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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

カルビンについて

2020-09-17
FacebookYasuda Rizinより

 

783
そういう意味で、こんにち皆さん知っておられるように、資本主義社会というようなもの、資本主義社会は「儲け」ですわね。金儲けです。つまり経済的人間の社会ですわね。だからして、それは苦しかった。金を儲けるということは悪やと。それをどうして、金を儲けることをできるようにするかと言えば、それは神への奉仕だというような、そういうようなことをやったのがカルビンですわね。

菩提心

2020-09-08
774
だからして、仏教学といっても全体が世間学なんだ。菩提心に立たんというなら、どういうことになるかというと、名利になる。なぜ世智をきらうかというと名利だからです。つまり、名利でもないし菩提心でもないというような、そういう立場はないのです。
773
それは何かというと、仏教を知らずに、仏教の外から、世間という立場から仏教を取り扱う。こういうのは、取り扱われとるものは仏教だけれど、取り扱っている立場は仏教じゃない。つまり菩提心というもの、宗教心というようなものに立たない学問です。それを世智という。
 
772
関する学とアビダルマとの区別。やっぱり、それ自身一つの経典であるというような意味をもっとるのは、厳密な意味の仏教学なんだ。仏教に関する学ではない。「仏道を学する」という意味の学ですね。それがアビダルマという概念でしょう。
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。

本多弘之「「願に生きる」ということ」

2020-09-08
[9月HP更新] 本日は本多所長書下ろしコラム「濁朗清風」をお届け!
■本多弘之「「願に生きる」ということ」(3)
親鸞による本願の受け止めとしての信心は、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(聖典430頁)に、見事に結実している。その背景には、『教行信証』「信巻」の厳密な内省的考察があることは言をまたない。真実信心の発起する根本原因を、第十八願にあると見定めた親鸞は、それに対応する機の願(第十九・二十願)によって、「化身土巻」の内容を考察していかれた。その発想の気づきは、願自身を表現している「言葉」の重視とその熟察からきていると思われる。

大乗仏教ということ

2020-09-07
安田理深先生のことば
631
真実ばかりあるのは仏教では小乗仏教というのです。
大乗には方便がある。
方便回向ということがある。
大乗仏教の大という字は方便から出てくるのです。
大乗教学というのは方便教学です。
それが非常に大きな特色ではないかね。
小乗は方便がないのです。
小乗は真実しかないから小乗なのです。


632
方便か無いというと真理が痩せ細ってしまうのです。
真実から方便を生み出して、その方便によって真実を成就すると。
そういうときに真実が広がってくるのです。
方便という思想が大乗仏教だと思うのです。
巧方便回向と。
その方便というものを最も純粋な形で示したのが回向です。
巧方便というのは善巧方便
回向です。
善巧方便の働きが回向です。

633
『願生偈』のうしろのほうに五念門というものが述べてあるのです。
智慧、慈悲、方便というようなことがあるのです。
智慧と慈悲と方便です。
普通は智慧と慈悲で終わってしまうのでしょう。
あらゆる教学は智慧と慈悲です。
その智慧と慈悲とにもう一つ、方便というものを加えて、智慧、慈悲、方便と。
これが『浄土論』というものの非常に大事な点ではないかと思います。
普通は慈悲と方便とは一つにして智慧と慈悲で二つだと。
こういうのが普通の考え方です。
そうではないのです。
三門に分けてくるのです。

暁烏敏師のことば

2020-09-03
光華学園 平成22年8月のことば

今月のことば

危ぶむなかれ 行けば わかるよ

石川県白山市にある明達寺(みょうたつじ)という真宗大谷派の寺院のご住職で、清沢哲夫という方(故人)がおられます。清沢哲夫氏は、仏教の近代化に大きく貢献された清沢満之(きよざわ まんし)先生(大谷大学初代学長)の孫として生まれ、清沢満之先生の弟子にあたる暁烏敏(あけがらす はや)先生のお寺(明達寺)を継がれた方です。この清沢哲夫氏の著書『無常断章』に次のような詩が掲載されています。
「道」
此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ
危ぶめば 道はなし
ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である
わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ
(昭和二十六年十月『同帰』所載)

皆さんこの詩を聞かれたことはございませんか。「聞いたことがあるような気がする」という方も結構おられるのではないでしょうか。実は、プロレスラーとして有名なアントニオ猪木さんが引退式のときに詠まれたのがこの詩です。この詩を初めて聞いた時、すごく力強い詩だなという印象を持つ一方、何か自信がなく、日々を不安に思いながら生きている自分に対して、温かく包みこみ、励ましてくれるような印象を持ったことを覚えています。今月は、真宗の宗教者である清沢哲夫氏が「道」という詩に込められた思いを、蓮如聖人御一代記聞書から考えてみたいと思います。
御一代記の155項に「仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」という一文があります。これは言い換えると「仏法は今にて候」ということでしょうか。この「今」とは哲学的には、今は終わるときにわかり、終わるということは今がわかることでもあると捉えます。すなわち「仏法は今にて候」とは、「終わってみないと今が正しいかどうかなんてわからないのだから、今この瞬間をいかに大切にするかが大事なのですよ」という教えではないでしょうか。また、御一代記は次のように続きます。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり」。すなわち「私たちの心を奪い、心を乱す色々な誘惑や困難がある人生の中で、自ら仏法を求めて仏に出遇う人にこそ、金剛の信心が与えられるのである」と説いておられます。   このように考えますと、「道」という詩には、「人生は、悩み迷い、困難の連続であるが、それはあなただけのことではありませんよ。結果なんて誰にもわかりません。終わってみて始めて良かった、失敗したとわかるのです。だからこそ、その生を生きる「今」を受け入れ、自らを大切にし、しっかりと今を生きていきましょう」という願いが込められているのではないでしょうか。(宗)

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