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支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

美濃部達吉

2020-09-27

吉野作蔵

2020-09-27
Facebook佐々木信雄さんのコメント
【20th Century Chronicle 1916年(t5)】
◎吉野作蔵 民本主義
*1916.1.-/ 吉野作蔵、大正デモクラシーの支柱、民本主義を説く。
 東京帝国大学教授吉野作造は、1916年(大正5年)「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論1月号』)という論文を発表、民本主義を説いた。すでに1912年(大正元年)には、美濃部達吉が天皇機関説を発表しており、同じ帝大教授で天皇主権説を唱える上杉慎吉らとの間で激しい論争が展開された。
 「主権」という概念は、法理論的には「国家の統治権としての主権」と「国家意思の最高決定権としての主権」とに分けられる。美濃部らの「天皇機関説」は後者の主権だけが国民にあるというものであったが、誤解され批判にさらされた。
 そこで吉野は「民本主義」として、主権の所在を問わないという建前をとった。「democracy」を「民主主義」と訳すると「主権在民」とされ、当時の大日本帝国憲法における「天皇主権」と対立することになるのを避けたためであった。
 吉野作造は、主権はたとえ天皇(君主)にあっても、国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民にあるべし(民本主義)と主張した。つまり、主権者はすべからく一般人民の利福意向を重んずべきであり、「政権運用の目的は特権階級ではなく人民一般の利福にある」ので「政策決定は民意に基づくべき」として、実質的な民主的政治をとなえた。
 吉野作造の民本主義は、大正デモクラシーを大いに高揚させる一因となった。ただし、吉野の民本主義論の主眼は、いかにして国民が政治主体となるのではなく、いかに善き執政者に政治をゆだねるかという点にあり、悪しき為政者だとどうなるかは、のちの軍国主義の時代を見れば明らかである。同時に、大正デモクラシーの限界は、「民主主義の空気」だけに浮かれた点にあったと言える。
(この年の出来事) 
*1916.2.21/ ベルダン要塞をめぐって、独仏両軍、一進一退の大攻防戦を展開。
*1916.5.9/ 英仏露が、秘密協定「サイクス・ピコ協定」で、オスマン・トルコのアラブ地域を勝手に分割。
*1916.10.4/ 大隈重信首相が辞表を提出。大隈は立憲同志会 加藤高明総裁を後継に指名するも、山縣有朋ら元老会議側が推す寺内正毅朝鮮総督が首相に就任する。
*1916.109/ 寺内内閣が成立する。政党の意向を無視して元老会の意向で成立したので「非立憲内閣」と呼ばれた。寺内の通天閣のビリケン像に似た容貌から「非立憲(びりけん)」ともじられた。
*1916.6.5/ アラブ民族の独立をめざし、メッカの太守フサイン(フサイン・イブン・アリー)が、英軍情報将校 トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)の支援の下で立上る。

菅義偉

2020-09-16
自由民主党総裁から第99代内閣総理大臣へ!
外交の端緒は、トランプ大統領との電話会談でした。

特使は、外交の安倍が承ります。 

2020-09-22

安倍晋三

2020-09-18
日本国 第90・96・97・98代内閣総理大臣
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