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蓮如さん

教団の歴史

本證寺・空誓上人のわかりやすい解説

2023-02-13
本證寺住職は空誓上人(くうせいしょうにん)
本證寺住職は空誓上人(くうせいしょうにん)で、本願寺蓮如の曾孫にあたる。 生没年は不詳。
1562年、加賀一向一揆に参加していた本證寺9代玄海が討死したため、空誓は近江・堅田の慈敬寺から本證寺に移った。
三河一向一揆(みかわいっこういっき

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代の1563年~1564年まで約6ヶ月間にわたり行われた一向一揆である。
できる限りわかりやすく解説したい。

1560年、桶狭間の戦い今川義元が討死すると三河・岡崎城に徳川家康(松平元康)が復帰。
1561年、松平元康(徳川家康)は松平好景酒井忠尚らを率い、吉良義昭との間で善明堤の戦いとなり、藤波畷の戦いにて吉良義昭の排除に成功。

1563年、本證寺に侵入した無法者(坊主)を三河・西尾城の酒井正親(松平家の家臣)が捕縛したため、守護使不入の特権を侵害されたとして一揆になったとある。(諸説あり)
中心勢力は、三河三ヶ寺(宮寺・本証寺・勝鬘寺)と本宗寺、一揆に呼応した三河守護家である吉良義昭、そのほか荒川義広(吉良持清の子)、尾張・品野城だった松平家次、松平信次、松平昌久などであった。
松平元康(徳川家康)の家臣の一部にも本願寺門徒がおり、松平家から離反して一向宗に味方して寺院に立て籠もった。 

三河一向一揆に味方した松平家の家臣としては下記のメンバーなどがいる。
渡邊高綱、渡邊守綱、酒井忠尚、夏目吉信(夏目広次)(夏目漱石の子孫)、鳥居忠広(鳥居元忠の弟)・内藤清長(内藤家長の父)・加藤教明(加藤嘉明の父)・石川康正(石川数正の父)・高木広正・本多正信・本多正重・蜂屋貞次・榊原清政(榊原康政の兄)・大原惟宗・矢田作十郎・久世長宣・筧助太夫など。 

ふるさと紹介~武藤 佳子 さん 行順寺 報恩水道~

2023-01-28
田代俊孝先生は、行順寺の前住職様です。
facebook 田代俊孝さんのコメント
今では、田舎の過疎地のさびれた村の寺です。
滋賀県から鈴鹿山系の竜ヶ岳を超え、自坊の村を通り、岐阜県の南部を通り、尾張、三河ヘ行く間道があります。東海道の裏道です。近くの峠の国境には番所跡があります。従って歴史は古いです。蓮如上人も比叡山に追われていますので裏道を通られたのでしょう。
「伊勢の空賢」の寺です。

国宝勝興寺の魅力体感 

2022-11-14
富山新聞文化センター、12月17日に特別講座 「金の間」や内陣の特別拝観 
2022/11/13 05:00

 ●建立の歴史と平成の大修理学ぶ

 富山新聞文化センターの「『国宝』勝興寺 特別講座~建立の歴史と平成の大修理を学ぶ」は12月17日、高岡市伏木古国府の勝興寺で開催される。国宝に指定される本堂や大広間・式台をはじめ、通常は非公開の奥書院「金の間」や本堂の内陣の特別拝観もあり、23年間に及ぶ大修理を経て往時の姿が蘇った名刹の魅力を存分に体感できる講座となる。

 勝興寺文化財保存・活用事業団の高田克宏専務理事・学芸員と、平成の大修理に約20年間携わり、副棟(とう)梁(りょう)、棟梁も担った舟木聡史氏(舟木工匠代表)が講師を務める。本堂での講演で壮麗な伽藍が建築された歴史や、大修理について分かりやすく紹介した後、境内の主要な伽藍を巡り、両氏が解説する。

 このうち特別拝観する奥書院「金の間」は要人をもてなすために使われ、襖(ふすま)や壁に金箔が貼られた豪華な造りとなっている。ご本尊である阿弥陀如来像をまつる本堂の内陣も極彩色の彫刻や金箔が施されており、勝興寺の繁栄を今に伝える。

 勝興寺は加賀藩前田家の庇護と、本山である西本願寺との密接な関係の下で隆盛を誇った。西本願寺阿弥陀堂をモデルとして建築され、破格の規模と質を誇る本堂や、浄土真宗寺院の対面所の変遷を示す大広間・式台は歴史的価値が特に高いとして国宝に指定される。経堂や書院・奥書院など残る10棟の建築物も全て重要文化財となっており、江戸時代後期の大型真宗寺院の建物の構成要素を完備している点なども国宝指定の理由となっている。

 講座は午前10時~正午、午後1時半~3時半の2回開催する。定員は各回50人で、事前申し込みが必要。参加費は2千円(文化財協力金500円込み)。申し込み、問い合わせは富山新聞文化センター高岡本部(月~土曜)=0766(26)7000=まで。

