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蓮如さん

教団の歴史

平尾御坊願證寺

2022-12-04

平尾御坊願證寺は、永正年間(1504~1521)に本願寺8世蓮如上人の六男蓮淳法印が勢州長島(現在の三重県桑名郡長島町)に開基したのが始まりです。 天文4年(1535)4月蓮淳法印は石山本願寺に移り、外孫にあたる證

如上人の後見役、補佐職として終生本願寺に留まり、石山本願寺初期の最大の実力者となったと言われています。

永禄3年(1560)11月21日正親町天皇より院家を勅許され、寺格・格式・上納高等益々興隆を窮めたとあります。 

「本願寺第8世住職」を継職

2023-01-24
facebook 衆徒の終活さん曰く
「真宗再興の志」を「形」に!!
蓮如上人は、43歳の時、「本願寺第8世住職」を継職されます。
継職当初より「本願寺の宗義」に馴染まない種々の「仏像」や「本尊」、「絵像」、「経巻」などを処分され、「帰依処(阿弥陀如来の本願)」を明確にされます。
御流にそむき候う本尊以下、
御風呂のたびごとに、焼かせられ候う。
(『蓮如上人御一代記聞書』二二三)
また、「護摩壇」を取り除き、「聞法(お聴聞)の場」である「外陣」を広く取られ、「加持祈祷仏教との決別」も明確にされます。
さらに、それまでの「天台の勤行」を「正信偈」と「和讃」に改められ、しかも、門徒と共に唱和できる「現在の日常勤行の形」にもなさったのです。
このことは、「祈りの読経」から「聞法の勤行」への変革でもありました。
こうして、蓮如上人は、15歳の時に立てられた「真宗再興の志」を「形」になさったのです。
野津又での逗留時においても、「聖人一流(本来の念仏の姿)を取り戻そうとする姿」がなければなりません。
そうした「蓮如上人の姿」を補足したのが、電子書籍化中の「蓮如上人御旧跡縁起(令和のお味わい)」であります。

一月二十五日は 法然上人(1212年)のご命日です 蓮如上人(1499年)のご命日です

2023-01-25
和田山 本覚寺 - 法然上人御影像(蓮如上人裏書)
室町・明応2年(1493)三狭間の礼盤上の上畳に趺座する。像容としては「足曳御影」や「鏡御影」を引き継ぐ通形のすがたで、墨染の衣を着け、首を左方に傾げて両手で念珠を持つ。蓮如上人による明応2年の裏書から、蓮如上人の信念が厚かった本覚寺の蓮恵に下付された。『選択本願念仏集』総結の文を墨書した讃銘も蓮如上人の筆とされる。真宗系の法然上人像としては比較的保存状態がよく、貴重な遺品である。
一月二十五日は
法然上人(1212年)のご命日です
蓮如上人(1499年)のご命日です
★本師源空命終時
建暦第二壬申歳(けんりゃくだいににんしんさい)
初春下旬第五日
浄土に還帰せしめけり
法然房源空上人は、はじめ比叡山で聖道門の修行をされ、智慧の法然房といわれたほど学識豊かな方ですが、阿弥陀仏の本願に帰してからは、他のすべての行を捨て、念仏一筋に生きられました。
京東山の吉水に草庵を結び、多くの弟子を導きました。
親鸞聖人は建仁元年の春、その門に入り、生涯師上人を、阿弥陀仏の生まれ代わり、勢至菩薩の化身と仰がれました。
建暦二年一月二十五日、法然上人八十歳でお浄土へ還られました。
この日が真宗同行の念仏集会の初めとなりました。
東本願寺の法統

中興の偉業

参詣する人もない寒々とした状態の大谷の本願寺の一隅で産声が上がりました。御一代で本願寺教団を日本一にされた蓮如上人(1415?1499)の御誕生です。
幼くして御生母と生き別れられた蓮如上人は大変な御苦労と御苦学の末、親鸞聖人御一流の御法義を修められました。この結果、み教えは、上人の人格の高みを感じさせながらも誰にでもわかるやさしいものとなったのです。
父、存如上人の後を受け42歳で本願寺住職となられた蓮如上人が、近江地方に布教にまわられるとお念仏の教えは、りょう原の火のごとく瞬く間に当時の民衆にひろがり、大谷の本願寺には参詣者が引きも切らず訪れるようになりました。
しかし、あまりにも爆発的にその教えが広まったために他の宗派から反感を買い、様々な迫害を受けるようにもなりました。そしてとうとう比叡山の衆徒により大谷の本願寺は跡形もなく破壊されてしまったのです。これを「大谷破却」といいます。
けれどもこんな事では蓮如上人の布教への情熱を止めることはできませんでした。
親鸞聖人の御真影を南近江にお移しし、今度はお念仏のみ教えを簡潔にまとめた『御文』(おふみ)というお手紙を数多く書かれたのです。
それが蓮如上人に代わって四方八方に広がって、お念仏の声が各地に轟くようになったのです。
しかし蓮如上人の活躍を快く思わない人たちから様々な妨害を受けるようになり、蓮如上人は争いを避け布教の新天地を求るため一路北を目指し旅立たれたのでした。

本願寺再建

北陸に入られた蓮如上人は吉崎というところに落ち着かれ、北陸の人々に布教されました。 するとわずか一年で近くの越前・加賀は言うに及ばず奥州・出羽にまでお念仏の教えが弘まって、蓮如上人に会いたいという人々で吉崎は大変な賑わいとなり、大谷の本願寺以上の参詣者が集まるようになりました。
けれども、蓮如上人は南近江に預けたままになっている親鸞聖人の御真影を御安置する本堂を建てたいと思い続けておられました。
その思いを実現するため北陸の地を離れ、京都の隣、山科の地に本願寺を再建し御真影をお迎えしました。
その年の親鸞聖人の御命日には盛大な報恩講をお勤めし、お念仏の声高らかに大勢の御同行と一緒に本願寺の再建を親鸞聖人に御報告されました。
やっと念願の本願寺再建を果たされた蓮如上人は関西の各地を布教に歩かれ、所々に坊舎をお建てになりました。
中でも大阪の石山というところに隠居所として建てられた坊舎は、後に荒れ狂う歴史の荒波に飲み込まれることとなるのです。そう、天下大乱の足音はもうすぐそこまで迫っていたのです。

蓮如像

2021-04-04
和歌山県立博物館

江戸時代後期/1823
紙本著色
縦70.0cm,横48.0cm
1幅

 浄土真宗本願寺第8世の蓮如(1415~99)は門弟に、親鸞と蓮如の連座像や自身の寿像を与え、勢力の拡大を図っているが、連座像としては京都・西法寺本や西本願寺本など、単独像としては、大阪・光善寺本や慈願寺本などが知られる。
当館所蔵のこの資料は単独の肖像で、裏書によると、文政6年(1823)に西本願寺第19世・本如(1778~1826)が、真宗興正寺派の末寺であった長門国阿武郡萩(現・萩市)の清光寺に与えたものである。
面容や左手のみに数珠を持つ点など、上述した事例とはやや異なる点がみられる。
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