、にもかかわらず目覚める人がないと。救いはあるけれども自覚がない。だからそれは非常に稀だと書いてある。

自然(じねん)の道理

2020-07-31

736
(易往)無人という意味は、これは面白いことです。易往の道が無くて人が無いというなら、それは無理もないことです、けれども易往なのです。自然(じねん)の世界の中に、つまり無為自然の本願、自然の道理の中に人間は置かれているのです。ただ、置かれていながら、自然の道理に目覚めない。


737
自然(じねん)の道理が、無いのではない。自然の道理の中にありながら、しかもそれに目覚めない。そういう大きな問題です。そこに信仰問題があるわけです。自然の道理も何も無いのに目覚めないというなら、これはえらい気の毒というようなことになるけれども、そうではない。自然の道理の中におりながら、それに目覚めようとしないのです。そこに固執があるでしょう。目覚めさせないのは我執でしょう。主観を手放そうとしないのです。

人が有るか無いか

2020-07-28

732
「人が有るか無いか」。こういうことは仏教の話のようだけれども、現代資本主義でもそうではないかね。人がいないでしょう。人がおれないような機構になっているでしょう。こういうところに大きな問題があるわけです。


733
現代資本主義においては社会的な階級ということがあるけれども、やはり階級の中にも「人」はいない。階級の中に人間はおらず、階級的英雄がいるわけです。階級的英雄は独裁の英雄ではないでしょうか。そこには個としての人はいない。絶対自由の人間はいない。けれども階級に功績があるのは、わがままな意味の主観的自由を破るところに、非常に厳粛な意味があるのです。

734

つまり言ってみれば「マイホーム」です。資本主義のエゴイズムです。うちの家庭だけが平和になればあとは知らん顔しているという、そういうような個人的自由主義を破るところに、社会的階級というものがひとつの大きな力をもっている。しかしながらその階級のなかに個人はないのです。

 

 

 

735
社会的階級というものは、一応、個人的な自由、エゴ、主観というものを破る意味はある。けれども、主観ではないところの積極的な自由を与える意味は持っていないのです。人は、そういう現実の問題にみな触れているのです。

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