勝興寺

2022-10-13
【散策物語】平成~令和の大修理完工記念「国指定重要文化財 勝興寺」"ライトアップとよーさるツアー" ~富山県高岡市~
勝興寺修復工事Web用ダイジェスト
高岡遠近・勝興寺
平成27年 勝興寺「御満座」
国宝になる“勝興寺” 平成の大修理で荘厳な建物がよみがえる…歴史そして関係者の思いは(富山テレビ)

富山県内2例目の国宝になる勝興寺。 去年3月に完了した23年間にわたる「平成の大修理」で、伽藍と呼ばれる壮麗な建物の一部が蘇ったことが、今回の国宝指定につながっています。 関係者の喜びの声と合わせ、その歴史を振り返ります。 勝興寺は、浄土真宗を広めた蓮如上人が、今の南砺市で営んだ「坊舎」が、その始まりで、1584年に伏木の地に移りました。 その後、江戸時代に入り、加賀藩前田家に守られながらおよそ2万6千平方メートルの広大な境内に、今に残る本堂や大広間などの書院群が建てられます。 間口40メートル近くになる本堂は、国内の国宝・重要文化財の寺院の中で9番目の規模を誇り、北陸では他に類を見ない大型真宗寺院として地域の人々に愛されてきました。 しかし、そんな勝興寺も1998年に「平成の大修理」が始まる前は、建立から200年以上の経年劣化で、朽ち果てる寸前だったと住職の土山照慎さんは振り返ります。 *勝興寺 土山照慎住職「それはもうひどかった。境内なんか、いまきれいになっているが、(平成の大修理前は)ぺんぺん草が生えていて、どこに建物があるやら全然わからない。朽ち果てていくのが目に見えていた。ビー玉置いたら部屋の隅っこにころがっていく。雨漏りはひどいは早いこと修復しないと朽ち果てる(と思っていた)」 12棟全てが国の重要文化財となった3年後の1998年に、国や県、高岡市の補助を受け、保存修理の大規模な工事が始まりました。 最初に着手された本堂は、当時、風雪や屋根瓦の重みで、建物自体が最大15センチ 傾いていると言われ、ワイヤーで柱を引っ張り、傾きを直すところから作業は始まりました。 改修工事では、柱の床下部分の接ぎ木など建立当時の作りも徐々に明らかになります。 瓦ぶきの大屋根は、実は建立時、鉛で作られていたことも新たに分かり、亜鉛の板を使って当時の姿を再現しました。 2005年に本堂が完成したあと、住居部分にあたる書院や台所など残りの11棟の修理が始まり、去年3月、23年間をかけた12棟全ての改修を終えました。 2002年から改修工事に携わり、工事終盤では棟梁を担った宮大工の舟木聡史さん。 勝興寺には、江戸時代当時、建築に携わった大工の気心が至る所に見られたと言います。 *修理で棟梁を担った舟木聡史さん「修理中も、勝興寺は良い建物だから絶対国宝になるという思いでやっていた。皆さんに親しまれて、見守られて活用されてという寺になると良いと思う」 23年間の工事を経て、現代に蘇った勝興寺。 囲碁の最高位を決める棋聖戦など、去年は様々な催しが開かれ、1年間の参拝者数は3万832人と、前の年の3倍近くになりました。 今回の国宝指定を、地域の活性化、観光振興のさらなる飛躍に繋げたいと、関係者の期待は高まっています。 *勝興寺 土山照慎住職「富山県、日本の勝興寺だと大いに打ち出して、これからも頑張りたい」 *勝興寺文化財保存・活用事業団 氷見哲正理事長「国宝指定が終わりではなく、むしろ再スタート。今後ますます愛されるようにするためにも、様々な保存活用の施策を講じていかねばならない」 *観光ボランティア・比奈の会 金子榮子代表「国宝に恥じないガイドができるよう努めていきたい」 *伏木校下自治会連絡協議会 坂廣志会長「伏木の誇りである勝興寺が、国宝指定を受けるのは本当にうれしい。伏木住民皆さんで喜びを分かち合って、街の今後の発展に、医勝興寺を中心とした街づくりになっていけば良い」 23年間の「平成の大修理」でかかった費用はおよそ70億円。 そのうち2億円あまりは、地元住民や門徒などからの寄付だそうで、地元の伏木と古府、2つの自治会が毎年寄付金を出し、工事を支えてきたそうです。 江戸時代の壮麗な姿が今に残り国宝指定に至ったのは、寺を大切に守り続けてきた門徒や地元の人たちの努力があったからこそだといえそうです。

富山テレビ放送

山科本願寺

2022-08-10
Facebook 安藤 秀明さん曰く、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)にて 復元模型は御影堂のみでした。
Facebook 岩谷 圓祐さん曰く、 やはり、北に御影堂があり、南に本堂ですね。
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